羽田健人というセンターバックを、もう一度「ゼロ」から見つめる
羽田健人。
大阪・三島郡島本町出身、1997年生まれ。
2025年シーズン、清水エスパルスのユニフォームに袖を通し、J1の舞台に再び挑むセンターバックである。
履歴だけを並べれば、よくある「大学経由でプロ入りしたDF」のひとりに見えるかもしれない。
島本FC、千里丘FC、金光大阪高校、関西大学。
そして、大分トリニータでプロキャリアをスタートさせ、2020年から5シーズンを過ごしたのち、2024年で契約満了。
そこから、J1・清水エスパルスへの完全移籍を掴み取った。
だが、その歩みを少し丁寧にたどっていくと、羽田健人というセンターバックが、日本の育成年代の選手や指導者、親御さんが学ぶべき「リアルなプロの姿」を映し出していることに気づく。
夢だけではない。順風満帆でもない。
ケガ、ポジション変更、契約満了、そして「もう一度、這い上がる」挑戦。
その全部を引き受けながら、彼は静かに、しかし確かなこだわりを胸にプレーしている。
「点を取るよりも守ってるほうが楽しい」──守備職人の原点
羽田健人の現在地を理解するには、まず彼自身のこの言葉に耳を傾けたい。
「点を取るよりも守ってるほうが楽しいんですよ。
やっぱり相手を抑え込めた時が一番楽しいし、それは相手のレベルが高ければ高いほど」
小学生時代はFWとして「点取り屋」だった。
ゴールを決める喜びを知っていたはずの少年は、中学からセンターバックにコンバートされ、大学までずっと最終ラインを守り続けることになる。
おそらく、多くの育成年代の選手にとって、「FWからDFへ」という転向は簡単なものではない。
華やかなスポットライトは前線に当たりがちで、守備は地味に見えることもある。
だが羽田は、その役割の変化を嘆くのではなく、「守ること」そのものに楽しさを見出していく。
ゴールではなく「0」にこだわること。
拍手を浴びるのではなく、相手を封じることでチームを支えること。
その価値を理解できる選手は、どれだけいるだろうか。
そして、その価値を本気で認め、育てきる大人はどれくらいいるだろうか。
千里丘FC、金光大阪、関西大学──「ポゼッション」と「つながり」が育てた足元の技術
羽田が語る自分の強みは、明確だ。
「ビルドアップの部分は足下の技術で違いを見せてほしいとソリさんにも言われましたし、自分としても強みはそこだと思っています」
その基盤は、中学時代の千里丘FCにある。
「めちゃくちゃポゼッションするチームやった」と振り返るように、当時からボールを保持しながらゲームを組み立てるスタイルの中でプレーしてきた。
センターバックでありながら、足元に自信を持ち、ラインを高く保ち、相手を自陣に押し込ませない。
「ラインの裏を取られてから対応するのではなく、その前にラインの上げ下げで相手を潰す」という彼の守備観は、ポゼッションサッカーの中で築かれたものだ。
金光大阪高校への進学には、「兄貴がいたからっていう繋がりのおかげ」と本人は語る。
華々しいスカウトではなく、人のつながりの中で次のステージへ上がっていった。
関西大学へ進む頃には、周囲にはすでにプロを目指す、あるいはプロに近づいている選手たちがいた。
「関西大に進学してからは、周りにプロに行く選手たちがいたから、そういう選手たちからいろいろなことを学んだし、自分も追いつきたいと思いながら必死にやっているうちにプロになることができました」
特別な才能だけがプロへの切符を運んでくるわけではない。
環境が人を育てる。
そして、同じ夢を持つ仲間の存在が、意識を変え、練習の質を変えていく。
「気づいたらプロになっていた」という言葉の裏には、大学時代の地道な積み重ねがある。
大分トリニータで味わった高低差──デビュー、ボランチ、そして契約満了
2019年、大分トリニータの特別指定選手としてJリーグのピッチに立った。
11月30日、J1第33節・ベガルタ仙台戦で先発出場。
ユアテックスタジアム仙台でのデビュー戦は、長く夢見てきたプロの舞台だった。
2020年からは正式に大分の一員となる。
当初は出場機会こそ限られたが、シーズン途中からボランチとしてチャンスを掴み、リーグ戦20試合に出場。
2021年には34試合に出場し、J1の舞台で経験を積み重ねていく。
2022年、クラブはJ2を戦うことになったが、羽田はここで大きな一歩を踏み出す。
栃木SC戦でJリーグ初ゴール。
ディフェンダーでありながら、攻撃参加の質も磨きつつ、J2で13試合1得点。
2023年も24試合に出場し、1得点を記録した。
だが2024年シーズンは、ケガに苦しめられた。
リーグ戦出場はわずか3試合。
彼自身も「満了だろうな」と感じていたように、シーズン終了後の面談で大分トリニータとの契約満了を告げられる。
プロキャリアをスタートさせたクラブを離れる。
数字だけを見れば、「戦力外」「契約満了」といった冷たい言葉で一括りにされてしまう瞬間だ。
だが、その裏には、ケガと闘いながらもチームの一員として過ごした時間と、本人しか知らない葛藤が横たわっている。
「一度は契約満了になった身」からのJ1清水エスパルス移籍
シーズン終了後、羽田は新たなチームを探し始めた。
オファーをくれたのは、「下のカテゴリー」のクラブが中心だったという。
すでに移籍先を決めようとしていた、その「最後の最後」、清水エスパルスからのオファーが届いた。
「まずオファーが来て素直に嬉しかったですし、その日のうちにソリさん(反町康治GM)とオンラインで面談をしたんですよ。
『去年は試合にあまり出られなかったけど、その悔しさからもう一回這い上がっていこう。一緒に頑張ろう』といった言葉をいただいて、やっぱり上のカテゴリーでもう一回勝負したいという想いもあったので」
J1への復帰。
ただし、それは「レギュラー保証」や「順風満帆」の象徴ではない。
むしろ、「もう後がない」と自分でわかっているからこそ選んだ厳しい道だ。
「今27歳で、一度は契約満了になった身で、もう後がないってことは分かっています。
これからもサッカーを続けていくためには、今やるべきことをやるだけ」
育成年代の選手たちは、「プロになる」ことをゴールだと勘違いしてしまうことがある。
だが、プロになったあとも、契約、ケガ、出場機会、競争…さまざまな現実が待っている。
羽田健人の2024年から2025年への時間は、その「プロの現実」をまざまざと示している。
試合に出られない時間を、どう生きるか
清水エスパルスに加入してから、リーグ開幕から約1カ月。
まだリーグ戦には絡めていない。
もちろん悔しさはある。
だが、彼の言葉には、不思議なほど「焦り」がない。
「めっちゃ充実してます。もちろん試合に絡めていないのは悔しいですけど、それ以上にやっぱり日々すごく高いレベルでサッカーができて、それを学んでいっている実感があるので」
「試合に出られない=ストレス」
そう感じる選手も多い中で、彼はその状態を「自分の足りない部分が分かる時間」として受け止めている。
「まだまだ自分に足りないものがあるんだって思いながら今はできているし、もっとレベルアップするために日々やっているから。
試合に出るために直さないといけないところが僕には山ほどあるんですよ。
今のままでは試合に絡めないだろうって自分が一番実感しているし、だからもっとやらないといけない」
育成年代の選手や、指導者、親御さんにこそ、ここに目を向けてほしい。
「試合に出られない子どもの時間」は、本当に「無駄な時間」なのだろうか。
そこで腐るか、伸びしろだと捉えられるか。
羽田は、後者を選んでいる。
ピラティス、ジャイロトニック──「サッカーのためならアクティブに」
彼の「伸びしろ」へのこだわりは、トレーニングにも表れている。
最近始めたのは、ピラティス──正確にはジャイロトニックの個人レッスンだ。
「フィジカル的にもっと強くなりたいと思って、でも単に身体を大きくすれば良いってわけでもないし、柔軟に動けるようにしたかったので、ピラティスの個人レッスンに通い始めました」
昨季の膝のケガ。
そのリハビリと再発防止も意識しながら、膝の使い方や身体の動き方を学び直している。
クラブハウスを出るときの「ピラティス行ってきまーす!」という言葉には、どこか楽しげな響きすらある。
「サッカー以外のことだとなかなか家から出ないタイプ」と笑う一方で、「サッカーのためならアクティブに頑張れる」と言い切る。
プロとして生き続けるための投資を、自分の身体に惜しまない。
この「自分の身体に責任を持つ」という態度もまた、若い選手たちが早くから身につけるべきプロ意識の一つなのかもしれない。
リーダーシップと感情、そして「1点」に対する責任感
中学時代から「リーダーになれ」と言われ続けてきたという羽田。
しかし、彼は自分を「怒らないタイプ」だと自覚している。
「試合中にも怒ることがないんですよ。それが良くない部分でもあると思っていて、年齢的にももうチームを引っ張るような役割を担っていかないといけない立場になってくると思いますし、今回の移籍をそのきっかけの一つにできたらな、とも思っています」
声を荒げて仲間を鼓舞するだけがリーダーではない。
守備ラインをコントロールし、ハイラインを保ち、チーム全体の距離感を整える。
その一つひとつの判断に、静かなリーダーシップが宿る。
同時に、彼は「失点」に対して並々ならぬ責任感を持っている。
「試合が終わったら一旦はめちゃくちゃ落ち込みます。でも、プレーを見直しながら何がいけなかったのかを考えて、ダメなところはしっかり受け止める。それで、次はこうしたろうっていう答えを自分なりに見出して」
センターバックにとって、「1点」はただの数字ではない。
自分の一歩、自分の判断、自分のポジショニングが、チームの失点に直結することもある。
その現実から逃げず、落ち込み、受け止め、また次の試合に向けて立ち上がる。
それを何度も繰り返すメンタリティを、どれだけの選手が持てるだろうか。
ボランチ経験がくれた「360度」と、センターバックに戻った今
大分時代、羽田は本職のセンターバックに加えて、ボランチにも挑戦した。
その経験は、自分の中の「新しい自分」を知るきっかけになったという。
「今までやったこともなかったポジションをやって、そこでもまた足下の技術を磨かないといけないと実感して、すごく良い経験になりました。
ボランチをやって良かったなと思うのは、センターバックに戻った時にボランチのように360度を常に意識しなくて良いので、めちゃくちゃ余裕を感じられるんですよ」
守備的MFとして、360度からプレッシャーを受けるポジションを経験したからこそ、最終ラインに戻ったときに「視野の広さ」「時間の感じ方」に余裕が生まれた。
その感覚をもう一度取り戻そうと、今はセンターバックとしてのプレーに落とし込もうとしている。
育成年代で複数のポジションを経験することの意味を、ここにも見て取れる。
ひとつのポジションだけを極めることも大切だ。
だが、異なる視点からピッチを見た経験は、のちに必ず自分の武器に変わる。
羽田のキャリアは、そのことを静かに証明している。
「ガンバファンの少年」が、憧れのクラブの前でプレーする日を夢見て
大阪生まれの少年時代、羽田は親と一緒にガンバ大阪の試合を観に行く「ガンバファン」だった。
憧れの存在は「ツネ様」こと宮本恒靖。
J1初優勝の頃のガンバを、スタンドから見つめていた。
その少年は今、J1の清水エスパルスのセンターバックとして、再びトップリーグの舞台を目指している。
2025シーズン、アウェイでのガンバ戦でメンバーに入れなかったことを、彼は心から悔しがっている。
「この前のアウェイのガンバ戦でメンバーに入れなくて、めちゃくちゃ悔しかった。
今季はまだリーグ戦でのホームでの対戦も残っていますし、そこで試合に出てやってやるぞと。
自分が憧れてたチームの前で、自分のプレーを見せたい」
スタンドから見上げたピッチに、今度は自分が立ちたい。
その思いは、きっと育成年代の誰もが抱いたことのある感情だろう。
だが、そこに本当に辿り着けるのは、ほんの一握りの選手だけだ。
一度は契約満了を経験しながら、もう一度J1でその夢に手を伸ばそうとしている27歳のディフェンダー。
そこに、日本サッカーが大事にすべき「キャリアの物語」が刻まれている。
「もう後がない」からこそ、今を生きる
島本FCでボールを追いかけていた少年が、千里丘FCでポゼッションサッカーを学び、金光大阪で兄の背中を追い、関西大学でプロを現実の目標として意識し始めた。
大分トリニータでのデビュー、ボランチへの挑戦、J1とJ2をまたいだ86試合、2ゴール。
そして、2024年のケガと契約満了を経て、清水エスパルスへの移籍。
この経歴のどこか一つでも欠けていたら、今の羽田健人はいない。
中学2年のとき、ケガで1年間ほとんどサッカーができなかった時期もあった。
そこでサッカーをやめていても、おかしくはなかった。
だからこそ、彼は言う。
「もう後がない」と。
だが、その言葉は悲壮感ではなく、「今やれることを精いっぱいやる」という前向きな決意とセットになっている。
試合に出られない時間を腐らせないこと。
ケガと向き合い、自分の身体に投資し続けること。
「守ること」に喜びを見出すこと。
そして、自分が憧れていたクラブの前でプレーする日を、本気で目指し続けること。
羽田健人のサッカー人生は、華やかな見出しにはならないかもしれない。
だが、その一つひとつの選択と積み重ねは、育成年代の選手たちにとって、そして選手を支える指導者や親御さんにとって、確かな学びの材料になる。
プロになることだけがゴールではない。
プロになってから、何を大事にし、どんなふうに生きるのか。
清水エスパルスの新しい背番号41は、その問いを、静かに、しかし力強く、ピッチの上で投げかけている。
「守ることが楽しい」と言い切るセンターバックが、日本サッカーの未来を支える一人になっていくのかどうかを、これからじっくりと見守りたくなる。






