12歳の決断がサッカー人生を左右する


これは、筆者が自分の16年間のサッカー人生を1本にまとめた自伝です(2014年公開)。2026年8月16日に、事実で答える層だけを上から足しました。下の本文は当時のまま、1文字も変えていません。

いま「ガンバ堺」を調べてここにたどり着いた方へ。先に結論だけ書いておきます。

知りたいこと 答え どこに書いてあるか
ガンバ堺はまだあるのか あります。ガンバ大阪のアカデミーとして、大阪府堺市南区の泉北地区で活動中 下の「ガンバ堺(ガンバ大阪堺)はいまどうなっているのか」
強いのか 評価はしません。公式が「第38回 日本クラブユース選手権(U-15) 関西大会出場決定」と告知しています 同上
セレクションはあるのか あります(U-13対象のセレクションと練習会を公式が告知) 同上
体験談の中身 1990年代に12歳でガンバ堺を選んだ人の体験談 この下から

受験の現実 12歳で突き付けられる5つの選択肢


本日は、誰が興味あんねん!ってことで、ワタクシの波乱万丈ではないサッカー人生を振り返ります。離脱する方は早い内に離脱することをおすすめしますが、サッカー好きの方は熟読して頂ければ幸いです。


皆さんこんにちこんばんは。「進化系サッカーメディアNEWDIH」の立案者ryujinです。日本サッカー界の底上げのため、WEBとマーケティングを駆使し、あらゆる角度からサッカーネタを配信しています。

※この「NEWDIH」は当時のメディア名です。現在は NEWDIH としてサイトを運営しています。本文は当時のまま残しています。


12歳の頃の心境が今でも少し記憶に残っています。地元の少年サッカークラブで全日本少年サッカー大会に初出場し、大会が行われていた読売ランドで清水FCに0-5で敗れ、全国4位に入賞しました。


地元の小学校のサッカークラブからすると、サッカー王国静岡を代表する選手が集まった清水FCの強さが衝撃的でした。


小学校を卒業する時には、地元の中学でサッカーをすることは考えていませんでした。と言うより、自分で選択して進路を決めたと言うよりも、選択肢を与えられたから喰いついたと言う方が正しいでしょうか。


当時、小学5年生(11歳)の時に「ガンバ堺ジュニア(ガンバ大阪の堺Ver.)」の藤枝遠征に招集されて参加し、中学に上がるタイミングで、そのガンバ堺の監督に誘われて「ガンバ堺ジュニアユース」に入団した記憶があります。

※このリンク先(ガンバ堺ジュニアユース)は、現在はガンバ大阪公式の「堺スクール」のページへ転送されます。リンクが指しているものが当時と変わっています。ただし、ガンバ堺そのものは別の運営で今も活動しています(下の節に公式サイトの内容をまとめました)。


地元からチャリで30分ぐらいで練習場まで通えたことと、監督に誘われたと言うことがガンバ堺へ入団した決め手でしょうか。


その後、1年間ガンバ堺でプレーした後、家庭の事情で大阪の南から大阪の北へ引越しをすることになり、同時にガンバ堺も離れなければなりませんでした。


引っ越した先が、ガンバ大阪ジュニアユースの練習場(当時は茨木市)までチャリで10分と言うこともあり、ガンバ堺の監督がガンバ大阪の監督へワタクシの入団の話をしてくれたのです。


当時大阪では3つ年が上で、全日本代表の男と知られていた最強の少年「稲本潤一」が、大阪の南にある実家から、ガンバ大阪ジュニアユースへ片道数時間かけて通っていたことが有名でした。

稲本選手のエピソードはありますか?

上野山 小学校の時に出会いがあったのですが、その時に堺の方から緑地公園駅まで往復2時間くらいかかるところを、自分で通うと言うんですね。親に頼るわけではありませんでした。そこから意識の高さが見えました。

ぼくはそうやって電車で通ってきて、出勤ラッシュなどを見て、その時にどう思うのかが大事だと思います。そういう電車で通ってお父さんが働いて、そのおかげでサッカーに通えるということ。

そうしたことを理解できるという意味で電車で通うのは大事だと思いますし、2時間という時間をどう有効活用するのかも大事だと思っています。

出典:http://www.j-league.or.jp/


ガンバ大阪ジュニアユースへ入団した14歳の時には、既に稲本潤一はガンバ大阪ユースへ昇格しており、カテゴリが違うことで一緒にプレーする機会がありませんでしたが、身近な存在として憧れの選手から目標の選手に変わっていました。


トップチームがJリーグの試合の時には、フェアプレー旗の入場をジュニアユースの選手が担っており、選手入場直前のプロサッカー選手たちを目の前にし、身体の大きさに驚いたことを覚えています。


当時はジュビロ磐田のドゥンガ(現ブラジル代表監督)を間近に見れたことと、ガンバボーイが目の前で頭を外した瞬間が見れたことが印象的でした。


出典:http://www.jsgoal.jp


その後、稲本潤一の後輩として、ガンバ大阪ユースに昇格することができました。


当時高校3年生であった「二川孝広」と「大黒将志」の2人が奏でる、まるで大空翼と岬太郎のようなゴールデンコンビサッカーに衝撃を受けました。


これまで一緒にやってきた、見てきた選手の中で一番サッカーセンスがあり、一瞬で彼らのファンになりました。


今でも彼らよりサッカーセンスがある選手を日本人では見つけることが出来ていません。


二川孝広は高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の決勝戦後の自由時間で、なぜかワタクシを国会議事堂へ連れて行きました。


大黒将志は電車の中でファンからサインを求められた時、自分のサインにX JAPANが好き過ぎて「X」の文字で始まるサインを書きました。今でもそれが使われています。


出典:京都サンガF.C.


ユース時代はサテライトリーグや練習参加など、プロのサッカーを身近に体験し、先輩たちがプロ選手になっていく過程をみて、自分もプロ選手になりたい!と、日々サッカーをプレーする時間を大切にしていました。


高校3年生の時には、高校生最後の大会であるJユースカップで全国制覇もしました。


しかし、これまでの人生で3大悲報ニュースに入りますが、ガンバ大阪のトップチームに昇格はできませんでした。(ちなみにこれは第2位)


当時、J2のクラブか社会人、大学でサッカーをするという選択がありましたが、6年間お世話になったガンバ大阪を離れ、ワタクシは大学でサッカーをすることを決意しました。


その頃から大学経由でプロ選手になるということも目標を持ちつつ、同時に、将来はサッカービジネスがしたいなぁと言う想いが生まれており、高校の卒業文集には「仕事がなければ自分で創ればいい」と書いた記憶があります。


これまで勉強と言う勉強をしたことがなく、頭の中がスッカラカンの空っぽであったワタクシは、将来のビジョンを描きながら大学で勉強をすることを決意しました。


スポーツ推薦の願書の締切が1か月ほど過ぎていましたが、ダメ元で大学に駆け込んでみたところ、滑り込みセーフでなんとかスポーツ推薦の選考の土俵に立つことができました。


そしてサッカー推薦で入学することができ、1回生では、一般の人と一緒の授業を一生懸命に勉強しましたが、自分が思うようには単位が取れませんでした。


2回生では殆ど勉強することはなく、毎日サッカーをしていましたが、1回生より単位が取れました。なんで勉強は早々に諦めました。


入学直後の最初の春合宿で、開始5分のボール回しでCチームからAチームに昇格したワタクシは、その後も大学1年時から卒業まで怪我や累積以外は、ほぼフル出場を果たしました。


同学年には、後にガンバ大阪の選手となり、Jリーグの1万ゴールを決めることになる「前田雅文(J1の1万ゴール目を決めた男の今)」とも出会いました。

※この「Jリーグの1万ゴールを決めることになる」という書き方は、1万点を取った選手のように読めてしまうので訂正します。正しくは「J1リーグ通算10,000ゴール目のメモリアルゴールを決めた」です。詳しくは下の「前田雅文とJ1通算1万ゴール」に書きました。



彼とツートップを組んでいれば全国大会でも優勝できたかもしれません。今思うと、なかなかいいメンツが揃っていたように思います。(総理大臣杯3位が最高)


卒業前に社会人として一般企業(KDDI)に内定をもらっていましたが、サッカーでプロになりたかったため、内定式までに断りの電話を入れました。そして、当時キングカズやガンバ大阪で一緒にプレーしていた「播戸竜二」がいるヴィッセル神戸の練習に参加していました。


2部練のお昼ご飯で、チーム全員でホテルに移動し、昼食を食べるという日がありましたが、キングカズは当時愛車のレンジローバーでホテルに現れ、皆がジャージで昼食を食べている中、一人だけスーツで現れた時に、本物だと感じました。


当時、ヴィッセル神戸の強化部長であった「三浦泰年」に「お前をトップ下か左の選手で是非使いたい。だから最後のテストとしてお前を試したい」と言われ、対戦相手が地元の高校生だったことに衝撃が走りました。


同時に、クラブからは当時日本代表の試合でキャプテンマークをつけていた「三浦淳宏」獲得のニュースが発表され、後にヴィッセル神戸のキャプテンマークをつけることになり、トップ下と左サイドでプレーしていました。


言うてることとやってることがチャンチャラおかしい…と憤りを感じ(当時はプライドが高かった)、大学卒業と同時にプロ選手になることよりも広い世界を見ようと、16年間の本格的なサッカー人生にピリオドを打ちました。


完全に「腑抜け」になりました。


しかし、こんな他愛ないサッカー人生を振り返ってみると、あの時12歳でガンバ堺へ行くと言う決断が、自身のサッカー人生を、これまで出会ったサッカー仲間とともに謳歌させてくれたのかなと思います。


ということで、紆余曲折を経てサッカーオウンドメディアNEWDIHを、サッカー仲間と創ることになりました。

ガンバ堺(ガンバ大阪堺)はいまどうなっているのか

ここから先は、本文を書いてから12年後にクラブの公式サイトを開いて確かめた内容です。2026年8月16日に確認し、8月19日にも同じ内容のまま変わっていないことを再確認しました。

結論から。ガンバ堺は、いまも活動しています。公式サイトには、こう書かれています。

Jリーグチーム ガンバ大阪 のアカデミーとして、主に大阪堺市南区の泉北地区で活動しています。豊かな人間形成・クリエイティブな選手の育成・フェアプレーの精神の厳守を指導コンセプトに、選手の育成・自立を目指しています。

ガンバ大阪堺サッカースクール公式サイト

大会実績。同じ公式サイトのトップに「第38回 日本クラブユース選手権(U-15) 関西大会出場決定!!!」と掲示されています。「ガンバ堺は弱いのか」という検索でここに来る人もいますが、強い弱いの評価はしません。公式が出しているこの事実を、そのまま置いておきます。

入り方(セレクションと練習会)。公式サイトには、2027年度のU-13(現小学6年生)を対象とした案内が出ています。

  • セレクション:2026年8月24日・31日(月曜)の19:00〜20:45(18:50受付)、会場は関西トランスウェイ(大阪府和泉市下宮町160)。申込期限はそれぞれ8月18日・8月25日。
  • 練習会:2026年7月2・9・16・23・30日と8月6日(木曜)の17:30〜19:30、会場は敷物グランド(大阪府堺市南区原山台5-14)。
  • GPスクール(ゴールプレーヤースクール):小学5年生〜中学3年生対象、1回1,000円。

クラブが掲げているテーマも4つ書かれています。①3つの軸 ②個人の育成(技術・判断・問題解決能力) ③高校への進路サポート ④学業との両立・睡眠時間の確保(平日練習の解散時間を早くしている)。④が明記されているのは珍しい。本文にあるとおり、筆者は「地元からチャリで30分ぐらいで練習場まで通えたこと」を入団の決め手のひとつにしています。12歳のクラブ選びで、通える距離と生活が成り立つかは、いまも同じくらい大事だということです。

※日程・会場・費用は変わります。参加を検討する場合は必ず公式サイトと事務局で最新の情報を確認してください。

ガンバ大阪のアカデミーとの関係

ここは間違えやすいところなので、確認できた事実だけを書きます。

ガンバ大阪の公式サイトにあるアカデミーの構成は、ユース/ジュニアユース/ジュニア/スクールです。そして本文からリンクしている「ガンバ堺ジュニアユース」の旧URLは、現在ガンバ大阪公式の「堺スクール」のページへ転送されます。

ここで「ガンバ大阪の公式サイトに載っていないから、ガンバ堺は無くなった」と考えるのは誤りです。上に見たとおり、ガンバ堺は別の運営で今も活動しており、公式サイトも独自に持っています。組織が存在するかどうかは、親組織のサイト構成ではなく、その組織自身の公式情報で確かめる。今回の調べ物で、いちばん大事だった教訓です。

12歳でクラブを選ぶということ

テーマは、タイトルのとおり「12歳の決断」です。当時の判断材料と、いま公開されている情報を並べておきます。

本文で挙がっている決め手は2つでした。「地元からチャリで30分ぐらいで練習場まで通えたこと」と「監督に誘われたと言うこと」。1990年代の話ですが、この2つはいまも上位に来る判断材料です。

いま追加で確認できることを3つ。

  • 入り口が公開されている。上のとおり、セレクションと練習会の日程・会場・申込期限が公式サイトに出ています。「誘われるのを待つ」以外の道があるということです。
  • 進路の実績が公開されている。ガンバ堺の公式サイトには「卒業進路一覧」の資料が掲示されています。3年後にどこへ進んでいるかを、入る前に見られます。
  • 生活との両立が方針として書かれている。上の④です。週に何回、何時に終わるかは、13歳から15歳の3年間の生活を決めます。

そのうえで、本文に書かれている経験も残しておきます。筆者は1年後に家庭の事情で引っ越し、ガンバ堺を離れてガンバ大阪ジュニアユースへ移っています。12歳の決断は、思ったとおりには進まないこともある。それでも「その時いちばん近くで、いちばん誘ってくれた場所」を選んだことが、結果として16年間につながった。それが、この話の骨子です。

前田雅文とJ1通算1万ゴール

本文に「Jリーグの1万ゴールを決めることになる」という書き方があります。この語で前田雅文選手を紹介していますが、1万点を取った選手のように読めるので、正しい表現に直しておきます。

正しくは「J1リーグ通算10,000ゴール目のメモリアルゴールを決めた選手」です。Jリーグ公式の記事にこうあります。

10000ゴールが生まれたのは、今から12年前の2005年5月8日のこと。G大阪の大卒ルーキー前田 雅文が名古屋相手に決めたリーグ戦初得点が、歴史に残るゴールとなったのだ。

Jリーグ公式サイト「記念すべき20000ゴールまであと1得点 J1通算ゴールの歴史を振り返る」

プロでの初ゴールが、たまたまリーグ全体の1万点目だったということです。

経歴は関西大学の公式プレスリリース(2016年1月29日/No.41)で確認できます。1983年1月25日生まれ、滋賀県野洲市出身。滋賀県立野洲高校から関西大学社会学部へ2001年入学・2005年卒業。本文にある「同学年」という記述と一致します。3年次に第22回ユニバーシアード競技大会(2003年/韓国・大邱)の日本代表として全試合に出場し金メダル。卒業後にガンバ大阪へ入団し、ヴァンフォーレ甲府、ザスパ草津を経て2011年に現役引退(プロ通算85試合8得点)。2016年2月1日付で関西大学体育会サッカー部の監督に就任しています。

※2026年時点の関西大学での在任状況は、大学の公式ページで確認できなかったので書きません。この訂正と数値は、FWの型を扱った記事とそろえてあります。

連載『Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由』

ここまでが、16年間を1本にまとめた要約版です。同じ話を、もっと詳しく書いた連載が別にあります。

連載『Jリーグのピッチに立てなかった本当の理由』は全9回。序章(少年期①)/②序章(少年期②)/③序章(少年期③)/④序章(少年期④)/⑤序章(少年期⑤)/⑥第一章(青年期①)〜知る人ぞ知る、南大阪の強豪ガンバ堺〜/⑦第一章(青年期②)/⑧第一章(青年期③)/⑨第一章(青年期④)〜日本一のサッカー選手〜

関係はこうです。ここまでの話=要約版(2014年)、連載=詳細版(2015年〜2021年)。そして連載は⑨で止まっていて、タイトルが約束している「なぜJリーグのピッチに立てなかったのか」には、まだ到達していません。その答えにあたる部分は、上の体験談の後半(ヴィッセル神戸の練習参加から引退まで)に書かれています。

ガンバ堺の話をもっと読みたい人は、連載の⑥「知る人ぞ知る、南大阪の強豪ガンバ堺」へどうぞ。

実在の人物の扱いについて

最後に、ここに出てくる実在の人物の扱いについて書いておきます。

本文に出てくるエピソードは、すべて筆者本人の記憶に基づく体験談です。本人への確認や、当時の新聞・ニュースでの確認はしていません。とくに、他の方の発言として書かれている部分は、当時の記憶をそのまま書いたものであり、発言の正確な文言を保証するものではありません。

また、このサイトでは実在の人物について、記録で確認できないことは書かない方針をとっています。これは筆者自身の自伝なので本文を残していますが、書かれている人物評価は当時の筆者の主観であって、その人の評価ではありません。

引用の出所についても2点。本文の引用ブロック(上野山氏の稲本潤一に関する話)は出典が「j-league.or.jp」のトップページとしか分かっておらず、どの記事の発言かまでは特定できません。同じく「jsgoal.jp」「京都サンガF.C.」もドメイン名やクラブ名だけで記事が特定できません。本文は当時のまま残していますが、根拠として扱えるものではないことを明記しておきます。

なお、本文の末尾にあった旧ブランドのクラブへの加入案内は外しました。そのクラブは実体として存在しないためです。いまこのサイトを運営しているのは NEWDIH です。

子どもがサッカーを続けるのに実際いくらかかるかはサッカー人生で必要なお金の記事に、大学経由でプロを目指す道についてはサッカー推薦の記事にまとめています。

評価 :5/5。