失敗と後悔!嗚呼、俺様のサッカー人生
登場人物
僕=筆者。光明台JSC-ガンバ大阪堺ジュニアユース-ガンバ大阪ジュニアユース-ガンバ大阪ユース-関西大学体育会サッカー部。16年間のサッカーキャリア。現役引退後は毎日サッカービジネスを妄想中。
岡田君。1つ上の先輩で地元が隣町。ガンバ大阪堺ジュニアユース、ガンバ大阪ユースでチームメイトとなる。佐藤寿人、松井大輔、石川直宏、阿部勇樹、中居時夫そして岡田君。ジャニーズ系のイケメン。
けいた。1つ上の先輩で地元が隣町。「間ちゃん」の考案者。けいたがJリーガーになっていれば、おそらくストライカー不足は解消されていた。とにかく日向小次郎なみのゴリブルと、本田圭佑なみのキープ力を持つ内股ストライカー。好きな言葉は「あつい!」。
すぐる。SGGK(スーパーグレートゴールキーパー)で、ジュニアからずっとガンバ大阪で育ち、プロ生活はガンバ大阪、FC岐阜、徳島ヴォルティス、奈良クラブ、バンディオンセ加古川でゴールマウスを守り続けている。最近現役引退を表明しかけたようだが、2か月後にはどこかでサッカーをしているだろう。
前回までのストーリー
序章(少年期①)~サッカーの楽しみを知る~
序章(少年期②)~サッカー以外はワクワクできない~
序章(少年期③)~ただ今成長中、むしろピークを迎えたか~
序章(少年期④)~サッカーは何が起こるかわからない~
序章(少年期⑤)~全日本少年サッカー大会全国大会~
第一章(青年期①)~知る人ぞ知る、南大阪の強豪ガンバ堺~
小学生に毛が生えたガキ集団
当時のガンバ大阪と言えば、トップチームはそこまで強くなかった印象だ。しかも、自分自身は大のレッズファンであったが、ガンバ堺の監督からのラブコールを受け、ガンバ堺に入団した。一般的なカテゴリーの分けかたであるが、その頃のガンバ堺は「トップチーム」「セカンドチーム」と「中学1年生チーム」があった。
僕は中学1年生ながらトップチームに所属…と言うわけではなく、中学1年生チームでトレーニングをすることになった。所属して間もなくクラブから試合用のユニフォームを購入するよう命じられ、今の時代では考えられないほど生地がペラペラで、引っ張られるとすぐに破れるようなノーブランドのユニフォームを数千円で購入したことを覚えている。僕の背番号は11番だった。
小学校5年生の時に参加した藤枝遠征で一緒だった岡田君が、中学2年生ながらトップチームのエースとして活躍していたが、僕はすぐにそのメンバーに入りたい気持ちはなかった。なぜかというと、中学1年生チームはすごく心地よくすごく楽しかったからだ。
サッカー以外のことで満足しているようでは、サッカーで得られるものはない。
もちろんサッカーも楽しかったが、それ以外の想い出の方がたくさんある。中学1年生となると、試合もほとんど現地集合現地解散となる。その試合会場に行くまでの道中が楽しかったのだ。
基本的にジャージ姿で公共機関を使って移動する僕たちは、例えばチームメイトが電車でオナラをすると、腐卵臭の香りが1両全体の端から端まで到達したり、当時CDプレーヤーが流行っていて、誰かのCDが又貸しの連続で誰の元にあるか分からなくなったり、「間ちゃん」と呼ばれる驚異的なカードゲームで全財産を失うチームメイトが続出したりと、どこにでも存在するガキ集団であった。
しかし、サッカーをやらせるとまた違う一面を見せるのも事実だ。大阪の南に住んでいるそれなりの選手がそこそこ集まるクラブチームであったため、周りのクラブで対等に相手となるクラブは少なかった。また選手個人でみても、どちらかと言うと、他クラブの選手でライバルを見つけると言うよりも、チームメイト同士がそれぞれをライバル視して切磋琢磨していたようだ。
普段からそういう環境が整っているのは素晴らしかったが、サッカーをプレーする環境が良かったかと言えば、決してそうとは言えない。
パイプのゴールと雨の日のサッカー
ガンバ堺の練習場は、堺市にある敷物団地内の一角にある「敷物グラウンド」で日頃は練習している。土日になると光明池にある鴨谷グラウンドなども使用したりしていた。
ご存知かもしれないが、ガンバ堺ジュニアユース出身のJリーガーも何名か存在する。平島嵩、神山竜一、丹羽大輝、岡本英也などがそうだ。丹羽大輝に至っては、遅咲きの日本代表ということで注目を浴びているが、彼もまた敷物グラウンドで練習をした一人である。
出典:https://www.instagram.com/ino10take2384/普段はその敷物グラウンドで3カテゴリー全員がサッカーをするわけだが、ハッキリ言ってそこまで大きなグラウンドではない。また、当時は当たり前だった土のグラウンドで、簡易ナイター設備はあったものの、投光器を改造して手動でエンジンをつけるようなもので、よくバッテリーが切れて練習中に停電したこともあった。
また、サッカーゴールは正規のゴールを使用することはなく、樹脂製のパイプで出来たミニゴールや、アルミ製のパイプのミニゴールを使用していた。今でもハッキリ覚えているが、けいたのシュートが強烈すぎて、ゴールが折れてしまうということも何回か見受けられた。
雨の日は、基本的に練習はお休みとはならない。グラウンドは使えないが、室内サッカーとなっていた。当時、今ほどブログやホームページなど普及していなかったので、クラブから選手たちに練習の変更を個別に知らせる術はなく、連絡は常に選手側から事務局に電話で問い合わせていた。
「今日の練習はありますか?」
「今日の練習は室内練習です」
そのような会話を雨が降りそうな天気の度に毎回しなければ、練習があるのかさえも分からなかった。
雨の日は選手の参加率が圧倒的に悪くなるが、1年~3年まで隔たりなく一緒にプレーする唯一の機会でもあったので、僕は雨の日が好きだった。また、室内とはいっても今の時代で考えられるような人工芝、屋根付きであったり、体育館フットサル場といった環境ではなかった。
ガンバ堺の雨の日は、どこかのビルの1フロアを貸し切るような形で、室内サッカーといっても柱が至る所に存在する、とても危険なサッカーをしていたことを覚えている。今考えると、よく怪我をしないで生き延びられたと褒めてあげたい。
出典:http://www.frontierconsul.net/ただ、どんな状況でも選手たちにサッカーをさせてあげようとする気持ちを持った指導者たちには、ただただ感謝の言葉しかでない。そのおかげでサッカーが上達したからだ。
生まれて初めての1万円スパイク
中学1年生となると、そこそこお金のある家庭とそうでない家庭の差が選手間で現れ始める。選手本人が気にしているかと言えば…実は気にしていたりもする。僕の家はお金がない部類だったので、小学生時代は常に光明池駅の近くにあるダイエーで安いスパイクか、運動靴を購入してプレーさせられていた。ちなみに僕のお気に入りは「ランバード(現ミズノ)」だった。
それまで僕は特にスパイクの質を気にすることはなかったが、周りのお金持ちの家庭に属される選手たちが、スパイクを個別の名前で呼び始めたことで、はじめてスパイクを意識するようになった。彼らはサッカースパイクをスパイクと呼ばず、スパイクをメーカー名で呼ぶこともない。どのように呼ぶかと言うと、「コパムンディアル」や「TIEMPO」とスパイクのシリーズ名で呼んでいたのだ。
なんということでしょう。周りに流されて僕もスパイクが気になり始め、そしてとてつもなく新しいスパイクが欲しくなってきたではありませんか。だから、親に今度スパイクを買ってもらう時は、「パラメヒコ」を注文するようにしよう。なぜパラメヒコかというと、それはもうキングカズが履いていたから他ない。背番号11へのこだわりは非常に強かった。
そういうことで、「今回だけだよ」と高価なスパイクを購入することを許してくれた心優しい母親に「パラメヒコ」を買ってもらい、生まれて初めて1万円を超えるスパイクを履いてプレーした時をまだ覚えている。選手にもよるが、僕は試合でサラ品のスパイクを履くことになんら問題を感じない性格だ。
その「パラメヒコ」を履いたのも練習試合が初めてだった。そして、僕は4得点の活躍に、「万スパ効果」と名付け、スパイクの質で結果が違うことをひしひしと感じていた。
※ちなみに僕はコアなミズノユーザーとなる
スパイクにはこだわった方が良い。ただ、こだわるのは高校生からで良い。
その日以降、僕はスパイクのメーカーとシリーズ名を覚えるようになったが、家計を気にしながら安いスパイクを選択するようになっていた。若干13歳ながらの親孝行である。
サル並みの身体能力、日本を代表する男
冬になり3年生が引退した。そして、年明けからは新2年生となった。そうなると、トップチームのメンバーに入り、新3年生の岡田君とも一緒にプレーをするようになった。しかし、それもつかの間、僕は親の仕事の都合で光明台を離れなければならなかった。新学期となる4月には新しいところへ引っ越しをすることが既に決まっていたのだ。
扱いは新2年生となるが、学年はまだ中学1年生。引っ越しまでの後3ヵ月はガンバ堺のトップチームでプレーする。ちなみに、引っ越し先は大阪の北にある箕面という場所で、当時ガンバ大阪のジュニアユースが練習していた茨木グラウンドから自転車で10分の距離だった。
当然ながら流れとしては、クラブもガンバ大阪ジュニアユースへの移籍となり、その移籍に関してはガンバ堺の監督がしっかりとアテンドしてくれていた。
チームメイトからは「裏切りもの」と呼ばれたり、ミスをするたびに「ガンバ大阪へ行く人はいいよな、ミスできるから。」などと言われたりもした。ただ、言われていたけれども、そんな悪口を言うのは岡田君一人だったのだが…。
僕自身がガンバ堺のメンバーとして臨んだ最後の大会では、準決勝の相手が皮肉にもガンバ大阪ジュニアユースであった。そして、僕もツートップの片割れとしてレギュラーとして出場していたが、お互いに均衡を破ることはなく、延長戦の末にPK戦にまでもつれ込んだ。
そのPK戦でガンバ大阪ジュニアユースはわざわざGKを交替した。交替して入ってきたのが、僕と同じ歳のすぐるであった。
僕たちガンバ堺は、岡田君が一番キッカー。サル並みの身体能力を持つすぐるにあっさりと止められた。二番目のキッカーはけいた。またしても、サル並みの身体能力を持つすぐるに止められた。そして三番目は僕。ここで外すと0-3という屈辱的な負けが決定する大事なキック。僕の左足から蹴りだされた完璧と思われたコースに飛んだボールは、サル並みの身体能力を持つすぐるに左手一本で止められた。
試合後に、コースを読まれた原因をすぐるに聞くと、軸足と蹴る前の目線でどこに蹴るかが分かると丁寧に教えてくれた。僕はその日以降、軸足と目線を蹴る方向とは真逆に向けるようになった。
そして、ガンバ堺を離れる最後の日に、僕は岡田君の最後の送別の言葉を忘れない。「あのPKもアイコンタクトですぐるに止めさせたんやんな?」まったくふざけたヤローだ。
親の都合で息子にサッカー環境を変えさせるのは、決してマイナスなことばかりではない。選手として、できるだけ多くの指導者やクラブを経験させた方が幅は広がる。