公立校からJ1のピッチへ──「環境に甘えず」歩み続けるストライカー・沼田駿也の現在地

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沼田駿也という物語。公立校からJ1へ、「環境に甘えず」歩んだストライカーの現在地

大阪府高槻市。ひたすらボールを追いかけていた一人の少年が、2025年シーズン、再びJ1の舞台に帰ってくる。

名前は、沼田駿也。

FC町田ゼルビアの背番号22。スピードと背後への飛び出しを武器にゴールを目指すアタッカーは、決して「エリート街道」を歩んできたわけではない。

真上FC、高槻市立第二中学校、大阪府立摂津高校、そして関西大学。

いわゆる強豪私立でも、全国常連校でもない。

それでも、2022年にレノファ山口FCでプロの門を叩き、2023年にはFC町田ゼルビアへ。2024年にはJ1のピッチを踏み、同年夏から鹿児島ユナイテッドFCへの期限付き移籍を経験し、2025年に町田へ戻ってきた。

「環境に甘えず」積み上げてきた年月が、静かに、しかし確かに、Jリーガー・沼田駿也の物語を形づくっている。

「ひたすらサッカー」だった少年時代と、公立校という選択

「子供の頃はゲームを持っていましたが、それをやっていた印象はあまりなく、近くにあった公園で、ひたすらサッカーをしていましたね。」

2つ上の兄の影響で始めたサッカーは、幼稚園のサッカー教室を経て、小学一年生から本格的にボールと向き合う生活となる。

ジュニアユースで名門クラブへ、強豪私立高校への進学——そんな「分かりやすいエリートコース」を選ぶ選手が多い中で、沼田の歩みは少し違っていた。

真上FC、高槻市立第二中学校、大阪府立摂津高等学校。

すべて公立。全国大会常連でもなく、大きくメディアに取り上げられることも少ない環境だ。

それでも、彼はそこで夢を手放さなかった。

「自分も小学校から高校まで普通の公立校に通っており、全国レベルではサッカーしていませんでした。けれども、夢や目標に対して叶えたいという気持ちがあれば、意外と手に届くということは自分が身にしみて感じた」

育成年代の指導者や、子どもを支える親御さんにとって、この言葉は重い意味を持つのではないだろうか。

「強豪校じゃないから」「街クラブだから」「スカウトが来ないから」。

そうやって夢のハードルを無意識のうちに上げてしまってはいないだろうか。

関西大学での「ポジション転換」と得点王。FW沼田駿也の誕生

関西大学に進学してからも、すぐにスターになれたわけではない。

元々のポジションはサイドハーフ。突破力と運動量を生かしながらも、ゴール前で目立つタイプではなかった。

そんな中で、大きな転機となったのが前田監督のひと言だった。

「相手のディフェンスラインの背後に走るスピード、意欲、体力というところがそろっていたので、フォワードで使ったら面白いんじゃないかな」

サイドから前線へ。役割が変わるということは、求められる責任も変わるということだ。

「崩す側」から「決める側」へ。

3年次、ついにフォワードでレギュラーポジションを掴んだ沼田は、その期待に結果で応えた。新型コロナウイルスの影響で後期リーグのみの開催となった関西学生リーグで、8試合出場6得点。

関西大学からの得点王は、2008、2009年に連続得点王となった金園英学以来。

「公立出身のサイドハーフ」は、ここでようやく、「得点王FW沼田駿也」へと姿を変えた。

それでも、彼の中にある姿勢は変わらない。

「謙虚に素直におおらかに」

中学時代のコーチにかけられたこの言葉を、いまも大切にしている。

数字で証明しながらも、どこか肩の力が抜けたように、自分の成長を見つめていく。

「プロに行けるか行けないか」の中で、就活もしていた大学4年

関西大学で得点王を獲得しながらも、「プロへの道」は、実は一本の太いレールとして用意されていたわけではない。

「大学生の時に、プロに行けるかいけないかという状況の中で、サッカーをしながら就職活動をしていました。商社やメーカーなどを受けていた」

「Jリーガーになる」と同時に、「一般企業で働く」未来も現実感を持って考えていた。

プロ一本で突き進むことは格好いい。

しかし、一人の人間として将来をシビアに見つめる姿は、同じようにプロを目指す大学生や、高校生にこそ知ってほしい現実でもある。

結果として、2021年9月、レノファ山口FCが2022シーズンからの加入内定を発表。

ギリギリまで揺れていた「2つの未来」のうち、彼はプロサッカー選手という道を選び取った。

その背景には、前田監督のこんな願いも重なっている。

「しっかりと大学で成果を残して、Jリーグで活躍できる選手になって(関西大学OBの)前川(ヴィッセル神戸)や荒木(サンフレッチェ広島)のようにいずれ日本代表に選ばれるような選手になっていってほしい」

この「期待」を、選手本人はどう受け止めてきたのだろうか。

期待されることの重さを感じつつも、彼はいつも、自分のペースで階段を一段ずつ登ってきた印象がある。

レノファ山口FCでのプロデビュー。「劇的逆転弾」がくれた確信

2022年2月20日、J2開幕戦ロアッソ熊本戦。

維新みらいふスタジアムで、沼田駿也はJリーグのピッチに立った。

翌週のブラウブリッツ秋田戦ではプロ初ゴール。

シーズンを通じて41試合7得点、天皇杯2試合1得点。ルーキーとして申し分ない数字を残した。

その中でも、彼が「最高の瞬間」と振り返る試合がある。

「山口時代のホームの試合で、雨が降る中先制されるという難しい状況で、アディショナルタイムに逆転ゴールを決めた時は最高でした。今まで劇的な勝ち方をさせることができてこなかったので本当に嬉しかったです。」

サイドからフォワードに変わり、「点を取る責任」と向き合ってきた数年間。

その重圧が、あの雨の夜、歓声とともに報われた。

育成年代の選手たちは、「プロでやっていけるか」を不安に感じる時期が必ずある。

指導者も、親御さんも、「この子は本当にプロの舞台で通用するのか」と、心のどこかで問いながらサポートを続けている。

沼田にとっての、その一つの答えが、あのアディショナルタイムの一撃だったのかもしれない。

FC町田ゼルビアへの移籍と、J2優勝・J1昇格の一員として

2023年、FC町田ゼルビアへ完全移籍。

クラブとして歴史的なシーズンとなった2023年、町田はJ2優勝とJ1昇格を果たした。

沼田自身はリーグ戦33試合出場2得点。レノファ山口時代の「点取り屋」とはまた違う役割を担いながら、チームの躍進に貢献した。

スピードを生かした背後への飛び出し、前線からの献身的な守備。

数字だけで測れない「前線の起点」として、チームを支える時間帯も増えていった。

2024年、クラブ初のJ1の舞台。

彼は背番号19を付け、J1リーグ戦に1試合出場、ルヴァンカップにも2試合出場した。

決して多い出場時間ではない。だが、「J1でプレーした」という経験は、積み重ねてきたキャリアの新たな1ページであることは間違いない。

鹿児島ユナイテッドへの期限付き移籍。「出場するために下がる」選択の意味

2024年7月、沼田は鹿児島ユナイテッドFCへ期限付き移籍する決断を下す。

J1のクラブから、J2のクラブへ。

ステップアップだけがキャリアではないことを、改めて考えさせられる選択だ。

鹿児島ではJ2リーグ10試合出場。

ゴールという目に見える結果こそ残らなかったが、新たな土地、新たなクラブで、前線から走り続ける日々が続いた。

休日には、これまで住んだ街の観光地に足を伸ばしてリフレッシュすることを大切にしてきた沼田。

山口時代は角島大橋や唐戸市場に、町田では鎌倉の温泉へ。

鹿児島でもきっと、新しい景色を目に焼き付けながら、自分自身と向き合う時間を過ごしていたのだろう。

2025年、彼は再びFC町田ゼルビアに戻ってくる。

背番号22を背負い、J1のピッチに立つ準備を重ねながら。

「環境に甘えず」というメッセージが問いかけるもの

沼田駿也の歩みを追いかけると、一貫している言葉がある。

「諦めなければ夢はかなうということです。自分の夢や目標は環境が影響しているわけではなく、自分の思いが大切だと思います。」

そして、もう一つ。

「どの環境にいても気持ちさえあれば夢や目標はかなうということを伝えたいです。」

真上FC、公立中学、公立高校、関西大学。

Jクラブのユースでもなく、全国高校サッカー選手権の常連でもない。

それでも、プロになった。

そして、J2で90試合以上に出場し、J1の舞台にも足を踏み入れた。

もちろん、「環境は関係ない」という言葉は、誤解されれば危うさも孕んでいる。

実際には、良い指導者に出会うこと、適切な強度のトレーニング、栄養やケアのサポートなど、「環境」が選手の成長に与える影響は決して小さくない。

それでも、彼が言いたいのはきっと、こういうことだ。

  • 「強豪じゃないから無理だ」と、自分で自分の限界を決めてしまわないこと
  • どの環境にいても、「できることを最大限やる」という主体性を手放さないこと
  • 置かれた場所で努力し続けることが、いつか次の扉を開く可能性を生むこと

育成年代の選手にとって、この視点はとても重要だ。

指導者や親御さんにとっては、「環境を言い訳にしない」というメッセージを、どう支え、どう現実とつなげていくかが問われているのかもしれない。

「乗り越えられない壁はない」と自分に言い聞かせるメンタル

キャリアの中で、すべてが順風満帆という選手はいない。

出場機会を失う時期、怪我やコンディションの問題、競争に敗れる現実。

沼田もまた、「J1のクラブにいながらJ2へ移籍する」という現実に向き合っている。

「まずは乗り越えられない逆境や壁はないと自分に言い聞かせて、メンタルを良い方向にもっていくことです。またミスをしたときは、自分にできることは限られているということを理解し、そのミスに対して深く落ち込まないということを意識しています。」

「乗り越えられない壁はない」と言い聞かせる一方で、「自分にできることは限られている」と冷静に受け止める。

このバランス感覚こそが、彼の強さかもしれない。

根拠のないポジティブさではなく、冷静な自己理解に裏打ちされた前向きさ。

失敗から目を背けないが、必要以上に引きずりもしない。

メンタルの波に大きく飲み込まれやすい年代の選手にとって、この「距離感」は一つのヒントになるのではないだろうか。

公立校からプロへ。沼田駿也のサッカー人生が教えてくれること

数字だけを並べれば、92試合10得点(2025年1月31日時点)。

J2通算84試合9ゴール、J1通算1試合出場、天皇杯5試合1ゴール、ルヴァンカップ2試合出場。

「Jリーグを代表するストライカー」と言われるには、まだ道半ばかもしれない。

だが、真上FCから始まったサッカー人生は、公立校を経て関西大学の得点王となり、レノファ山口FCでプロとしての一歩を踏み出し、FC町田ゼルビアでJ2優勝とJ1昇格を経験し、鹿児島ユナイテッドFCへの期限付き移籍を経て、再びJ1の舞台に挑もうとしている。

その一つひとつの選択に、「環境に甘えない」という姿勢が通底している。

休日には温泉やサウナに出かけ、住んでいる街の観光地を巡りながらリフレッシュする。

学生時代のアルバイト先「創作ダイニングTAKE」に帰省のたびに顔を出しに行く。

一人の人間として、サッカーだけで埋め尽くされない時間を大切にしながら、それでも「プロサッカー選手」としての責任からは逃げない。

UDNを通じて、「子どもたちに夢を与える」活動をしていきたいと語る彼は、自身のキャリアそのものを通して、一つのメッセージを発信しているように見える。

「どの環境にいても、夢や目標に対する自分の思いがあれば、意外と手に届く」

いま、公立校でプレーしている選手たちは、自分の未来を狭く見積もってはいないだろうか。

強豪クラブに所属している選手たちは、「環境が良いから大丈夫」と、どこかで安心してしまってはいないだろうか。

指導者や親御さんは、「環境」に目を向けるあまり、「その中でどう生きるか」という選手本人の思いを見落としてはいないだろうか。

沼田駿也のサッカー人生は、まだ途中だ。

J1でゴールを重ねる未来、日本代表を目指す未来、あるいは全く別の形でサッカー界に貢献していく未来——そのどれもが、これからの努力と選択次第で変わっていく。

だからこそ、いまこの瞬間の彼の姿勢や言葉は、育成年代の選手やJリーグを夢見る若者、そして彼らを支える大人たちにとって、大切な「現在進行形の教材」なのかもしれない。

公立校からJ1へ。

「謙虚に素直におおらかに」。

そして、「環境に甘えず」。

沼田駿也という名前を、これからJリーグのピッチで何度も耳にすることになるのかどうか。

その答えは、彼自身の思いと、日々積み重ねていく努力の中に静かに刻まれていくのだろう。

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