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Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由②


失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生


登場人物
僕=筆者。光明台JSC-ガンバ大阪堺ジュニアユース-ガンバ大阪ジュニアユース-ガンバ大阪ユース-関西大学体育会サッカー部。16年間のサッカーキャリア。現役引退後は毎日サッカービジネスを妄想中。


岡田君=1つ上の先輩。地元が隣町。ガンバ大阪堺ジュニアユース、ガンバ大阪ユースでチームメイトとなる。佐藤寿人、松井大輔、石川直宏、阿部勇樹、中居時夫そして岡田君。ジャニーズ系のイケメン。


前回までのストーリー
序章(少年期)~サッカーの楽しみを知る~


序章(少年期②)〜サッカー以外はワクワクできない〜


時間がなければ時間をつくる


小学生の頃は何をしていても楽しさを感じることができる。それは、すべてのことに対して好奇心旺盛であるからだろう。ただ、僕はサッカーに対しては、なぜか特別な想いを既に感じていた。サッカーをプレーする楽しさが、他の何かをすることと比較できないほど楽しかったからだ。


なぜ、そんな感情が生まれたのかは分からないが、ゴールを決める喜びが何よりも楽しかったのを記憶している。サッカーはゴールを奪い合うスポーツだと、その時から頭で理解していたようだ。


サッカーはゴールが目的


僕は高学年となった。自分のクラスには、新任の先生担任がついた。5年生と6年生はクラス替えはなく、クラスメートにはサッカー仲間が多かった。Jリーグが開幕した年であったため、サッカーブームの恩恵を受けていたのか、土日は野球のクラブで練習している仲間たちも学校の休憩時間は校庭に集まった。みんなでサッカーをするのがとても楽しかった。とにかくサッカー。10分休憩も20分休憩もお昼休みも放課後も。


Jリーグ開幕
出典:http://www.jleague.jp/


新任の先生はなぜかオドオドした感じであった。自分に自信がなかったのか、発言の一つ一つに力を感じることはなかった。結果、11歳12歳のガキんちょをまとめきることができず、そんな態度の先生を見たガキんちょたちは完全に調子に乗り始めた。


ガキんちょは調子に乗れば止まらない。そして、周りの誰かが調子に乗ると、それは伝染する。そう、悪ふざけは伝染するのである。


すぐさま僕は行動にでた。むしろ、率先してクラスメートを巻き込んだ。なにをしたかと言うと、体育の時間は学校で決められた他のプログラムがあるにも関わらず、すべてのプログラムを中止して勝手にサッカーに変更したのである。そこから僕らのクラスでは体育の時間はサッカーの時間となったのだ。


教室の窓から他のクラスのサッカー馬鹿たちが、体育の時間にサッカーをしている僕たちをうらやましそうに校庭を見ている。どうやら、彼らもサッカーがしたくてたまらないようだ。もちろん、クラスメート全員がサッカーをしているわけではなかったが、基本的に僕の仲のよかったグループは、みんなで「アルシンド」を楽しんでいた。


光明台南小学校
出典:http://www.city.osaka-izumi.lg.jp/


僕らの小学校はグラウンドがかなり大きかったので、怒った先生が捕まえにこようがドリブルで交わして逃げていく。「アルシンド」のプレー中は、例え担任であろうが校長であろうが、それはただの相手に過ぎない。とにかく、激しくタックルをしてくる相手全員をかわしてゴールするだけが目的であったからだ。


ガンバ堺ジュニアの藤枝遠征


僕は光明台JSCでフォワードをしていた。5年生ながらも6年生の試合で自称エースだった。6年生の先輩には上手い人がいたけれど、自分の中で先輩には負けていない気がしていた。それほど気が強かったと言ってもいい。ただ、自分の置かれたサッカー環境は決して成長スピードを上げてはくれていなかった。


自分が一番だと感じるサッカー環境は、決して成長スピードを早めてはくれない


ある日、僕はガンバ大阪堺スクール(当時の呼名はガンバ堺ジュニア)から、静岡の藤枝に参加する「藤枝遠征」のメンバーに招集された。僕のクラブからは僕を除く6年生5名にも声がかかった。藤枝遠征では、普段からスクールに参加していない僕らのような選手も参加できたようだ。


大阪の南に位置する堺市を中心に、ガンバ大阪堺スクールは活動していた。僕らの学校は和泉市であったが、ガンバ大阪堺スクールの練習場からも近かった。だから呼ばれたのかは分からないが、僕にとっては初めて自分の学校以外の選手と交流できる機会であった。どうやらこの大会では寄せ集めのメンバーが集結したようで、堺市選抜と自負している選手もいた。


確かにその時感じたことは、自分が普段プレーしている環境を少し変えてみると、周りには上手い選手がゴロゴロ存在することだ。それは同じ年齢でも存在するし、先輩に至っては1年でここまで差がつくかと感じるほど。さらに、1つ下の学年でも上手い選手が存在することに気付かされた。


例え意味がないと感じていても、自分のクラブから外にでてプレーする環境、すなわちトレセンや違うクラブの練習参加はした方がよい


藤枝といえば、当時アビスパ福岡の前身である藤枝ブルックスが活動していた場所だ。また、その藤枝がある静岡と言えば、全国で最も有名なサッカー王国と呼ばれていて、「藤枝東」「静岡学園」「清水東」「清水桜が丘(旧清水商業)」などの強豪校からは、非常に多くのJリーガーが輩出されている。


ハッキリ言って、結果がどうであったかは覚えていないが、その時、同じく他のクラブから参加していた1つ上の先輩に11歳ながらも感銘を受けた。その先輩は岡田先輩。いや、彼を先輩と呼んだことがないので、岡田君と呼んでおこう。


彼は既に12歳で抜群のテクニックとサッカーセンスと持ち前のルックスで、堺市界隈では有名だったようだ。確かに岡田君の地区と光明台は隣街であったため、どことなく噂は聞いていた。しかし、それまでにプレーをみたこともなければ、一緒にプレーしたこともなかった。


あの時、藤枝遠征に参加していなかったら岡田君のプレーに感銘を受けることはなかったかもしれないが、自分のサッカー観や普段みている世界を拡げてくれたのは間違いなかった。


その時、うまれて初めてサッカーで負けた気がした。悔しかった。受け入れられなかった。だから、藤枝遠征以降は「アルシンド」やクラブの試合でめちゃくちゃ努力した。しかし、努力しても努力しても追いついている感じはしなかった。11歳の時に感じた初めての挫折が、その後の成長につながっていたと今でも思う。


サッカー挫折
出典:http://goodluckjapan.com/


失敗や挫折を感じる瞬間が、成長するチャンスだと思え。今感じているどうしようもない気持ちは、成長の前兆にすぎない

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