倉田秋──ガンバ大阪の「10番」が歩いてきた、しぶとく必死なサッカー人生
「ギリギリのところでしぶとく、必死に戦ってきたから勝ちを引き寄せられた」。
2025年4月、FC東京戦の敗戦を振り返りながら、次節・京都サンガF.C.戦に向けて倉田秋が語ったこの言葉には、彼自身のサッカー人生がそのまま滲んでいる。
華やかなテクニックや派手な数字だけではない。
何度つまずいても、何度出番を失っても、もう一度自分の場所を取り戻す。
ガンバ大阪の背番号10番・倉田秋のキャリアは、日本サッカーの「ホームグロウン」の理想像であると同時に、「順風満帆」とは程遠い、紆余曲折の歴史でもある。
高槻から万博へ──ユースのMVPが見たトップチームの壁
大阪府高槻市。
のびてゆく幼稚園、FCファルコンを経て、ガンバ大阪ジュニアユース、そしてガンバ大阪ユースへ。
倉田秋は、まさに「生え抜き」の道を歩んできた。
2006年、日本クラブユース選手権(U-18)決勝。
ガンバ大阪ユースの中盤で絶対的な存在だった高校3年生は、1-0での優勝を決める決勝点を叩き込み、大会MVPを獲得。
育成年代の指導者から見れば、「予定調和」のトップ昇格。
クラブから見れば、「将来のガンバ」を託されたタレントだった。
2007年、トップチーム昇格。
西野朗監督は、当時のゲームメーカー二川孝広と重ねて、こう評した。
「二川2世」。
7月7日、ナビスコカップ・浦和レッズ戦で公式戦デビュー。
ボランチでフル出場し、35mのバー直撃ミドル、ファウルでしか止められないドリブル。
片鱗は、誰の目にも明らかだった。
それでも、J1の層は厚かった。
中盤には日本代表・遠藤保仁、不動の10番・二川孝広。
ユース時代は「チームを中心で操る司令塔」だった少年は、プロになるとベンチで90分を過ごす日々が長くなる。
2007年から2009年までの3シーズン。
リーグ戦出場は合計わずか22試合、ノーゴール。
育成年代で「エース」と呼ばれた選手たちは、トップに上がった瞬間、そのほとんどが「その他大勢」になる。
いま育成年代で戦う選手たちは、このギャップの大きさを、どこまで想像できているだろうか。
レンタル移籍という選択──J2千葉、そしてセレッソ大阪へ
出場機会を求め、2010年、J2・ジェフユナイテッド市原・千葉への期限付き移籍。
開幕戦・ロアッソ熊本戦でJリーグ初ゴール。
そこからシーズンを通して29試合8得点。
プロになって初めて「レギュラー」という感覚を全身で取り戻す。
翌2011年はセレッソ大阪へレンタル移籍。
J1開幕戦、その相手はよりによって古巣・ガンバ大阪。
大阪ダービーでのJ1初ゴール。
このシーズン、リーグ戦10得点。
清武弘嗣、乾貴士、金甫炅との連携は、セレッソの攻撃サッカーを象徴するものになった。
面白いのは、その後も当時のチームメイトと親交が続いていることだ。
山口蛍や清武弘嗣と食事に行く。
そして、セレッソサポーターについて問われたとき、倉田はこう言っている。
「セレッソサポーターのことは好き。あったかいチームやったし。それも分かってるんで。試合になればガツガツ行きたい」。
ガンバのユースで育ち、ガンバの人間でありながら、ライバルクラブの温度も知っている。
それは「大阪ダービー」の景色を、誰よりも複雑で、そして深い色にしている。
ガンバ大阪への復帰──J2降格と、残留という決断
2012年、3年ぶりにガンバ大阪へ復帰。
怪我で出遅れながらも、復帰後はレギュラー定着。
だが、チームは極度の不振に陥り、クラブ史上初のJ2降格。
2013年、複数のJ1クラブからオファーが届く。
そこには、「J1でやり続けたい」というプロとして自然な欲求に、真っ向から反する決断があった。
倉田は、J1からの誘いを断ってガンバ残留を選ぶ。
J2開幕からレアンドロと2トップを組み、前半戦だけで7得点。
長谷川健太監督から「前半戦のMVP」と称される。
しかし、J2第21節徳島戦で左膝外側側副靱帯損傷および左脛骨近位骨挫傷。
長期離脱を強いられる。
2か月半後、J2第36節栃木戦で復帰。
ポジションをサイドハーフに変えながら、チームのJ2優勝とJ1復帰に貢献した。
「降格したクラブに残る」という選手の選択を、私たちはどれだけ真剣に見ているだろうか。
ステップアップする選択が「正解」に見えがちななかで、クラブと一緒に這い上がることを選んだ選手のキャリアには、単なる美談以上のリアリティがある。
国内三冠と「10番」──ガンバ大阪の象徴になっていく時間
J1に戻った2014年。
FWの人材不足から前線に入ることも多かったが、シーズン中盤以降は2列目からのハードワークで攻守を支えた。
天皇杯2回戦・ツエーゲン金沢戦ではプロ初のハットトリック。
リーグ終盤、優勝争いの天王山となった第32節浦和レッズ戦で、試合終了間際のダメ押しゴール。
J1優勝、ナビスコカップ、天皇杯。
ガンバ大阪の国内三冠の陰には、倉田の「泥臭いハードワーク」と「ここ一番の強さ」があった。
2015年には東アジアカップの日本代表に初選出。
韓国戦で代表デビューを飾り、山口蛍の代表初ゴールをアシスト。
ガンバでは4-2-3-1のトップ下に定着し、天皇杯連覇に大きく貢献する。
2017年。
長年二川孝広が背負ってきた背番号「10」を継承。
アカデミー出身者が、クラブの象徴的な番号を背負う。
それは、単なる数字の変更ではなく、クラブが「顔」として認めた証だった。
この年、倉田は日本代表にも本格的に絡む。
キリンチャレンジカップ・ニュージーランド戦で代表初ゴール。
続くハイチ戦でも先制点。
「ガンバの10番」が、そのまま「日本代表の攻撃的MF」として世界への扉をノックし始めていた。
届かなかったW杯、続いていくJリーグ
2018年。
ロシアW杯へのメンバー入りが期待されながら、シーズン序盤の怪我、コンディション不良、そして代表監督交代。
そこから先、倉田に再び日本代表から声がかかることはなかった。
世代としても、ポジションとしても、「W杯出場」にもっとも近づいた男のひとりだっただろう。
しかし、履歴書には「ワールドカップ」の文字はない。
それでも、Jリーグでの戦いは続く。
2019年、川崎フロンターレ戦で同点ヘッドを決めるも、相手選手と激突。
脳震とうと左頬骨骨折。
ゴールシーンが、そのまま救急搬送の場面に切り替わる。
2020年開幕戦・横浜F・マリノス戦。
J1通算50得点をマーク。
チームに9年ぶりの開幕戦勝利をもたらす。
W杯に届かなかったことを、どう受け止めるべきか。
それは本人にしか分からない葛藤だ。
だが、代表の栄光がなくても、J1で400試合以上、ガンバ一筋で戦い続ける選手の姿は、育成年代の選手にとって「もうひとつの成功のかたち」を示している。
キャプテンとしての苦しみ──出番を失った2022年
2022年、キャプテン就任。
だが、チームはシーズンを通して残留争い。
自らもシーズン中盤以降、出番を失い、ベンチ外の日々。
2009年以来となる、公式戦ノーゴールのシーズンとなった。
浦和レッズ戦では一度ゴールネットを揺らしながら、VARで取り消し。
キャプテンマークを巻きながら、自分はピッチにいない。
ベテランに訪れる時間は、若い頃には想像もつかないものだ。
育成年代の選手たちは、華々しい「トップ昇格」と「プロデビュー」の先に、こうした「出番を失う時間」があることを、どれほど現実として受け止めているだろうか。
「諦めないベテラン」の再出発──2023年、そして2025年の2ゴール
2023年は怪我で出遅れ、メンバー外が続いた。
ようやくリーグ戦初先発をつかんだのは第14節・横浜F・マリノス戦。
チームは敗れたが、倉田は好パフォーマンスを見せる。
そして翌節・アルビレックス新潟戦。
1年7ヶ月ぶりのゴール。
この1点が、チームの連敗を止め、その後の3年ぶりリーグ4連勝の起点となる。
誰からも「主役」と期待されない時間になっても、試合の流れを変える1点を決めることがある。
それが、ベテランの価値だ。
2025年2月22日、J1第2節・アビスパ福岡戦。
前半、こぼれ球にダイビングヘッド。
後半、右足で狙い澄ました一撃。
2ゴールで勝利に大きく貢献し、自身にとって2020年以来となる「1シーズン複数得点」に到達した。
かつてのように、シーズン10得点を求められる立場ではない。
それでも、チームが苦しいときにゴール前に飛び込む。
40歳を目前にしたMFが、いまだにゴール前で泥臭く頭から飛び込む姿を見て、何を感じるだろうか。
「ギリギリのところでしぶとく、必死に戦う」という哲学
FC東京戦の敗戦を振り返りながら、京都サンガF.C.戦に向けて倉田は、こう語っている。
「京都は首位を走る勢いのままに、思い切ってプレーをしてくると想像しても、強い気持ちで試合に入ることが第一だと思っています」。
「ここ最近の試合で少し失っている、各々がミスを恐れずに、どんどんチャレンジする姿をしっかり示したい」。
「昨年、自分たちがどんなふうに勝ってきたのか…決して強くなったわけではなく、ギリギリのところでしぶとく、必死に戦ってきたから勝ちを引き寄せられたということを、チームとしてもう一度リマインドして戦います」。
「決して強くなったわけではなく」という言葉は、実感から出たものだろう。
選手はしばしば、「自分たちは強い」と言いたくなる。
だが倉田は、勝てた理由を「ギリギリのところでのしぶとさ」と「必死さ」に求める。
これは、そのまま彼のサッカー人生の写し鏡でもある。
- ユースのMVPから、出番を求めてJ2・J1他クラブを渡り歩いた時間。
- J2降格を経験しながら、ガンバに残留した選択。
- 怪我、出場機会の減少、代表からの離脱。
- それでもなお、ガンバ大阪の10番として、ACLやリーグで戦い続ける姿。
華やかなキャリアの裏側には、必ず「ギリギリのラインで踏みとどまる時間」がある。
育成年代の選手は、ハイライト映像だけではなく、その部分にこそ目を向けるべきかもしれない。
ホームグロウンという生き方──指導者と親御さんへの問いかけ
ガンバ大阪は、下部組織から多くのタレントを輩出してきたクラブである。
その中で、「ジュニアユースからトップ」「クラブの10番」「500試合以上出場」という歩みを全うしている選手は、ごく限られている。
倉田秋は、その「生きるレジェンド」のひとりだ。
フットボールチャンネルは、彼を「2010年代のG大阪の象徴」と評した。
ボランチからトップ下、左右のサイドまで、どこでもこなすユーティリティ。
攻撃だけでなく、守備、強度、運動量。
「上手い選手」から「勝たせる選手」へと変化してきた過程は、指導者にとっても学ぶべきところが多い。
育成年代の指導現場では、「ポジションを固定して専門性を高めるべきか」「複数ポジションを経験させるべきか」という議論が絶えない。
ユース時代はセンターハーフからサイドハーフにポジションを変え、「前に出ていく回数を増やす」チーム戦術に適応してきた倉田の歩みは、その問いに対するひとつのヒントを与えてくれる。
また、選手の親御さんにとって、「我が子が試合に出られない時間」をどう支えるかは大きなテーマだ。
トップ昇格直後の出場機会の少なさ。
キャプテンになってから出番を失った2022年。
それでもあきらめず、自分の価値をピッチで証明し続ける選手の背中を、どう支えるか。
クラブ、指導者、家族、それぞれの関わり方が問われている。
「倉田秋」という物語を、どう受け止めるか
ガンバ大阪ユースのMVPとして脚光を浴びた少年は、プロの壁に跳ね返され、レンタル移籍を経験し、J2降格も味わった。
国内三冠、ACL、天皇杯の数々のタイトル、日本代表でのゴール。
その一方で、W杯という舞台には立てなかった。
キャプテンとして迎えたシーズンは苦しく、ノーゴールに終わった。
それでも2023年、新潟戦で1年7ヶ月ぶりのゴールを決め、2025年には福岡戦で2得点。
クラブ通算500試合超、70ゴール以上。
誰よりも長く、青と黒のユニフォームを汗と泥で汚してきた。
いまJリーグを夢見る選手たちにとって、「成功」とは何だろうか。
日本代表か。
ヨーロッパ移籍か。
それとも、自分が育ったクラブで10年以上愛される選手になることか。
そして、指導者や親御さんは、「結果」だけでなく、そこに至るまでの「しぶとく、必死に戦う」過程に、どれだけ目を向けられているだろうか。
ピッチの外からでは測り切れない葛藤や、カメラに映らないランニング、声掛け、チャレンジとミスの積み重ね。
倉田秋のキャリアは、そのすべてが「プロサッカー選手として生きる」というリアルを見せてくれる。
「決して強くなったわけではなく、ギリギリのところでしぶとく、必死に戦ってきたから勝ちを引き寄せられた」。
その言葉を、チームの話としてだけではなく、ひとりの選手のサッカー人生の告白として受け止めるとき、日本サッカーの未来を担う育成年代の選手たちに向けられた静かなメッセージが、はっきりと聞こえてくるはずだ。






