いわきFC背番号19「ブル」大西悠介──たった一つのオファーから始まったデュエルキングへの道

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大西悠介(ブル)が歩む、「魂の息吹くフットボール」の真ん中で

2001年5月20日生まれ、茨城県出身。
ポジションはミッドフィルダー。
2024年、国士舘大学からJリーグ・いわきFCへ加入した一人の選手は、静かに、そして確実にJ2で存在感を増している。
その名は、大西悠介。愛称は「ブル」。
ブラジルにルーツを持つ母の血から受け継いだミドルネーム「ブルーノ」が、その由来だ。

華々しい年代別代表歴や、複数クラブからの争奪戦。
そうした“物語として分かりやすいスター街道”とは少し違う場所から、彼のサッカー人生は今、光を帯び始めている。

鹿島つくばからドラゴンズ柏、流経柏、そして国士舘大学へ

大西悠介のキャリアは、いわゆる「エリート育成コース」に見える。
鹿島アントラーズつくばジュニア、ドラゴンズ柏、流通経済大学付属柏高校――全国的にも高い水準で知られる育成環境を渡り歩いてきた。

ただ、その歩みは「約束されたプロ」ではなかった。
中学・高校の競争は熾烈で、どれだけ良い環境にいても、トップにたどり着くのは一握りだ。
高校年代で名を上げても、そのままJクラブの内定をつかむ選手もいれば、大学へ進み、そこで再起を図る選手もいる。
大西は後者の道を選び、国士舘大学へ進学した。

国士舘大学と言えば、いわきFCと深いパイプを持つクラブでもある。
谷村海那、宮本英治(現アルビレックス新潟)、有田稜(現レノファ山口FC)など、Jリーグで存在感を示す選手を多数輩出している。
その流れの中に、大西悠介もいた。

2019年には「adidas Festival 2019」で大会ベスト11に選出。
個人としてのポテンシャルは早くから評価されていた。
それでも、プロからのオファーが殺到したわけではない。
ここに、彼のキャリアのリアルさがある。

唯一届いたオファー、それがいわきFCだった

大学4年生の春。
同期だった望月ヘンリー海輝(現FC町田ゼルビア)、山田裕翔(のちに東京ヴェルディからいわきFCへ完全移籍)らは、早々にJクラブから内定を勝ち取っていった。
しかし大西のもとに届いたオファーは、なかなか来なかった。

内定が決まったのは夏以降。
しかも、届いたのは「いわきFC」からの一件だけだった。

「いわきFCは大学の先輩が多く在籍していたし、先輩たちのように活躍したい」

この想いが、大西の背中を押した。
選択肢が一つしかなかった、という言い方もできる。
だが、「先輩たちのように活躍したい」と、自分の未来をそこに重ねて飛び込んだ決断は、今思えば彼のサッカー人生の大きな岐路だった。

育成年代の選手や、その親御さんから見れば、
「オファーが一つだけ」という状況は不安かもしれない。
「あのクラブからも、このクラブからも声がかかる」
そんなストーリーが理想かもしれない。

だが、大事なのは数ではなく、「自分を必要としてくれる場所」とどう向き合うか。
大西悠介の選択は、その問いに対する一つの答えになっている。

期待の象徴、“いわきの19番”を託された理由

いわきFCにおいて「19番」は、特別な意味を持つ背番号だ。
大倉智代表取締役が、個人的に強い期待を寄せる選手に託す番号。
その“19番”を、大西はプロ1年目から背負うことになった。

国士舘大学出身であること。
先輩たちが残した「国士舘出身はいわきで伸びる」という実績。
そして、大西自身が持つ守備の強度、運動量、献身性。
そういった要素が積み重なり、彼に19番が預けられた。

プロの世界で、背番号は単なる数字ではない。
クラブの歴史や価値観、選手への期待がこもっている。
その意味を、若い大西はどう受け止めたのか。

答えは、プレシーズンマッチでの姿に表れていた。
福島ユナイテッドFCとのトレーニングマッチ(2-2)で、大西は球際の強さ、執拗なデュエル、運動量を落とさないハードワークを見せつける。
ボールに関わり続け、動きを止めない。
「自分がどういう選手なのか」を、一試合で周囲に認めさせるパフォーマンスだった。

プロ1年目から、いわきFCの中で「替えの利かない存在」へ。
しかし、その道は一気に駆け上がったわけではない。

戦術の“肝”を任されるアンカーとしての成長

2024年シーズン、いわきFCは当初2ボランチを採用していたが、やがて攻撃的な「3-1-4-2」へと舵を切る。
そのシステム変更の中で、最も重要なポジションの一つがアンカーだった。
3バックの前で、攻撃と守備のバランスを取り、ビルドアップの“出口”となる役割だ。

大西悠介は、まさにその“肝”を任された。
ウイングバックのサポートに顔を出し、ボールを動かしながら、同時にピッチ中央の守備を支える。
タスクは多く、責任も重い。

守備面では、本人もこうしたことを意識していた。

「食いつくようにいくと外されてスペースが空くことがあった。
本当に奪えるところを見定めることが大事で、奪えなければコースを限定することやボールの方向を誘導する守備をして味方も取りやすくなる」

単に「激しく行く」だけでは、プロの世界では通用しない。
奪うべき場所と、限定すべきタイミングを見極めるインテリジェンス。
その感覚を短期間で掴み、失点数の減少にも貢献していった。

育成年代のボランチやアンカーを目指す選手にとって、この感覚はとても重要だ。
「激しさ」と「我慢」。
「奪う」と「限定する」。
相反するように見える要素を同時に求められるのが、現代フットボールにおける中盤の選手であり、大西はそこに真正面から向き合っている。

数字が証明する“デュエルキング”ぶり

2024年、プロ1年目の大西はJ2リーグ戦で19試合に出場。
Jリーグデビューは、2月24日のJ2第1節・水戸ホーリーホック戦(ケーズデンキスタジアム水戸)だった。
決してフルシーズンを戦い抜いたわけではない。
それでもコーチ陣にこう言わしめた。

「数値がすごいよ」

Jリーグ公式のスタッツで、「タックル数」「デュエル勝利数」「インターセプト数」。
この3つの部門において、彼は突出した数字を叩き出していた。

2025年のJ2第4節・サガン鳥栖戦(ハワイアンズスタジアムいわき)では、ついにプロ初ゴールも記録。
Jリーグ初ゴールを決めた瞬間、その背後には、数えきれない守備の局面や、ピッチ中央で身体を張り続けた時間が存在している。

派手なドリブルや、華やかなアシストが脚光を浴びがちな現代サッカーの中で、
「デュエル」という泥臭い指標で光る選手。
そこにこそ、いわきFCが掲げる「魂の息吹くフットボール」の体現者としての大西悠介の価値がある。

順風満帆に見えたプロ1年目を断ち切った骨折

しかし、サッカー人生はいつだって、思い通りにはいかない。

2024年5月末、第16節・徳島ヴォルティス戦。
いわきFCのアンカーとして出場していた大西は、この試合で負傷交代を余儀なくされる。
診断は右腓骨骨折。
復帰まで全治2か月。

それだけでも重い怪我だが、さらに不運が続いた。
チームに再合流した後、同じ箇所を再び痛めてしまい、再手術。
人生初の長期離脱となった。

リハビリの日々。
ピッチで体を張ることを生業としてきた選手にとって、「ボールに触れない時間」は想像以上に長く、重くのしかかる。
プロ1年目、本来ならば経験を積み、ポジションを確立していく大事な時間を、彼はリハビリルームで過ごした。

復帰した時には、既にシーズンは終盤戦。
完全なコンディションではなく、「不完全燃焼」のまま1年目は幕を閉じた。

ここに、サッカーの厳しさがある。
そして同時に、育成年代の選手たちが知っておくべき現実がある。
どれだけ評価されていても、どれだけ数字を残していても、
一つの接触、一つの着地で、そのシーズンの計画は簡単に崩れてしまう。

では、そのときに何が残るのか。
自分を信じ続ける力か。
支えてくれる仲間か。
別メニューの日々に向き合うメンタルか。

大西悠介は、その問いに対する答えを、リハビリの時間の中で探し続けたはずだ。

「いわきFC」というクラブが与える意味

いわきFCは、Jリーグの中では新興クラブだ。
だが、「魂の息吹くフットボール」を掲げ、地域を巻き込み、選手の成長に真正面から向き合う姿勢で、急速に存在感を増している。

ハードワーク、デュエル、運動量。
その価値を、表面的な「走り勝て」ではなく、戦術やコンセプトと結びつけて求めてくるクラブ。
そうした環境に、大西悠介のような選手が身を投じたことは、偶然ではなく必然だったのかもしれない。

国士舘大学出身の先輩たちが活躍し、その背中を追うようにいわきの門を叩いた大西。
プロ1年目で19試合に出場し、スタッツの面でJ2屈指のデュエルキングとなりながらも、骨折により長期離脱を経験した大西。

2025年、サガン鳥栖戦で挙げたJリーグ初ゴールは、単なる「1点」以上の意味を持っているだろう。
それは、リハビリを乗り越えた証であり、「まだここからだ」という宣言でもある。

「ブル」という名前に込められた背景

母親がブラジルにルーツを持つことから、ミドルネーム「ブルーノ」を持つ大西悠介。
そこから来た愛称「ブル」は、チームメイトやサポーターにもすっかり浸透している。

日本とブラジル、二つの背景を持つことは、今の日本サッカーにおいて決して珍しいことではない。
だが、そのアイデンティティをどうサッカーに落とし込むかは、選手一人ひとりに委ねられている。

ブラジルと言えば、華麗な足技や攻撃的センスをイメージしがちだ。
しかし、「ブル」は激しいデュエルと運動量で試合を支配する選手。
そのスタイルは、一見すると“ブラジルらしさ”とは違うのかもしれない。

だが、ひるまずにぶつかり、自分の特長を最大限に生かそうとするメンタリティは、
どこかブラジルのストリートで培われる“負けん気”にも通じる。
複数の文化やルーツを持つ選手が、自分なりのスタイルを見つけていく過程は、今後の日本サッカーにおいて、ますます重要になっていくだろう。

「プロになる」とは、何を意味するのか

大西悠介のサッカー人生を振り返ると、いくつかのキーワードが浮かび上がってくる。

  • 複数クラブからのオファーではなく、「いわきFC」一択だったプロ入り
  • 期待の象徴「19番」を背負いながら、数字で証明したデュエルの強さ
  • 順調な1年目を断ち切った右腓骨骨折と再手術という長期離脱
  • 復帰を経て迎えた2年目、2025年のJ2で記録した初ゴール

それは、決して一直線の成功物語ではない。
むしろ、「うまくいかない時間」の方が長かったかもしれない。

育成年代の選手たちに問いかけてみたい。
プロになるとは、何を意味するのだろうか。

・Jクラブから早い段階でオファーをもらうことか。
・華やかな数字を残すことか。
・SNSで話題になるプレーをすることか。

あるいは、たった一つのオファーにすがりつくように飛び込み、
与えられた時間の中で走り続け、
怪我や挫折に耐えながら、それでもピッチに戻ろうとすることなのか。

大西悠介という選手の物語は、その問いに対して、現場からのリアルな回答を示しているように思える。

「ブル」のこれからを、どう見つめるか

2025年シーズンのスタッツが積み上がっていくにつれて、
「J2のデュエルキング」という評価は、さらに確かなものになっていくだろう。

骨折という挫折を経てなお、激しいデュエルを武器とし続けること。
アンカーとして、あるいは中盤の要として、いわきFCの「魂の息吹くフットボール」の中心に立ち続けること。

その生き様は、決して派手ではないかもしれない。
だが、育成年代の選手たち、Jリーグを夢見る子どもたち、そして指導者や親御さんにとって、
「サッカー選手として生きるとはどういうことか」を考えるうえで、大きなヒントを与えてくれる。

たった一つのオファーをつかみ、19番を託され、デュエルキングと呼ばれ、
骨折を乗り越え、初ゴールを決めた選手がいる。

その名前を、いつかJ2の枠を超えて、さらに多くの人が口にする日が来るのか。

「大西悠介」。
「ブル」。

いわきFCの背番号19番が、これからどんなサッカー人生を紡いでいくのか。
その行方を見届けることは、日本サッカーの未来を見つめることにもつながっているのかもしれない。

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