Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由⑤


失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生


登場人物
僕=筆者。光明台JSC-ガンバ大阪堺ジュニアユース-ガンバ大阪ジュニアユース-ガンバ大阪ユース-関西大学体育会サッカー部。16年間のサッカーキャリア。現役引退後は毎日サッカービジネスを妄想中。


前回までのストーリー
序章(少年期①)~サッカーの楽しみを知る~
序章(少年期②)~サッカー以外はワクワクできない~
序章(少年期③)~ただ今成長中、むしろピークを迎えたか~
序章(少年期④)~サッカーは何が起こるかわからない~


序章(少年期⑤)~全日本少年サッカー大会全国大会~


選手宣誓



大阪府代表として、第18回全日本少年サッカー大会に参加することになった。これまでにも数多くのJリーガーや日本代表を輩出しているこの大会に、小さな町クラブが大阪府を代表して初出場することになんの違和感もなく、臆することもなかった。


大阪人の特性で前に出たがることを考えれば当然のことだが、大阪弁を話す小学生が一堂に集まると、その場所がどこであろうと必然的にその場所は「大阪」に変わるからだ。まさにアウェイをホームにする力を持っている唯一の街、それが大阪である。


そして、僕たちの街である和泉市と言えば、他府県の方からすると少し距離を置きたくなると聞いたことがある。それは、ナンバープレートに「和泉」と書いてある場合、割り込みや乱暴運転に注意した方がよい言う噂が流れているからだ。ただ、和泉ナンバーを掲げている当の本人たちは、そんな噂自体を知らないのだろう。



出典:http://www.is-auto.com/


よみうりランド・ヴェルディグラウンド(読売サッカー場)で開催されていたこの大会へ向かうため、チームのみんなで東京移動することになった。ろくに関西を出たことがない生粋の大阪人集団は、移動中に新幹線の中から東京タワーを発見した時の興奮と感動を忘れはしない。


会場では指導者やチームの保護者たちは、初めて大会に参加することで要領をつかみきれていなかった。そして、大会運営側から私たち初出場のクラブに「選手宣誓」の依頼がきた。なぜだろう?


今になって思えば、大会スポンサーである「アディダス」からのご指名により「選手宣誓」の白羽の矢が立ったようだ。そう、当時の僕たちのユニフォームは「アディダス」でも三つ葉のトレフォイルロゴを身にまとっていたからだ。


僕たちのキャプテンはとてつもなく緊張していた様子だった。彼は比較的真面目なやつで、友達のでも公の前でもボケるようなことはしない。大阪を代表するぐらいだったので、少しぐらいボケたほうが歴史に残ったかもしれない。


と、そんな僕の心配は無用だった。なぜなら僕たちのキャプテンはわざわざボケたわけではなかったが、天然ボケで周囲を爆笑させることができたからだ。彼は大会本番の場で、まさかの途中やり直しを自己申告。しっかりとマイクに「すみません。もう一回やり直してもいいですか?」と言ったのだった。


全日本少年サッカー大会選手宣誓
出典:https://www.youtube.com/


そんなスタートを切った僕たちは、予選リーグを戦うことになった。


予選リーグを勝ち上がる


予選リーグでは僕たち強力な3トップが順調に得点を重ねて勝ち点を積み上げていった。僕たちは1戦だけ引き分けたが負けなかった。と思う。
※詳細は記憶にない


唯一引き分けた試合では、3-3の撃ち合いとなったが、僕は初めて全国大会でハットトリックを達成した。まぁ相変わらずの得点力を発揮していたようだ。


一日に2試合を午前と午後に戦っただろうか。そして、連日試合があったため、そこそこ疲れたことを覚えている。そして、何よりよみうりランドは当時カーペットのような人工芝で、真夏に行われてたいた大会で暑さがハンパなかった。無論、熱射病で倒れた選手が救急車で運ばれるシーンもあった。


2014年大会で真夏の開催は最後となり、2015年大会からは冬開催に移行している。子どもの体調を考えたら当然の処置であるが、全日が6年生最後の大会という位置づけでは、冬開催が余計に記憶に残る


いざ決勝トーナメントへ



当時日本サッカー協会強化委員長をつとめていた「加藤久」がグラウンドに来ていたことを強烈に覚えている。このころJリーグを生で観戦したことはなかったので、初めてのJリーガーと出会ったことになる。


会場によってはよみうりランド近くの土のグラウンドで試合が行われた。決勝トーナメント一回戦は、石川県代表の金沢南ジュニアサッカークラブ?(旧金沢南サッカースポーツ少年団?)。このクラブは全国で最多出場を誇る名門クラブであり、田辺和彦を輩出している。
※記憶違いでクラブが異なる場合は訂正いたします。


ここまで来ると全日本少年サッカー大会の常勝軍団ばかりを相手にすることになる。結果は4-3の勝利。右利きのチームメイトが蹴った右コーナーキックが直接ゴールに吸い込まれ、それが決勝点となったのだ。


二回戦は北海道代表の札幌FC?(札幌ジュニアFC?)。原田圭輔はここのクラブ出身である。
※記憶違いでクラブが異なる場合は訂正いたします。


一進一退の攻防が続き、2-2のまま試合が終了。僕たちにとって今大会初のPK戦にもつれ込んだ試合だ。僕たちのゴールキーパーはPKにとても強かった。PKだけならトレセンの選手になってもいいかもしれないほどの身体能力の持ち主だった。彼はどうやら小さいころから体操を習っていて、とにかく身体が軟らかかったのだ。


そしてPKを蹴る順番はいつも決まっていて、僕は5番目のキッカーで定着していたが、そこまでPKに自信をもっているとは言えなかった。左利きの僕はコーチにいつもゴールキーパーの左側を狙えと言われていた。なぜなら、ほとんどの選手は右利きだから左手でボールを止めることは難しいからだ。幸い僕はその利き足を活かしてキーパーの左手方向に蹴ることは簡単だった。そしてPK戦は5-4で勝利した。


準決勝進出。ベスト4。まさか初出場の僕たちが準決勝まで進むとは誰も想定してはいなかっただろうう。そして、あと一つ勝てば全国大会の決勝まで駒をすすめるところまできている。


相手は栃木県代表の宇都宮Jr.FC?。大阪府予選からここまで快進撃を続けてきた僕たちは、いとも簡単に崩れ去った。連日の試合による疲れからか、なかなか足が前に進まない。得意の蹴り上げるサッカーも、広いグラウンド(準決勝は大コート)の前では威力を発揮しなかった。
※記憶違いでクラブが異なる場合は訂正いたします。


勝ちたい意欲はあったが、指導者も含め誰もが全国大会の準決勝を勝ち上がる術を知らなかった。コートのサイズや人工芝など、サッカーの環境が変わることで指示することも変わるのがサッカー


僕たちは土壇場で一番力を発揮すべきところで力尽きた。延長戦の末、0-1で敗れ去り、決勝へ進むことができなかった。その時なぜか僕は泣けなかった。チームメイトは何人か涙していたが、僕は泣くことができなかった。


そして、全日本少年サッカー大会の最後の試合である3位決定戦。相手は清水FC。過去8回の優勝を誇り大会最多優勝記録を持つクラブだ。 「清水エスパルス」はそもそも清水FCのOBが中心となって結成された社会人クラブが母体である。


静岡県静岡市清水区(旧清水市)で結成される少年サッカーの選抜チームで、とにかく強かった。いや、強いと言うよりせこい。上手い選手が集まり過ぎている。ここまで強かったら歯が立たない。とにかくボールを扱う技術のレベルが違いすぎた。


僕たちは蹴るだけ。相手はボールを回している。僕たちはボールを追いかけるだけだった。


全日本少年サッカー大会結果



光明台JSCの結果は初出場全国第4位だった。ついでに僕個人の結果はというと。


・大会優秀選手
・得点ランキング2位(9得点)


サッカー人生のピークを迎えた瞬間であった。


自分で自分の能力を開発できるようにならなければならない

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