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Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由⑨

失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生

登場人物
僕=筆者。光明台JSC-ガンバ大阪堺ジュニアユース-ガンバ大阪ジュニアユース-ガンバ大阪ユース-関西大学体育会サッカー部。16年間のサッカーキャリア。現役引退後は毎日サッカービジネスを妄想中。

シマ。早熟スピードスター。悩めるサッカーモンスターのイケメン純粋ボーイ。得意のプルアウェイでキーイチ名人。

えも。絶対敵にしたくない男No.1。やんちゃの度合いが想定外で、典型的な大阪人。ファッションモンスターかつ恋愛マスター。

あらた。NEWJIファウンダー。ガンバ大阪、京都サンガ、清水エスパルス、セレッソ大阪、大分トリニータで活躍。清水エスパルス時代はキャプテンマークをつけて試合に出場していた。現在はガンバ大阪の指導者として活躍。

すぐる。SGGK(スーパーグレートゴールキーパー)で、ジュニアからずっとガンバ大阪で育ち、プロ生活はガンバ大阪、FC岐阜、徳島ヴォルティス、奈良クラブ、バンディオンセ加古川、高砂ミネイロFCでゴールマウスを守り続けている。

前回までのストーリー
序章(少年期①)~サッカーの楽しみを知る~
序章(少年期②)~サッカー以外はワクワクできない~
序章(少年期③)~ただ今成長中、むしろピークを迎えたか~
序章(少年期④)~サッカーは何が起こるかわからない~
序章(少年期⑤)~全日本少年サッカー大会全国大会~
第一章(青年期①)~知る人ぞ知る、南大阪の強豪ガンバ堺~
第一章(青年期②)~エリート集団はプライドの塊~
第一章(青年期③)~三島から全国へ~

第一章(青年期④)~日本一のサッカー選手~

1982年生まれの最強選手との出会い

関西トレセンで参加した地域別トレセンの代表としての全国大会で、
大会の最後に優秀選手だけでチームが構成された東西対抗戦に出場した。

それまでは生粋のFWであり所属クラブでも1試合2ゴールを量産する点取屋と自負していたが、
当大会から本格的にMFに転向したことを覚えている。

この大会でどういう経緯でMFヘコンバートされたのかは覚えていないし、伝えられてもいなかったが、
当時の僕は中学生にして180cmを超える2人のFWを生かすためのコンバートであると考えていた。

MFでプレーすることは別に苦でも楽でもなく、
ゴールからは遠ざかり、点取屋というよりはゲームメイクやパサーを意識していたが、
ポジション柄、FWよりは視野が遥かに広く保てて、ボールを受ける角度や方向も幅が広がった。

要するにプレーの幅がこれまでよりも広がったとも言える。

今大会では関西選抜の一員として、全国から集まった色んな選手と戦うことで、
自分自身の今いるレベルや通用したことしなかったことがハッキリとわかった。

チームは残念ながら決勝戦に進むことができなかったが、
自分自身のプレーは全国でも問題なくやれたことで自信を持てた部分もあった。

しかし、そんな想いもある選手のプレーを間近で観た途端に、
一種の恐怖さえ感じるほど心から込み上げてくる想いに浸ることとなった。

国立スポーツ科学センター(西が丘)サッカー場(味の素フィールド西が丘)で行われた今大会の決勝戦をスタンドから観戦して、僕はピッチ外で中学生ながらに同世代のサッカーを観て感動したのである。

決勝戦のカードは東海選抜対どこかは記憶にないが、
東海選抜のとてつもない記憶が脳裏に焼き付きすぎて、他を思い出せない状態だ。

佐野裕哉と鈴木良和

他にもいい選手(のちにJリーガーとなる選手)はいっぱいいたが、
当時のこの2人のコンビは決して忘れることはできない。

決勝戦をスタンドで観戦していた時、
僕は当時流行っていたglobeの「FACES PLASES」を聴きながら観戦していた。

今でもその曲を聴くと、この時の記憶が鮮明に蘇り、
スタンドで一人音楽を聴きながら愕然として観ていた彼らのプレーを思い出す。

特に、佐野裕哉のプレーは言葉に言い表せないほどの衝撃であり、
彼は当時、僕の中では日本で一番うまい選手だと感じた。

U-15日本代表候補

大会を終え、大阪に戻り、いつものようにガンバ大阪ジュニアユースで練習をする日常に戻った。

月曜日、毎週決まって日曜日の練習試合や公式戦の後、チームの練習がオフであったが、
僕のオフはなぜかすぐるがいつも勝手に僕の分まで予定を決めていた。

たまにボーリング、江坂でゲームセンター、そしてカラオケ好きのすぐるに付き添いよく歌っていた。
すぐるの実家にもよく遊びに行った。中学生にしては行動範囲が広かったように思える。

その週の月曜日は珍しくすぐるからの誘いもなく、自宅でテレビを観ながらオフを過ごしていた。
家には母親と二人、ソファに座りながらゆっくりしていた時、自宅に電話が鳴った。

母親が電話で僕を呼び、ガンバの人からだよと声をかけてくれた。
滅多に電話なんてこないので、なにかしたかなと思いながら受話器を持った。

「8月に北海道でU-15日本代表合宿があるんやけど、おまえが選出されたわ。」

僕は受話器を置いた後、自分自信のこととは捉えきれずにいながらすぐさま母親に報告し、
涙しながら喜んでくれる母親を前に、自分も感極まって涙を流し喜びあったのを覚えている。

僕が日本代表合宿に参加するなんて夢にも思ってなくて信じられなかったが、
次の日、この合宿にはすぐる、あらた、僕の3名が関西から参加することを監督から教えられた。

U-15日本代表始動の瞬間

8月夏真っ盛り、大阪はジメジメしてとても暑く、
とてもじゃないけど外で何時間もサッカーをしていられる状態ではなかったけど、
それでも外でボールを蹴り続けている僕たちがいた。

とにかく、中学育成年代の選手は体調管理など気にせず、
大好きなサッカーに明け暮れる毎日を送っていた。

チームでも正式に発表があり、チームメイトみんなの前で「頑張ってきます!」と宣言し、
一時的にチームを離れ、すぐると僕は一緒に北海道へ飛行機で向かった。
その時は確かあらたは現地集合だった気がする。

夏でもかなり涼しく過ごしやすい北海道で待ち受けていたのは、
テレビでよく見かける日本代表のジャージを着ているコーチやスタッフだった。

挨拶を終え、2人部屋に通され、僕は誰が同部屋になるかもわからぬまま部屋に入った。
部屋に入ると僕が先に到着していたようで、同部屋の選手が来るのをまった。
間もなくして部屋に入ってきたのは川田和宏だった。

お互い方言(僕は大阪弁、川田和宏は九州弁)で軽く挨拶をして、
他愛もないことを話していたような気がする。

川田和弘は僕と同じくレフティで、後の練習で知ることになるがとてつもなくうまく強い選手だった。

僕はこの合宿を通じてサッカーを楽しんでいたとは言えず、
緊張とレベルの違いを目の当たりにし、
日本でも全国に目を向けると同じ歳でとんでもないやつばかり集まっていることに、ただただ圧倒されていた。

今合宿では、合同練習の他、当時コンサドーレ札幌ユースとの試合などが組まれていた。

育成年代で練習や試合で緊張することはある。環境が変われば尚更緊張することもある。
しかし、周りを気にしすぎて自分の本来のプレーを出せず悔やむよりも、
純粋にサッカーを楽しむことを決して忘れてはいけない。

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