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Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由⑦

失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生

登場人物
僕=筆者。光明台JSC-ガンバ大阪堺ジュニアユース-ガンバ大阪ジュニアユース-ガンバ大阪ユース-関西大学体育会サッカー部。16年間のサッカーキャリア。現役引退後は毎日サッカービジネスを妄想中。

大樹君。1つ上の先輩でドリブル、パス、シュートの技術を兼ね備えた寡黙なエースストライカー。公私ともに数々の伝説を残したむっつりサッカー大好き人。

あきら君。1つ上の先輩で宮澤ミッシェルを唸らせた男。兄貴は大黒将志、独特のリズムで相手を抜き去るドリブラー。

シマ。早熟スピードスター。悩めるサッカーモンスターのイケメン純粋ボーイ。得意のプルアウェイでキーイチ名人。

えも。絶対敵にしたくない男No.1。やんちゃの度合いが想定外で、典型的な大阪人。ファッションモンスターかつ恋愛マスター。

岡田君。1つ上の先輩で地元が隣町。ガンバ大阪堺ジュニアユース、ガンバ大阪ユースでチームメイトとなる。佐藤寿人、松井大輔、石川直宏、阿部勇樹、中居時夫そして岡田君。ジャニーズ系のイケメン。

けいた。1つ上の先輩で地元が隣町。「間ちゃん」の考案者。けいたがJリーガーになっていれば、おそらくストライカー不足は解消されていた。とにかく日向小次郎なみのゴリブルと、本田圭佑なみのキープ力を持つ内股ストライカー。好きな言葉は「あつい!」。

前回までのストーリー
序章(少年期①)~サッカーの楽しみを知る~
序章(少年期②)~サッカー以外はワクワクできない~
序章(少年期③)~ただ今成長中、むしろピークを迎えたか~
序章(少年期④)~サッカーは何が起こるかわからない~
序章(少年期⑤)~全日本少年サッカー大会全国大会~
第一章(青年期①)~知る人ぞ知る、南大阪の強豪ガンバ堺~

第一章(青年期②)~エリート集団はプライドの塊~

大阪の南から北への移籍

中学2年生の春、新学期は引越し先の新しい学校と新しいチームに所属していた。学校は一つ上の先輩が少し荒れていて、光明台では見たこともない絵に描いたようなヤンキー集団がいた。

肝心のサッカーはガンバ堺ジュニアユースからガンバ大阪ジュニアユースへ移籍した。おそらく指導者間の話し合いで、セレクションを受けることなくすんなりと移籍ができたとは思うが、今思えば当時の僕はどのクラブも欲しがるぐらいそこそこのプレーヤーだったかもしれない。

ガンバ大阪ジュニアユースの練習場は、新しい家から自転車で10分の吹田市、箕面市、茨木市の境目に位置していた、茨木日生グラウンドで行われていた。土のグラウンドで季節によってはタケノコの異臭が漂う。また、本来は野球がベースのグラウンドであるため、いくつかのグループで練習するには一人当たりのプレー面積が狭いことが嫌だった。

大阪の南に存在する泉北から北の北摂へ移籍したことは、言葉の面でも多少違いを感じた。移籍直後に自転車で試合会場へ向かったある日、僕は普通に泉北で使っていたように話した時、「なんやねんその言葉」と同い年のえもに言われたことが今でも忘れられない。とにかく、南から北への移籍は、環境が大きく変わり人間としての成長を感じることができた。

勝手な言い分ではあるが北摂に引っ越した僕は、泉北がとても田舎で素朴な町であったと感じていた。北摂はどこかしら品が良い。その中でも一番対応に困ったのは、試合会場までの道中で選手たちが身にまとう服だった。

全身ジャージ姿であったガンバ堺に対し、みなそれぞれの個性を見せつけるかのようなファッションセンスのある私服移動であったガンバ大阪。僕は私服と言う私服を持っていなかったので、中学二年生でコム・デ・ギャルソンを着こなす周りについて行くのには時間が必要であった。

生き残り争いが強く、チーム力の弱いクラブ

ガンバ大阪ジュニアユースの選手同士は普段は仲が良かったが、グラウンドに立てば先輩後輩や友達なんて関係なかった。実力勝負のサバイバル。上手い選手がさらに上のカテゴリへ引き上げられるシステムがあり、練習自体は常にピリピリした状況で、おそらく指導者も選手をそのように仕向けていたと思われる。

どこのチームに属しても、試合に出場するスタメン選手は11人。そのポジション争いは極めて熾烈な戦いであった。圧倒的なキングのポジションを手にしていたのは大樹君。背番号10番が良く似合う選手であり、ガンバ大阪のエースストライカーである。ガンバ堺でも岡田君のサッカーセンスが光って見えたが、大樹君は岡田君とはまた違う輝きを放っていた。

僕は元々FWの選手であったが、ガンバ大阪のフォーメーションは2トップが基本。その2人の枠には絶対的な信頼を得ていたあきら君とシマがいた。

あきら君はガンバ大阪ジュニアの出身で、指導者からも抜群の信頼を得ていた。シマは僕たち82年組の同じ歳では、日本一のエースストライカーと言っても過言ではない選手として既に出来上がっていた。そんな2人を相手に新入りの僕がどうやってポジションを奪うのか。レフティと持ち前のユーティリティを発揮して、ポジションを一つ下げる他なかった。

それぞれの選手が強烈なポジション争いを繰り広げていたため、練習や試合でも常に指導者へアピールするため、個々人がボールの手離れが非常に悪かった。選手一人一人の能力は非常に高かったが、チームとしての強さはガンバ堺の方が上だった。

大分別府の合宿で勝ち得たマイプレイス

移籍して初めての練習参加は春休みに行われた大分県別府市での強化合宿だった。合宿初日はフェリーで大分まで移動すると、到着して軽く汗を流す程度かと思いきや、早速陸上競技場を使って10km走が行われた。

そもそも10kmなんて走ったことなんてないし、景色も変わらない400mトラックを永遠と回り続けるなんて洗礼を浴びたようだったが、誰もが同じ状況だったので、仕方なく走りきるしかなかった。

僕は短距離もそこそこ早かったが、どちらかというと長距離走が得意で、中学一年生の時に光明台中学校の5kmマラソンを16分52秒の大記録を残していた。本当に5kmあったかは不明だが、おそらく今でもその記録は抜かれていないだろう。

同じペースで走り続けることができる自分は10km走でもトップグループに位置していたが、どうしても抜けない先輩がいて2位で走り終えた。いきなり現れた新人の記録にみなが驚きを隠せず一目を置くようになった。

練習でもそこそこアピールができたので、すぐに周りと溶け込むことができたが、年頃の選手の中には自分のポジションを奪われる危機を感じて僕への当たりや態度が悪い選手もいた。しかし、そんな風当たりも実力主義の前では全く意味を成さなかった。

僕は初めての合宿でトップチームのレギュラーポジション争いに勝ったのだ。ひし形4枠の左、左サイドハーフが自分が勝ち得たガンバ大阪ジュニアユースでのポジションだった。背番号は7番。

得点力の高いチャンスメーカー

僕が中学2年生の時のチームは、大樹君とあきら君を中心にチームが構成されていた。ガンバ堺では岡田君とけいたと阿吽の呼吸でボールを扱い得点を量産していたが、ガンバ大阪ではその役割が大樹君、あきら君、シマの3人であった。

自分がどのような役割に回れば良いか正直試行錯誤だった。今まで自分を中心にサッカーをしていたので、自然とボールを触る回数も多かった。左サイドハーフだからと言って遠慮することはないのだが、いつの間にか自分はチームのチャンスメーカー的な存在になっていた。要するにアシストや決定的なチャンスを作る側の選手である。

おかげさまで大樹君には使える選手として認められたようだが、自分の中では不完全燃焼な気がしてならない。何が足りなかったのかというと、ゴール以外のなんでもなかった。やはりゴールを決めてこそ自分がサッカーに対する楽しみや幸せを感じる場面が多かったからだ。

ある程度自分のプレーがチーム内でも認められ、指導者からも信頼を得るようになってきた頃、僕は指導者にゴールに向かうプレーを要求され始めた。

自分の中で秘めていた得点力をようやく思う存分発揮することができる命令が下ったのだ。何かの呪縛から解放された気がした僕は、持ち前の得点力を発揮してゴールを量産した。

ようやく得点力の高いチャンスメーカーとして、自分のサッカーを取り戻したようだった。

誰かに合わせるサッカーか、自分のプレーを貫くサッカーか。
選手によって異なるが、自分の力がチームに貢献できる方を選択する他ない。

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