「遠くを描かない」サイドバック──松田陸が示す、プロを生き抜く道

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松田陸というサイドバックを、もう一度「物語」として読む

Jリーグで229試合に出場し、数々のタイトルを手にしてきた右サイドバックがいる。

FC東京、セレッソ大阪、ヴァンフォーレ甲府、ガンバ大阪、そして2025年シーズンからはヴィッセル神戸。

その名前を、私たちはどこまで「物語」として受け止めているだろうか。

松田陸。

33歳になった今もなお、激しいアップダウンを繰り返し、守備も攻撃も担うサイドバックとしてピッチを駆け回る。

このコラムでは、「選手名検索」でよく見かけるプロフィールではなく、その行間にある決断、迷い、そして覚悟を、育成年代の選手や指導者、親御さんが自分ごととして読めるように辿っていきたい。

幼少期から「ずっと一緒」──双子の弟と歩んだ育成年代

大阪市北区。

インドネシア人の父、日本人の母のもとに生まれた松田陸は、幼稚園の頃にサッカーを始めた。

小学校1年で地元クラブ・大阪セントラルFCに加入すると、そこから大学卒業まで、双子の弟・松田力と同じチームでプレーし続ける。

兄はDF、弟はFW。

ポジションは違っても、いつも同じグラウンドに立ち、同じゴールに向かい、同じ負けを悔しがる時間を共有した。

高校進学で彼が選んだのは、大阪でも関西でもない、島根県の立正大学淞南高校。

「全国大会に出られるから」

理由はシンプルだ。

大阪の強豪に埋もれる道もあったはずだが、「全国に出たい」という一心で地方の強豪校に飛び込んだ。

いま、高校選びに迷う中学生や親御さんにとって、この選択はどう映るだろうか。

名前で選ぶのではなく、「自分がどこで勝負できるか」を基準に選んだ結果が、彼のその後のキャリアに確かな足跡を残していく。

立正大淞南では、FWからセンターバックへコンバート。

2年連続で高校選手権に出場し、3年時には主将を務める。

「抜群の身体能力と攻撃センスを併せ持つセンターバック」として注目され、早くも「攻撃的DF・松田陸」というイメージが形を取り始める。

びわこ成蹊スポーツ大学へ──「史上最高の選手」と呼ばれた4年間

2010年、びわこ成蹊スポーツ大学へ進学すると、総監督からは

「大学史上もっとも優れた選手が入ってくる」

と評され、望月聡監督からも入学当初から

「フィジカルでは既に大学レベル」

と太鼓判を押される。

サイドバックにポジションを移し、運動量、スピード、クロス精度を磨きながら、弟・力の得点を支える存在になっていく。

弟が得点王として注目を浴びたとき、兄はこんな本音を漏らしている。

「誰がアシストしてると思ってんねん!」

そこには、兄弟ならではのライバル心と、FWとDFという立場の違いから生まれる、報われにくさへの悔しさがにじむ。

得点者の名前は残る。

だが、クロスを上げた選手の名前は、時に記憶からこぼれ落ちていく。

育成年代のDFやサイドバックの選手たちは、この気持ちに覚えがあるのではないだろうか。

それでも4年時には主将を務め、関西学生リーグ優秀選手に2年連続で選出。

デンソーカップではベストイレブンにも輝き、プレーヤーとしてもリーダーとしても、確かな評価を獲得していく。

FC東京でのプロスタート──「特別指定」から這い上がる

2013年、FC東京の特別指定選手に。

このとき、クラブの強化部長は彼をこう評している。

「練習参加に来てくれた際の彼の人間性と練習に対する姿勢が素晴らしかった。来る度にスタッフ、フロントの全員と打ち解け、すでに入団しているかのような愛され方をしていた」

見た目は「怖い」と言われ、人見知りでもあると自己分析する一方で、真面目な姿勢とコミュニケーションで、環境に溶け込む力を証明していく。

「サッカーがうまい」だけではプロには残れない。

練習態度、人間性、周囲との関係性も、評価の大きな部分を占めることを、その存在は静かに伝えている。

複数クラブから獲得オファーがあった中で、すでにFC東京入りを決めていた陸は、2014年から正式加入。

当時、日本代表として世界で戦っていた長友佑都を目標に掲げ、自ら背番号50を選ぶ。

右サイドバックのレギュラーには徳永悠平。

簡単にはポジションが空かない状況下で、左右両サイドをこなしながら、スピードとクロスで出場時間を少しずつ積み重ねていった。

J1初ゴールは、ガンバ大阪戦。

太田宏介のクロスにヘディングで合わせた一撃は、のちに彼が「禁断の移籍」と言われる形でそのクラブに入団することまで含めて、ひとつの伏線のようにも見えてくる。

地元・セレッソ大阪へ──「地元のクラブ」を選ぶという決断

2016年、契約はまだ残っていた。

それでも彼は争奪戦の末、幼い頃から応援してきた地元クラブ、セレッソ大阪への完全移籍を選ぶ。

J2での戦いとなった最初のシーズン、リーグ戦全試合出場。

リーグ2位のクロス数を記録し、攻撃的サイドバックとしての存在感を一気に高める。

J1へ昇格した2017年には、山口蛍に勧められ背番号2へ変更。

「J1でもやれることを証明したい」

そう語った通り、この年は31試合に出場。

右サイドでは水沼宏太との縦関係が大きな武器となり、クラブはルヴァンカップ、天皇杯制覇とクラブ史上に残るシーズンを過ごす。

その陰には、自分より目立つ選手たちを支え続ける、地道なアップダウンとクロスの積み重ねがあった。

2018年、リーグ戦序盤は3試合連続警告で「出場停止リーチ」に追い込まれる。

それでも結局シーズン終了まで4枚目はもらわなかった。

激しく戦いつつ、ギリギリのところでコントロールする。

「熱さ」と「冷静さ」の同居は、成熟したDFでなければ身につかないバランスだ。

最終節の横浜F・マリノス戦では、2得点の起点となり逆転勝利に大きく貢献。

退任が決まっていたユン・ジョンファン監督は、彼をこう称えた。

「キックがうまくなった。この2年間で伸びた選手」

伸びているのは、才能ではない。

毎日のトレーニングと試合の中で、キックひとつ、判断ひとつを積み重ねた結果だ。

「才能があるから」ではなく、「伸びようとしてきたから」いまがある。

育成年代の指導者にとっても、選手を評するときの言葉を考えさせられるエピソードだろう。

ロティーナとの出会い──サイドバック像が変わった瞬間

2019年、2010年代後半のJリーグを語る上で欠かせない指揮官、ミゲル・アンヘル・ロティーナがセレッソ大阪の監督に就任する。

相手にボールを持たせる守備、ビルドアップにこだわるスタイル。

この2シーズンで、松田陸のサッカー観は大きく変わる。

ロティーナとの出会いでサッカー観が全て変わり、サイドバックとして、攻め上がるだけではなく、しっかり後ろから繋ぐことに参加し、ゲームメイクをする必要性を学び、チームの中で担う重要性を感じられるようになった

「走れるサイドバック」から、「ゲームメイクも担うサイドバック」へ。

ここで身につけたビルドアップ能力は、その後のガンバ大阪、そしてヴィッセル神戸への移籍にもつながっていく。

育成年代で攻撃力ばかり注目されがちなSBに、「後ろから試合を作る」という視点を与えてくれる変化だ。

2020年には3バックの右に入ることも多くなり、守備者としての対応力も磨かれた。

ロティーナ監督の最終戦、鹿島アントラーズ戦ではミドルシュートでシーズン初ゴール。

1-1のドローに持ち込み、ACL出場権獲得に貢献する。

この数年間で、彼のプレーは大きく変化した。

だが、根っこにあるのは高校時代、大学時代から続く「チームのために走る」姿勢であり、それが新しい戦術の中で形を変えて開花したに過ぎない。

兄弟で同じピッチに──「夢が叶った」セレッソでの日々

2021年。

ヴァンフォーレ甲府でゴールを重ねていた双子の弟・松田力が、完全移籍でセレッソ大阪へ加入する。

プロ入り後、初めて兄弟で同じクラブに在籍することになった。

「夢であった兄弟でプロの世界でプレーする願いがこのチームで叶ったことを嬉しく思います」

子どもの頃から同じクラブで育ち、高校も大学も同じ道を辿ってきた2人が、プロでは別々のキャリアを歩んできた。

その2人が、地元クラブで再び同じユニフォームを着て、同じ勝利を目指す。

「夢は叶う」と簡単に言うには、あまりに紆余曲折に満ちた時間だった。

ガンバ大阪戦では、弟加入後のシーズンにミドルシュートでシーズン初ゴール。

新監督・小菊昭雄の初陣を勝利で飾る。

ピッチの外では、2016年にモデルの七菜香さんと結婚し、2019年に長女、2024年には長男が誕生。

家族という支えの中で、プロとしての責任感はさらに重く、そして深くなっていった。

禁断と呼ばれた決断──ガンバ大阪への移籍

2024年、長く在籍したセレッソ大阪から、ライバルクラブとされるガンバ大阪への完全移籍。

サポーターからは「禁断の移籍」とも呼ばれ、多くのメッセージが届いたという。

それでも、彼はこう語っている。

「今回の決断を、禁断の移籍とかいろんなメッセージをもらいました。でも、気にしていません。僕にとってはいただいたオファーがたまたまガンバで、自分の好むスタイルと合致したのがガンバだったというだけのこと。もちろん、約8年間僕を育ててくれたセレッソには感謝していますし、その事実は永遠に変わりません」

クラブへの愛と、プロとしてのキャリア。

その両方を抱えながら、どこでプレーするかを選び取っていくのがプロの世界だ。

育成年代や親御さんにとっても、「どのクラブでプレーするか」という選択が、時に感情と現実の板挟みになることは少なくない。

そんな中で、彼の言葉は一つの指標になるかもしれない。

「今はしっかりとガンバに勝利をもたらすことができるような選手になって、1つでも多く勝利しタイトルを取ってチームメイト、スタッフ、サポーターとみんなで喜びたい」

どこにいても、そのクラブのために全力を尽くす。

過去への感謝を手放さず、現在のチームに覚悟を持つ。

「遠くの目標は描かない」と語る彼は、その理由をこう説明する。

「毎年、先のことなんてどうなるかわからないし、本当に毎試合、毎試合、1年、1年に覚悟を決めて勝負しないと先もない」

このスタンスがあるからこそ、セレッソから甲府、ガンバ、そして神戸へと、環境が変わり続ける中でも彼はプロとして生き延びている。

ヴァンフォーレ甲府での時間──移籍の意味をどう捉えるか

2023年8月、シーズン途中でヴァンフォーレ甲府へ期限付き移籍。

J1からJ2への移籍は、表面的には「ステップダウン」と捉えられがちだ。

だが、プロの世界では、出場機会を得るため、もう一度自分の価値を証明するための選択であることも多い。

実際、甲府でのプレーを経て、翌年にはガンバ大阪からオファーを受けることになる。

短い期間であっても、どのクラブでも全力を尽くす選手には、次のチャンスが巡ってくる。

試合に出られないシーズンをどう耐え、どう「次」に繋げるのか。

そこに対する一つの答えを、彼のキャリアは静かに示している。

ヴィッセル神戸へ──33歳、まだ「新しい挑戦」を選び続ける

2024年シーズン限りでガンバ大阪との契約が満了となり、将来が注目されていた中、2025年シーズンの神戸のトレーニングに練習生として参加。

フィジカルメニューやミニゲームで存在感を示し、ビルドアップ能力に優れた右サイドバックとしてトライアルを勝ち取る。

2月5日、ヴィッセル神戸加入が正式発表された。

「ヴィッセル神戸の一員として戦えることを光栄に思います。J1リーグ3連覇、国内三冠、ACL優勝、全て達成できるように全力で戦います」

33歳のサイドバックが掲げる目標に、「年齢による限界」という言葉はない。

頂点を狙うチームで、タイトルを見据えながら、右サイドの一角を争う日々が始まる。

神戸はポゼッションを重視し、後ろからのビルドアップにこだわるクラブだ。

ロティーナのもとで磨いてきた「繋ぐ力」は、ここで再び価値を増していくだろう。

高校でのコンバート、大学でのサイドバック起用、FC東京でのプロの洗礼、セレッソでのタイトル経験、甲府での再起、ガンバでの挑戦。

その全部が、「ヴィッセル神戸の右サイドバック・松田陸」に集約されていく。

「代表に呼んでほしい」声と、インドネシアというルーツ

インドネシア人の父を持つ彼には、いつも多くのインドネシアからのコメントが寄せられる。

クラブや本人のSNSには、「インドネシア代表でプレーしてほしい」というメッセージが頻繁に届く。

インドネシア代表でのプレーについて問われたとき、彼は国籍や規定の問題から、すぐには実現できないと説明しつつ、将来的なインドネシアでの選手生活には興味を示している。

サッカー選手としてのキャリアは、日本国内に閉じているわけではない。

アジア全体で見たとき、彼のようなバックグラウンドとプレースタイルを持つ選手には、多様な可能性が開かれている。

日本の右サイドバックはレベルが高く、代表の門は簡単ではない。

そんな中で、お笑い芸人でサッカー通として知られるワッキーは、彼をこう評価している。

「体が強くて、ケガも少ない。プレーもすごく安定していて、ミスが本当に少ないというのはDFにとって大事な能力だと思います。ちょっとやんちゃっぽく見えるのにラフプレーはしないし。クロスの精度も高くて、アーリークロスは抜群にいい」

「松田選手は監督が変わっても絶対に重宝される。これが選手としての能力の高さを表している。(中略)どこかのタイミングで代表に呼んでほしいとずっと思っています」

「監督が変わっても重宝される」。

これは、派手な数字よりも、プロの世界で長く評価されるために何が必要かを端的に表した言葉だろう。

運動量、安定感、怪我の少なさ、ラフプレーをしない冷静さ、そしてクロスの質。

育成年代の選手たちは、ゴールやドリブルの派手さだけでなく、こうした「見えにくい能力」にも、自分の価値の種を見出してほしい。

「遠くを描かない」スタイルと、日本サッカーへの問いかけ

ここまで松田陸のキャリアを辿ってくると、一つの共通点が見えてくる。

  • 高校進学も「全国に出られるから」という理由
  • 大学では「アシストしてるのは自分だ」という誇り
  • プロ入り後は、ポジション争いを避けずに選んだFC東京
  • 地元クラブ・セレッソへの移籍
  • 戦術に適応し、ビルドアップ能力を磨き続けた日々
  • 出場機会を得るための甲府行き、スタイルに魅かれてのガンバ行き
  • そして、日本の頂点を狙うヴィッセル神戸への挑戦

華やかなようでいて、そのすべては「今、この1年、この試合」をどう戦うかの連続だった。

彼が「遠くの目標を描かない」と言う背景には、プロとしての実感があるのだろう。

育成年代のピッチには、「将来はヨーロッパへ」「Jリーガーになりたい」と口にする子どもたちがあふれている。

その夢は素晴らしい。

同時に、「次の試合に向けて、今日、何を変えるか」という視点を持てているかどうかで、その夢への距離は大きく変わっていく。

日本サッカーは、技術も戦術も、世界と比べて確実に前進している。

だが、「長くプロでプレーし続ける選手」から、私たちは何を学んでいるだろうか。

番号や移籍の派手さ、SNSのフォロワー数よりも、「監督が変わっても重宝される」選手の価値を、どこまで本気で評価できているだろうか。

松田陸の33歳からの挑戦は、その問いを私たち一人ひとりに投げかけているようにも見える。

派手なヒーローではないかもしれない。

それでも、ヴィッセル神戸の右サイドで、今年もまた、誰かのゴールの少し手前に「正確なクロス」を送り込んでいる。

そのボールの軌道の裏側には、幼い頃に弟と走り回った大阪のグラウンドや、島根の寮部屋、びわこの冬の風、味スタの歓声、ヤンマースタジアムのナイター、甲府の空気、吹田のスタンド、そして神戸の港町の風景が、静かに折り重なっている。

サイドバックというポジションに、自分の未来を重ねている誰かが、この物語の続きに、自分なりの一歩を踏み出していくのかもしれない。

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