Jユースに選ばれなかった少年が川崎フロンターレの水色へ辿り着くまで――名願斗哉の「振り子ドリブル」と逆境のサッカー人生

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名願斗哉のサッカー人生 ― 「フロンターレに入りたくても入れなかった少年」が水色のユニフォームに袖を通すまで

大阪府堺市北区出身、2004年生まれ。
名願斗哉という名前は、いまやJリーグファン、そして育成年代の指導者のあいだで確実に存在感を増しつつある。
川崎フロンターレ所属の攻撃的MFであり、2024年からは育成型期限付き移籍でベガルタ仙台へ。2025年3月、J2第6節・ジュビロ磐田戦でプロ初ゴールを記録し、同年8月には仙台との契約を解除して川崎に復帰した。

ここに至るまでの道のりは、一見すると順調なエリート街道のようにも見える。
ガンバ大阪ジュニアユースから履正社高校、そして川崎フロンターレ、ベガルタ仙台。
だが、その裏側には「Jユースに入りたくても入れない」「憧れのクラブに近づけない」という、育成年代の多くの選手が直面する現実と、そこから這い上がる過程が詰まっている。

ガンバ大阪ジュニアユースで知った「届かない現実」

名願斗哉が最初に脚光を浴びたのは、小学生のころだった。
SSクリエイトでプレーしていた彼のもとには、複数のJクラブからジュニアユースへの誘いが届く。
その中で彼が心に決めていたのは、ただひとつだった。

「中学生になったらフロンターレのジュニアユースに入りたい」
「自分もあの中でサッカーがしたい」

しかし、川崎フロンターレU-15に入るには、家族での引っ越しが必要だった。
現実的な事情を前に、川崎U-15への挑戦は断念。
結果として、実家から通えるガンバ大阪ジュニアユースの門を叩くことになる。

だが、ガンバでの日々は、順風満帆とはいかなかった。
試合出場の機会は徐々に減っていき、やがて「ユース昇格」という明確な目標さえ遠のいていく。
最終的に名願は、守備戦術の理解度の低さを理由に、ガンバ大阪ユースへの昇格を逃すことになる。

同世代の仲間がユース昇格を決めていくなかで、自分だけがそこから外れる。
これは、育成年代の多くの選手たちが経験しうる、しかし決して軽くない現実だ。

そこで名願は、もう一度「憧れ」に賭けようとする。
川崎フロンターレU-18のセレクション情報をかき集め、挑戦を模索した。
だが、ここでも壁が立ちはだかる。
川崎U-18には寮がなく、生活環境を含めた現実的な問題から、またしても断念を余儀なくされる。

さらに彼は、ベガルタ仙台ジュニアユースのセレクションにも挑む。
しかし、告げられたのは合否ではなく「合否保留」という曖昧な評価だった。

「今の自分の実力では(Jユースは)厳しいと思った」

この言葉には、才能ある選手であっても、システムの中で評価されない苦しさがにじむ。
Jユースを目指しながら届かなかった選手たちは、日本中にどれだけいるだろうか。
名願斗哉は、その一人だった。

履正社高校との出会い ― 「Jユースに入れなかった選手」の再出発

失意の中にいた名願に、声をかけた人物がいた。
履正社高校サッカー部監督・平野直樹。
彼は当時の名願のプレーをこう振り返る。

「斗哉は他の選手にはない独特なリズムのドリブルを持っていた。
これだけの個性を消さないようにしながら、いかに守備やチームの中で特徴を出せるようにするかを身につけさせたら、とてつもない選手になると思った」

当初、名願のこだわりはあくまで「Jユース」。
高校サッカーよりも、クラブユースでプロを目指す道を強く意識していた。
だが、平野監督の熱意とビジョンは、彼の心をゆっくりと動かしていく。

「高校サッカーでもう一度這い上がる」。
そう心に決め、名願は履正社高校への進学を選んだ。
結果的にこの選択が、彼のサッカー人生を大きく変えていくことになる。

中学最後の大会、高円宮杯全日本ユース(U-15)では、ガンバ大阪ジュニアユースでレギュラーの座を勝ち取り、日本一を経験する。
ユース昇格を逃した直後の日本一。
この経験は、名願の中にひとつの教訓を強く刻んだ。

「ちゃんと自分を知った上で努力をすれば必ず報われる」

これは、結果に一喜一憂しながらも、自分の足りなさから目をそらさず、積み重ね続ける選手だけがたどり着ける境地かもしれない。
高校進学前にこの感覚を掴めたことは、名願のその後を決定づける大きな財産となった。

履正社で背負った「10番」と、国立に届かなかった悔しさ

履正社高校に入学した名願を待っていたのは、またしても簡単ではない日々だった。
1年時は試合に絡めず、選手権はスタンドからの応援に回る。
2年生になってようやく途中出場から出番を掴むも、インターハイも選手権も予選敗退という結果に終わる。

それでも彼は、「川崎フロンターレのユニフォームを着てJリーグのピッチに立つ」という目標を手放さなかった。
高校に進学してからも、川崎の試合映像を見続け、中村憲剛、家長昭博、谷口彰悟、守田英正、板倉滉、三笘薫、田中碧といった選手たちのプレーを研究し続けた。

「自分を磨き続ければ、いつかは叶うと思っていた」

そして迎えた高校3年。
名門・履正社の「10番」を背負い、第101回全国高校サッカー選手権に挑む。
大会前から優勝候補の一角に挙げられたチームの中心で、名願はその代名詞となる“振り子ドリブル”を武器に、全国の舞台で躍動する。

1回戦・東邦戦。
左サイドでボールに触れず、ステップと上半身のフェイントだけで相手をかわし、その流れからのこぼれ球を押し込んでゴール。
続く2回戦・盛岡商業戦では、まさに“圧巻”のパフォーマンスを見せた。

後半早々に先制点をアシスト。
さらにグラウンダーのクロスにニアへ飛び込み、右足のヒールでファーサイドのDF西坂斗和へボールを送ってゴールを演出。
右CKからはニアに飛び込んだFW古田和之介の足元にピンポイントのボールを届け、3点目をアシスト。
6得点中5得点に絡む活躍で、6-0の大勝劇を演出した。

しかし、流れは永遠には続かない。
3回戦・佐野日大戦。
勝てばベスト8、国立競技場も見えてくる大一番で、相手は5バックの堅守を敷いてきた。
攻撃的な履正社にとって、それはまさに「崩し方を問われる」試合だった。

名願は60分、鋭い切り返しから、角度のない位置で右足を振り抜き、同点ゴールを奪う。
だが、相手のゴールネットを揺らせたのはその一度だけ。
勝負はPK戦に持ち込まれ、履正社は涙を飲んだ。

「80分間守り切ろうという相手の考え方をどう崩すかが難しかった。
頭が整理できない状況でロングスローから僕の目の前ですらされてしまい、先に失点。
相手を勢いにのせてしまった。本当に悔しいです」

3試合で2得点3アシスト。
数字だけ見れば十分に「エース」の成績だった。
しかし名願自身は、国立のピッチに立てなかった現実を、簡単には受け入れられなかった。

「国立での試合を見て、正直悔しかった。
自分たちもあそこまで行けたはずと思いましたし、プレーしたかった。
不完全燃焼で終わりました」

それでも、この大会でのパフォーマンスは、彼が川崎フロンターレ内定の選手にふさわしい存在であることを全国に知らしめるものだった。
そして、自らも「ずっと憧れ続けたクラブ」と、ついに交わる時が訪れる。

「フロンターレでプレーするためには『ただのドリブラー』ではダメ」

名願斗哉のドリブルは、独特だ。
振り子のように片足ずつ前へと刻みながら加速し、ボールを両足で巻き込むように扱う。
相手から見ると、常にボールは“隠されて”いて、安易に足を出せない。
足を出した瞬間に、インフロントでスッと引っ掛けられ、置き去りにされる。

筆者の間では「振り子ドリブル」と呼ばれるこのスキルの真価は、技術そのもの以上に、「顔を上げたまま」行える点にある。

「2人目、3人目と(1人目のDFの)後ろの選手を見ています。
1枚目を右か左かで剥がした時に、2人目がどういう出方をしてくるか。
そのうえでどのコースを選ぶかを考えて、運び方は一瞬の閃きでやっています」

多くのドリブラーが「抜くこと」そのものに意識を奪われる中で、名願は常に先の局面、2枚目・3枚目のDFまで視野に入れている。
それは、彼が高校時代から見続けてきた川崎フロンターレのサッカーの影響でもある。

川崎のサッカーは、ワンタッチ・ツータッチの連続で相手を圧倒し、パスワークでゲームを支配する。
そこに、三笘薫のような「ドリブルで局面を破壊できる存在」が加わることで、相手は完全に後手に回る。

「フロンターレでプレーするためには『ただのドリブラー』ではダメなんです。
ワンタッチ、ツータッチのパス回しができた上で、それでも崩せない時に三笘選手のようにドリブルで相手をかわすことが必要だと思った」

ドリブルはあくまで「手段のひとつ」。
ゴール前までをいかに正確に運び、フィニッシュに結びつけるか。
彼の視点は常に、「個人技」と「チーム戦術」をつなぐ場所に置かれている。

だからこそ、三笘薫との比較についても、名願はこう語る。

「もちろん憧れであり、尊敬している選手の一人です。
でも、僕は僕だと思っています。
僕自身はそこまでドリブルにこだわっているのではなく、いかに正確にゴール前まで行けるか、フィニッシュまで行けるか。
その手段の一つがドリブル。
サイドだけでなく中央でもワンタッチプレーでリズムを作れることが自分の特徴だと思っています。
三笘選手とはまた違ったアクセントになれるようになりたい」

育成年代の選手たちにとって、この「ドリブルは手段」という感覚は、大きなヒントではないだろうか。
ドリブルが武器であっても、「抜くことそのもの」が目的になった瞬間に、チームの中での価値は下がってしまう。
名願斗哉は、個性を最大限に活かしながら、同時にそれを「チームのための手段」に昇華させようとしている。

川崎フロンターレへの加入、そしてベガルタ仙台での成長

2022年9月7日。
履正社高校在学中の名願斗哉は、2023シーズンからの川崎フロンターレ加入内定をつかむ。
小学生の頃から憧れ続けたクラブの背番号を、本当に背負うことになった瞬間だった。

川崎のスカウトは何度も彼の試合を視察し、オファーを決断。
名願自身も、最初に練習参加の話を聞いた時の気持ちを、こう語っている。

「最初、フロンターレの練習参加の話をもらった時は『え、嘘でしょ』という気持ちでした。
行きたかったけど、大学に進んだほうがいいのかなと思っていたので」

しかし、実際に等々力陸上競技場のピッチに立つ選手たちの練習に交じると、画面の向こうで見てきた世界が目の前に広がった。
そこで彼は、改めて心の底から「ここで戦いたい」と感じる。

2023年3月8日、ルヴァンカップ・グループステージの清水エスパルス戦でプロデビュー。
「水色のユニフォームを着てJリーグのピッチに立つ」という、ずっと描いてきた夢の第一歩を踏み出す。

とはいえ、川崎フロンターレというクラブは、若手にとって決して簡単な環境ではない。
完成度の高い戦術、結果が強く求められるクラブ文化、そしてポジション争いの激しさ。
さらに名願は、「川崎U-18出身ではない選手」としてクラブに入る立場でもあった。

「(川崎U-18の)プレミアリーグを制したメンバーから昇格してくる選手や、川崎の下部組織から大学経由で加入する選手もいる。
僕1人だけ『他所』から入ってくるわけなので、より覚悟を持たないといけないと思っています。
それに僕は下部組織に入りたくても入れなかった立場なので、(フロンターレに対する)気持ちは同じかそれ以上に強いと思っているし、そう思わないとダメだと思っている。
フロンターレカラーのユニフォームを着るからには責任ある行動やプレーをしないといけないし、プライドを持ってやりたい」

この「他所から来た選手」としての視点は、育成年代の多くの選手に重なるものがあるかもしれない。
生え抜きではないことへのプレッシャー。
それでも、そのクラブの色を理解し、愛し、体現しようとする決意。

2023シーズンを川崎で過ごした名願は、さらに実戦機会を求めて、新たな選択をする。
2023年12月28日、ベガルタ仙台への育成型期限付き移籍が発表されるのである。

かつてジュニアユースのセレクションで「合否保留」とされたクラブ。
あの時は届かなかったベガルタ仙台のエンブレムを、今度はプロサッカー選手として身につけることになった。

仙台での日々は、名願にとって「J2のリアル」と向き合う時間になっただろう。
タイトな日程、泥臭い試合、勝ち点1の重み。
2025年3月23日、J2第6節ジュビロ磐田戦でプロ初ゴールを決める。
名願の名前は、結果という形でようやくプロの記録に刻まれる。

そして2025年8月20日。
ベガルタ仙台との育成型期限付き移籍契約を解除し、川崎フロンターレへの復帰が発表される。
ガンバ大阪ジュニアユース時代に「届かなかったユース」から始まり、履正社での再起、川崎加入、仙台での成長、そして再び川崎へ――。
一度は遠ざかったはずの「水色の未来」が、改めて目の前に広がっていく。

名願斗哉の歩みが育成年代に問いかけるもの

名願斗哉のサッカー人生は、きれいな成功物語ではない。
むしろその多くは、「届かなかった」「選ばれなかった」「悔しかった」という経験で彩られている。

  • フロンターレU-15に入りたくても、家庭の事情で断念したこと。
  • ガンバ大阪ユース昇格を、守備戦術理解の不足で逃したこと。
  • ベガルタ仙台ジュニアユースのセレクションで「合否保留」とされたこと。
  • 履正社の10番として、国立のピッチに立てなかったこと。

それでも彼は、「自分の現在地」から目をそらさなかった。
自分の武器を磨きながら、自分に足りないものを認め、高校サッカーという別の道を選び、そこで自分を高め、プロへの扉をこじ開けた。

育成年代の多くの選手たちは、あるタイミングで「Jユースに入れなかった」「セレクションで落ちた」「強豪校に行けなかった」という現実に直面する。
そのとき、名願斗哉の歩みは、ひとつの問いを投げかけているように思える。

「選ばれなかったあと、あなたはどこで、どう這い上がりますか?」

Jリーグクラブのアカデミーにいることだけが、プロへの最短距離ではない。
高校サッカーに活路を見出す選手もいれば、地方クラブやユース以外の環境で力をつける選手もいる。
名願斗哉は、「Jユースに入れなくても、フロンターレのトップにたどり着ける」という、一つのモデルケースでもある。

そして指導者や保護者にとっては、「評価されないタイミングで、選手の心をどう支えるか」という視点を投げかけているのかもしれない。
合否だけが全てではなく、その後に選手がどの環境で、どんなモチベーションを持ってサッカーを続けられるか。
履正社の平野監督のように、「この個性を消さないように」と声をかけられる大人がどれだけいるかは、日本サッカー全体に関わる問いでもある。

名願斗哉は、今も道半ばの選手だ。
川崎フロンターレの水色のユニフォームに袖を通しながら、ベガルタ仙台での時間を経て、再びJ1の舞台でどんなアクセントをもたらしてくれるのか。
彼の「振り子ドリブル」が、やがて日本サッカーの新たな象徴のひとつとして語られる日が来るのかどうか。
その答えは、これからの彼自身の選択と、積み重ねによって描かれていくのだろう。

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