受験の現実 12歳で突き付けられる5つの選択肢
本日は、誰が興味あんねん!ってことで、ワタクシの波乱万丈ではないサッカー人生を振り返ります。離脱する方は早い内に離脱することをおすすめしますが、サッカー好きの方は熟読して頂ければ幸いです。
皆さんこんにちこんばんは。「進化系サッカーメディアNEWJI」の立案者ryujinです。日本サッカー界の底上げのため、WEBとマーケティングを駆使し、あらゆる角度からサッカーネタを配信しています。
12歳の頃の心境が今でも少し記憶に残っています。地元の少年サッカークラブで全日本少年サッカー大会に初出場し、大会が行われていた読売ランドで清水FCに0-5で敗れ、全国4位に入賞しました。
地元の小学校のサッカークラブからすると、サッカー王国静岡を代表する選手が集まった清水FCの強さが衝撃的でした。
小学校を卒業する時には、地元の中学でサッカーをすることは考えていませんでした。と言うより、自分で選択して進路を決めたと言うよりも、選択肢を与えられたから喰いついたと言う方が正しいでしょうか。
当時、小学5年生(11歳)の時に「ガンバ堺ジュニア(ガンバ大阪の堺Ver.)」の藤枝遠征に招集されて参加し、中学に上がるタイミングで、そのガンバ堺の監督に誘われて「ガンバ堺ジュニアユース」に入団した記憶があります。
地元からチャリで30分ぐらいで練習場まで通えたことと、監督に誘われたと言うことがガンバ堺へ入団した決め手でしょうか。
その後、1年間ガンバ堺でプレーした後、家庭の事情で大阪の南から大阪の北へ引越しをすることになり、同時にガンバ堺も離れなければなりませんでした。
引っ越した先が、ガンバ大阪ジュニアユースの練習場(当時は茨木市)までチャリで10分と言うこともあり、ガンバ堺の監督がガンバ大阪の監督へワタクシの入団の話をしてくれたのです。
当時大阪では3つ年が上で、全日本代表の男と知られていた最強の少年「稲本潤一」が、大阪の南にある実家から、ガンバ大阪ジュニアユースへ片道数時間かけて通っていたことが有名でした。
稲本選手のエピソードはありますか?
上野山 小学校の時に出会いがあったのですが、その時に堺の方から緑地公園駅まで往復2時間くらいかかるところを、自分で通うと言うんですね。親に頼るわけではありませんでした。そこから意識の高さが見えました。
ぼくはそうやって電車で通ってきて、出勤ラッシュなどを見て、その時にどう思うのかが大事だと思います。そういう電車で通ってお父さんが働いて、そのおかげでサッカーに通えるということ。
そうしたことを理解できるという意味で電車で通うのは大事だと思いますし、2時間という時間をどう有効活用するのかも大事だと思っています。
出典:http://www.j-league.or.jp/
ガンバ大阪ジュニアユースへ入団した14歳の時には、既に稲本潤一はガンバ大阪ユースへ昇格しており、カテゴリが違うことで一緒にプレーする機会がありませんでしたが、身近な存在として憧れの選手から目標の選手に変わっていました。
トップチームがJリーグの試合の時には、フェアプレー旗の入場をジュニアユースの選手が担っており、選手入場直前のプロサッカー選手たちを目の前にし、身体の大きさに驚いたことを覚えています。
当時はジュビロ磐田のドゥンガ(現ブラジル代表監督)を間近に見れたことと、ガンバボーイが目の前で頭を外した瞬間が見れたことが印象的でした。
出典:http://www.jsgoal.jp
その後、稲本潤一の後輩として、ガンバ大阪ユースに昇格することができました。
当時高校3年生であった「二川孝広」と「大黒将志」の2人が奏でる、まるで大空翼と岬太郎のようなゴールデンコンビサッカーに衝撃を受けました。
これまで一緒にやってきた、見てきた選手の中で一番サッカーセンスがあり、一瞬で彼らのファンになりました。
今でも彼らよりサッカーセンスがある選手を日本人では見つけることが出来ていません。
二川孝広は高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会の決勝戦後の自由時間で、なぜかワタクシを国会議事堂へ連れて行きました。
大黒将志は電車の中でファンからサインを求められた時、自分のサインにX JAPANが好き過ぎて「X」の文字で始まるサインを書きました。今でもそれが使われています。
出典:京都サンガF.C.
ユース時代はサテライトリーグや練習参加など、プロのサッカーを身近に体験し、先輩たちがプロ選手になっていく過程をみて、自分もプロ選手になりたい!と、日々サッカーをプレーする時間を大切にしていました。
高校3年生の時には、高校生最後の大会であるJユースカップで全国制覇もしました。
しかし、これまでの人生で3大悲報ニュースに入りますが、ガンバ大阪のトップチームに昇格はできませんでした。(ちなみにこれは第2位)
当時、J2のクラブか社会人、大学でサッカーをするという選択がありましたが、6年間お世話になったガンバ大阪を離れ、ワタクシは大学でサッカーをすることを決意しました。
その頃から大学経由でプロ選手になるということも目標を持ちつつ、同時に、将来はサッカービジネスがしたいなぁと言う想いが生まれており、高校の卒業文集には「仕事がなければ自分で創ればいい」と書いた記憶があります。
これまで勉強と言う勉強をしたことがなく、頭の中がスッカラカンの空っぽであったワタクシは、将来のビジョンを描きながら大学で勉強をすることを決意しました。
スポーツ推薦の願書の締切が1か月ほど過ぎていましたが、ダメ元で大学に駆け込んでみたところ、滑り込みセーフでなんとかスポーツ推薦の選考の土俵に立つことができました。
そしてサッカー推薦で入学することができ、1回生では、一般の人と一緒の授業を一生懸命に勉強しましたが、自分が思うようには単位が取れませんでした。
2回生では殆ど勉強することはなく、毎日サッカーをしていましたが、1回生より単位が取れました。なんで勉強は早々に諦めました。
入学直後の最初の春合宿で、開始5分のボール回しでCチームからAチームに昇格したワタクシは、その後も大学1年時から卒業まで怪我や累積以外は、ほぼフル出場を果たしました。
同学年には、後にガンバ大阪の選手となり、Jリーグの1万ゴールを決めることになる「前田雅文(J1の1万ゴール目を決めた男の今)」とも出会いました。
出典:http://95156191.at.webry.info/
彼とツートップを組んでいれば全国大会でも優勝できたかもしれません。今思うと、なかなかいいメンツが揃っていたように思います。(総理大臣杯3位が最高)
卒業前に社会人として一般企業(KDDI)に内定をもらっていましたが、サッカーでプロになりたかったため、内定式までに断りの電話を入れました。そして、当時キングカズやガンバ大阪で一緒にプレーしていた「播戸竜二」がいるヴィッセル神戸の練習に参加していました。
2部練のお昼ご飯で、チーム全員でホテルに移動し、昼食を食べるという日がありましたが、キングカズは当時愛車のレンジローバーでホテルに現れ、皆がジャージで昼食を食べている中、一人だけスーツで現れた時に、本物だと感じました。
当時、ヴィッセル神戸の強化部長であった「三浦泰年」に「お前をトップ下か左の選手で是非使いたい。だから最後のテストとしてお前を試したい」と言われ、対戦相手が地元の高校生だったことに衝撃が走りました。
同時に、クラブからは当時日本代表の試合でキャプテンマークをつけていた「三浦淳宏」獲得のニュースが発表され、後にヴィッセル神戸のキャプテンマークをつけることになり、トップ下と左サイドでプレーしていました。
言うてることとやってることがチャンチャラおかしい…と憤りを感じ(当時はプライドが高かった)、大学卒業と同時にプロ選手になることよりも広い世界を見ようと、16年間の本格的なサッカー人生にピリオドを打ちました。
完全に「腑抜け」になりました。
しかし、こんな他愛ないサッカー人生を振り返ってみると、あの時12歳でガンバ堺へ行くと言う決断が、自身のサッカー人生を、これまで出会ったサッカー仲間とともに謳歌させてくれたのかなと思います。
ということで、紆余曲折を経てサッカーオウンドメディアNEWJIを、サッカー仲間と創ることになりました。そして、「F.C.NEWJI」への加入をお待ちしております。皆さん、応援よろしくお願い致します。