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Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由


誰よりもサッカーを愛し、誰よりも強くJリーグ入りを希望していた選手が、なぜJリーグのピッチに立てなかったのか。


これは、とあるサッカー少年の実話に基づいたストーリーです。16年間のサッカー選手人生で、ガンバ大阪のアカデミーで育ち、2度クラブとして日本一のタイトルを獲り、個人として世代別日本代表候補に名を連ねた若者を取り上げ、各世代で実際に経験したことをストーリー風にしてみました。


実体験に基づいたストーリーと聞くと、どちらかと言えば「成功体験」をイメージするかもしれませんが、このストーリーはJリーグのピッチに一度も立てずに、サッカー人生を引退した少年の「失敗体験」です。


凡人は自分の失敗から学び、賢人は他人の失敗から学ぶ。


そんな言葉を聞いたことがありますか?


どんな世界でも共通していえるかと思いますが、失敗をすることが成長する糧になるのは間違いありません。しかし、自分と同じ境遇の人が過去に犯した失敗を、知っているのと知っていないのでは、今後の人生で大きな差が生まれます。


サッカー少年が本気でJリーグを目指しているのであれば、同じ失敗を繰り返さないための失敗参考書として目を通していただければ幸いです。


本日から数回に分けて、気長に「失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生」を完成させたいと思います。是非、継続してご一読ください。


失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生


登場人物
僕=筆者。光明台JSC-ガンバ大阪堺ジュニアユース-ガンバ大阪ジュニアユース-ガンバ大阪ユース-関西大学体育会サッカー部。16年間のサッカーキャリア。現役引退後は毎日サッカービジネスを妄想中。


序章(少年期)〜サッカーの楽しみを知る〜


タイヤの公園から始めたサッカーキャリア



Jリーグが開幕して間もなく、ワールドカップ予選で日本代表が「ドーハの悲劇」を経験したのは、僕が小学生5年生の時であった。


ドーハの悲劇
出典:http://obamah.seesaa.net/


そんな日本サッカー界の悲劇を迎えることになる数年前、私は大阪の南に位置する堺市から和泉市に引っ越をした。ちなみに和泉市の光明台という地区は泉北ニュータウンには含まれない。光明台地区は人口約7100人ほどの小さな街である。


僕が小学生に入学する直前、光明台の北と南にある2つの小学校で、1つのサッカークラブが設立された。それが僕のサッカーキャリアをスタートさせることになった「光明台少年サッカークラブ」。通称「光明台JSC」である。


正確に言うと、僕のキャリアは光明台JSCに入る前、家の近所にある「光明台4号公園」で始まった。遊具にタイヤを用いることをコンセプトにしていたことで、この公園は少年たちの中で「タイヤの公園」と呼ばれていた。だから、僕のサッカーへの情熱のルーツは全てここにあると言ってもいい…はず。


僕はこのタイヤの公園でサッカーの基本を学んだ。


サッカーを楽しむ


それが全てである。


タイヤの公園では、僕より歳が3つ上で、稲本潤一選手や小野伸二選手ら率いるゴールデン世代に生まれた兄貴と、その友達らと一緒にサッカーをしていた。小学生に入る前であったが、ほぼ毎日のようにサッカーをしていたかもしれない。


公園に行くと誰かがボールを蹴っていて、気が付けば人数が増えている。そして、自然とチームが分かれて、いつも決まって木と木の間をゴールに見立てていた。僕らがサッカーのルーツを学び、育ったのはそういう時代だ。


いつしか僕のニックネームは、兄貴の弟の「ジュニア」から「タックル名人」に変わっていた。当然ながらタイヤの公園は土と砂利の公園であり、そのニックネーム通りに両脚のお尻の側面は血だらけであった。どうやら僕は小学校入学前にして、スライディングタックルの名人であったらしい。


スライディングタックル
出典:http://www.goo.ne.jp/


ただ、あの頃から常に僕のサッカーにおけるベースはこうだった。


年上と一緒にサッカーをする


いつも上に引き上げられていた感があった。


ただ、小学校入学前の自分にアドバイスができるなら、僕は自分にひとつだけこういうかもしれない。


スライディングタックルでサッカーの楽しみを覚えたなら、次はドリブルの楽しみを見つけたらどうや


遊びで身につけるサッカー技術


光明台にある2つの小学校の内、家に近い「光明台南小学校」に入学した。低学年で何をしていたかははっきり覚えていないが、中学年である3年生、4年生のころと言えば、当時仲のいい友達の中で流行っていたのは「北斗の拳ごっこ」か「廊下サッカー」と呼ばれる遊びだった。


北斗の拳ごっこは、今思えば小学生にしては危険な遊びかもしれない。いや、小学生でなくてもそんなことすれば暴行罪で警察に捕まるかもしれない。ルールは至って簡単。仲間内でどこでも誰でも、ただプロレス技をかけるだけだ。


16文キック
出典:http://blogs.yahoo.co.jp/


僕の場合、見つけた相手にいきなり「16文キック」で先制攻撃をする。でなければ、後ろからでも横からでも前からでも、確実に「ドロップキック」を喰らうからだ。そうならないためにも、常に周りを見る「ルックアップ」は、その頃から習慣化されていたのかもしれない。


サッカーでも周りを見ている選手は多いが、実際に状況を把握できているかは疑問である。周りを見ることは、見たものが「どういう状況」で「どのような状態」かを確実に把握しなければならない。でなければ後で痛い目に合うのは自分である。


それにしても、なぜこの遊びの名前が「アントニオ猪木ごっこ」ではなかったのかと不思議に思う。


もう一つの「廊下サッカー」はその名の通り、廊下でサッカーをするだけだ。ただ、ボールはサッカーボールの4号にも満たない大きさだった。大抵は10分休憩や掃除の時間におこなわれた。そこでも決まったルールがあった。それは、参加するには自分が誰かを名乗って、その選手になりきってプレーする必要があったのだ。


僕の当時のお気に入りは、福田正博。と言うより、2つ上の姉が好きだった福田正博しか知らなかったと言った方がいいかもしれない。当時はまだサッカー熱は高くなく、テレビで放送されることもほとんどなかった。唯一、正月の天皇杯だけは家族みんなで見ていた記憶がある。


福田正博のプレースタイルも何も知らなかったが、僕は彼が好きだった。何に惹かれたのかは分からないが、彼にファンレターも書いた記憶がある。返事がきたかどうかは覚えていないが、返事を待つよりも書きたいと言う願望が強かったようだ。


純粋に自分がしたいことをする


当時の僕は、既に周りの中で目立つ存在であった。単純に足が速かったからだ。そして、自分で色んな遊びのルールを作ることが好きだった。「廊下サッカー」のルールも少しずつ発展し進化して、高学年になるころには皆がその遊びを「アルシンド」と呼ぶようになった。ハッキリ言ってその名前の原形はない。そして、ルールも変更点が多すぎて、もはや別の遊びといっても過言ではない。


光明台南小学校内で一世風靡した「アルシンド」。その最終ルールはこんな感じである。フィールドは外。ゴールを一つだけ設定して、後は無限大に広がるピッチ。ゴールの裏でもゴールの上でもどこでもプレーは続行している。


そして、何より誰でも参加できる。プレーヤーは2人でも10人でも20人でも問題ない。たった一つのルール。それは、ボール保持者vsその他である。ボール保持者は全員を相手にする必要がある。だから、常に数的不利の状況でゴールを目指さなければならなかった。


中にはゴール前で武田修宏以上にごっつあんゴールを待っているプレーヤー。とにかくどこまでもボールを奪おうと必死についてくるプレーヤー。そんな彼らを全て相手にして、ゴールを奪うだけの究極の遊びが「アルシンド」。


アルシンド
出典:http://www.nippon.com/


後の小学生最後の学年である6年生の時、小さな町の小さなサッカークラブは、大阪府下の強豪クラブを次々に大量得点で下し、全日本少年サッカー大会に大阪府代表として初出場を果たした。その原動力となったのは、おそらくこの「アルシンド」で鍛えられた得点力ではないかと思っている。


遊びの中で身に着ける、それが究極のサッカー上達方法

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