村田透馬という物語。紆余曲折を“エンジョイフットボール”で塗り替えてきた男
「J3ですごかったではなく、J2、J1でも通用する選手になりたい」。
横浜FCへの移籍が決まった2024年、その言葉を口にした村田透馬。
2025年夏、ついにJ1の舞台でその夢に挑み始めていた25歳は、しかしウォーミングアップ中のアクシデントでピッチから離れることになった。
診断は左腓下腿三頭筋肉離れ、全治3カ月。
J1残留争いの渦中にある横浜FCにとっても、そして自身にとっても、決して軽くない離脱だ。
だが、村田透馬という選手のサッカー人生を振り返ると、この出来事もまた、彼の歩みを象徴する一つの“山場”に過ぎないようにも思えてくる。
いつだって彼は、遠回りしながら、迷いながら、そのたびにサッカーへの愛情を深くし、前へ進んできた。
「友達ともっと会いたい」から始まったサッカー人生
大阪府堺市。
明るく陽気な母、寡黙な父、そして父に似た姉。
4人家族の中で育った少年は、もともと「野球派」だった。
小さい頃はキャッチボールをして遊び、「サッカー少年」からは少し距離のある日常を送っていた。
「一番仲が良かった友達がサッカーを始めて、土日に全然遊べなくなってしまって……。一緒のチームに入れば、会える時間が増えるなと思って小学校のチームに入りました」
サッカーを始めた理由は、「友達ともっと会いたい」から。
強烈な夢とか、プロへの野心ではない。
どこにでもいそうな、少し可愛らしいきっかけだ。
ただ、ボールを追いかけるうちに、その“理由”は少しずつ変わっていく。
もともと体を動かすことが大好きだったことも手伝い、サッカーの魅力にのめり込んだ少年は、やがて地元のクラブ・ガンバ大阪に憧れを抱くようになる。
当時期待のルーキーだった宇佐美貴史。
「青黒」の10番に目を奪われた少年は、小学5年生でガンバ大阪のスクールに加入した。
少年団の深井FC、ガンバ大阪堺ジュニア、さらにフットサル。
当時の自分を村田は「根拠のない自信」と表現する。
スピードを生かして裏へ抜け、ゴールを量産し、地区大会で優勝。
ドリブルは「全然うまくなかった」と振り返りながらも、誰より前に出ていく姿勢だけは、すでに今へと繋がっていた。
ピアノも続けていた。
姉の影響で小1から鍵盤に触れ、学校行事では伴奏を務めるほどの腕前。
「遊ぶことが好きだった」と言いながら、数多くの習い事をこなし、隙間を見つけて友達と遊ぶ。
無自覚のまま、時間の使い方と集中の切り替えを身につけていたのかもしれない。
サッカーから逃げた1年、母がつないだ“戻るきっかけ”
ガンバ大阪堺ジュニアユースへの昇格。
憧れだったトップチームと同じ、“青黒”のユニフォーム。
サッカー人生がこのまま一直線に進んでいくようにも見えた中で、彼は大きく道を外れる。
「中1の夏過ぎにオスグッドが悪化してしまって、1カ月くらい練習を休むことになったんですが、その間にチームメイト以外の友達と遊ぶ時間が増えて楽しくなっちゃって」
「サッカーが嫌いになったわけではない」。
それでも、グラウンドが遠い、怪我が長引いていることにして休み続ける。
「サッカー選手になる」と公言していた少年は、サッカーから離れ、「遊び」に心が傾いていった。
この時期、表立って何も言わなかった母は、実はずっと動き続けていた。
「『好きにしな』って言ってくれてたんですけど、友達のお母さんとどうやってサッカーに向き合えるようにするかを考えてくれていて。市のマラソン大会に出てみればと言われて、やる気になって練習して3位に入賞しました。そこで、勝負事とかスポーツってやっぱり楽しいなと」
走るのが好き。
負けず嫌い。
マラソン大会という、サッカーとは少し違う「勝負の場」が、彼の中に眠っていた感情を揺さぶった。
同じ頃、一つ上の先輩たちが全国大会に出場する姿を見て、「自分も全国を経験したい」とサッカーへの想いが静かに戻ってくる。
中2の夏、ピッチ復帰。
ただし、それは「何事もなかったかのように」戻るのとは違った。
ジュニアユースの監督は、再びチームでプレーする条件を提示する。
- 少し明るく染めてしまった髪を戻すこと
- 3カ月間、練習を一度も休まず全力で取り組むこと
村田はその決意を示すように、自ら頭を丸めた。
そして、無我夢中にボールを蹴り続ける。
「ちゃらんぽらんだった」と語る少年が、初めて「自分で決めた責任」を背負ってサッカーに向き合い始めた瞬間だった。
ここで、一度立ち止まって考えてみたくなる。
育成年代の選手は、どこかで必ず「やらされるサッカー」と向き合う時期が来る。
疲れも出るし、友達と遊びたい気持ちも生まれる。
そのとき、周りの大人は、どんな“戻り道”を用意してあげられるのか。
村田の母がかけた「マラソン大会に出てみれば」という一言は、押し戻す言葉ではなく、「もう一度スポーツを楽しんでみない?」という誘いだった。
サッカー指導者や親御さんが、彼のエピソードから学べるものは少なくない。
ガンバユースではなく興國高校へ。合言葉は“エンジョイフットボール”
中学卒業後、多くが予想したであろうガンバユースではなく、彼が選んだ進路は興國高校だった。
「ユースの練習に参加させてもらってはいたんですが、イメージしていたチームの雰囲気とかプレースタイルと少し違うなと感じたところがありました。もう少し、自分に合った環境を探したいなと思って」
第一候補だった前橋育英は、中3の夏の怪我で断念。
そんなときに対戦した興國高校に、彼は強烈な魅力を感じる。
1年生で世代別代表に選ばれるタレント、個を生かすスタイル。
「今の自分に足りないことが、このチームでなら一番補えるかもしれない」。
この選択は、のちのプロキャリアに直結する。
当時の興國は、選手権出場歴ゼロ。
しかし、全国有数の「Jリーガー輩出校」として、個の育成には定評があった。
入学してすぐに痛感する。
「周りは自分よりもはるかにうまかった。ドリブル練習から始まるんですけど、僕が一番下手くそでした」
イライラし、コントロールを失いかける。
メンタルコーチに頼る時期もあった。
そんな村田の軸を整えたのが、当時監督だった内野智章(現スーパーバイザー)が繰り返し伝えた言葉だった。
「どんなときも楽しむ心を忘れずに」
“エンジョイフットボール”。
最初は耳に入らなかったこのメッセージが、少しずつ彼の中に染み込んでいく。
できることが増え、「遊ぶこと」が大好きな性格とサッカーが結びつく。
負けず嫌いは「イライラ」ではなく、「もっとうまくなりたい」というポジティブなエネルギーに変わっていった。
苦手だったドリブルは、やがて最大の武器になる。
興國のエースナンバー“10番”を背負い、チームの中心としてプレーするまでに成長。
ここにも問いがある。
「勝つため」だけにこだわったとき、選手はどこかで自分を見失うことがある。
「楽しむ」という言葉は、ときに軽く聞こえるが、最も苦しい時期にこそ、その意味が試される。
指導者にとって、「エンジョイフットボール」と真剣に言い続ける覚悟を持てるかどうか。
興國での村田の変化は、その問いへの一つの答えになっているのかもしれない。
岐阜での挫折と飛躍。ベテランと、“世界”を見据える背中
高校3年の夏、FC岐阜からオファーが届く。
大学進学は考えなかった。
2018年、特別指定選手として岐阜に登録され、J2第28節・京都サンガF.C.戦でJリーグデビュー。
2019年に正式加入を果たす。
しかし、プロの現実は甘くない。
2019年シーズンの出場はリーグ戦8試合。
2020年、クラブはJ3降格。
怪我にも悩まされ、出場機会は思うように伸びなかった。
それでも、3年目の2021年3月28日。
J3第3節・カマタマーレ讃岐戦でプロ初ゴール。
少しずつ、ではあるが、確実にピッチ上での存在感を増していく。
2021年、26試合2得点。
2022年、20試合1得点。
そして、プロ5年目の2023年。
リーグ戦33試合に出場し、5ゴールをマーク。
J3という舞台で、ようやく「チームの主力」と呼べるシーズンを過ごした。
この岐阜での5年間を支えたのは、経験豊富な先輩たちの存在だった。
「柏木陽介さんや宇賀神友弥さんと一緒にプレーできたのは、大きな財産になりました。『お前は絶対J1で活躍する選手になれる』と言ってもらえたことは、今でも心の支えになっています」
浦和レッズでタイトルを獲得し、日本代表も経験した二人からの言葉は、J3のピッチに立つ若きドリブラーにとって、未来の景色をはっきりと描かせてくれるものだっただろう。
そして、もう一人。
興國高校からFC岐阜を経て、スコットランドの名門セルティックへ、そして日本代表へと駆け上がった古橋亨梧。
「移籍が決まったと聞いた時は、すごいところまで行ってしまったなと……。でも、自分もそういう場所に立ちたいという気持ちが強くなりました」
マンチェスター・シティ相手に決めたゴールも、しっかりチェックする。
かつて同じ高校のグラウンドで汗を流した大先輩。
その背中は、「地方クラブから世界へ」という道筋を、非常にリアルなものとして、村田の前に提示していた。
横浜FCへの移籍。J2で磨いた“韋駄天”の矜持
2024年、村田は5年間を過ごしたFC岐阜を離れ、横浜FCへ完全移籍する。
カテゴリーを一つ上げ、J2の舞台で「昇格」という明確な目標を持つクラブを選んだ。
そこには、J1でのプレー、ひいては古橋が切り開いたような道への渇望があった。
横浜FCで与えられた新たな役割は、左ウイングバック。
最前線も最後尾も担うポジション。
攻撃だけでなく、守備の強度も求められる。
象徴的な出来事が、いわきFCとの2試合だ。
「ホームでのいわき戦は、ずっと昔から言われていた背後を狙われて入れ替わられて……。攻撃ではやれる部分を見せられたところもあるけど、結果2失点に絡んでしまいました。横浜FCに来て初めて先発で出たので、僕のプレーの強みだけでなく弱みもみんなに印象付ける試合になってしまいました」
攻撃の切れ味は見せた。
しかし、守備面の弱さが露呈する。
新天地での「洗礼」であり、多くの選手がここで自信を失う。
だが、その2カ月半後。
アウェイのいわき戦で、村田は全く別の姿を見せる。
競り合いで負けず、背後も突かれない。
守備で相手の良さを消し続け、試合終盤の90+2分。
ゴール前の混戦からボールを収め、渾身のシュートで移籍後初ゴール。
「普段だったらああいうところではパスを出すと思うんですけど、『やってやる』というエゴが出ましたね。チームのみんなからも“因縁の相手”と言われていたので、あの試合で初ゴールが生まれて本当によかったです」
失敗をそのままにせず、「次は違う自分を見せる」。
J3で積み上げた自信と、興國で育まれたメンタリティが、横浜の地で再び一つの形を結ぶ。
2024年シーズン、横浜FCでのリーグ戦27試合2ゴール。
途中出場も増えた終盤には、
「少ない時間でもアシストやゴールという結果を残すことにこだわりたい」
と口にしていた。
“横浜の韋駄天”。
スピードでサイドを切り裂き、スタジアムにどよめきを起こす存在として、その名は確実にサポーターの記憶に刻まれつつあった。
J1の壁と負傷離脱。それでも消えない「通用したい」という野心
2025年、横浜FCはJ1の舞台に戻ってきた。
村田は新シーズンも公式戦19試合に出場し、左サイドから推進力をもたらす役割を担う。
しかしクラブは第24節終了時点で19位。
6連敗、監督交代。
残留争いの重苦しい空気が覆う中、第23節・横浜F・マリノス戦前のウォーミングアップで左腓下腿三頭筋肉離れ。
全治3カ月。
J1での戦いは、「通用するかどうか」を、時に残酷なまでに突きつけてくる。
その真っ只中での戦線離脱は、選手にとって簡単に整理できるものではない。
ただ、もしこれまでの歩みを丁寧に振り返るなら、この怪我も、彼にとって「終わり」ではなく「もう一度強くなるきっかけ」として位置付けられるはずだ。
中学生でサッカーから離れた1年。
怪我に悩まされたプロ入り後の2シーズン。
ホームいわき戦での失敗からアウェイいわき戦での“やり返し”。
村田透馬は、何度も止まり、遠回りしながら、そのたびに一段階上の自分を手に入れてきた。
リハビリの日々の中で、きっと彼はまた「エンジョイフットボール」という原点に立ち返るのだろう。
サイドを駆け上がる快感。
一人を抜き、二人をかわし、スタンドが湧く瞬間。
J1で「通用する選手になる」と口にした自分の言葉。
怪我をした今だからこそ、改めて自分自身に問いかけているかもしれない。
なぜ走るのか。
なぜ抜きに行くのか。
なぜ、J1という舞台に立ちたいのか。
育成年代と指導者、親御さんへ。村田透馬のサッカー人生から見えるもの
「友達ともっと遊びたい」から始まったサッカー。
サッカーから逃げた1年。
母のさりげない一言で戻ったグラウンド。
興國高校で出会った“エンジョイフットボール”。
J3での苦悩、ベテランたちの支え、古橋亨梧の背中。
そして今、J1の残留争いの最中での長期離脱。
村田透馬の歩みは、華やかなストレートストーリーではない。
むしろ、育成年代の多くの選手、親御さん、指導者が直面する「現実」を、よりリアルに映し出している。
- モチベーションが揺れる時期をどう乗り越えるか
- 「やらされるサッカー」から「自分で選ぶサッカー」へどう移行するか
- 失敗や遠回りを、どう成長に変えるか
- 「楽しむ」と「勝ちにこだわる」をどう両立させるか
これらの問いに、唯一の正解はない。
ただ一つ言えるのは、村田のように「紆余曲折を経ても、何度でもサッカーに戻ってこられる選手」は、必ずどこかで強さを発揮する、ということだ。
J1でのプレーは、まだ「通過点」に過ぎない。
J3で名を挙げ、J2、そしてJ1へ。
その先に、古橋が見せてくれたヨーロッパの舞台を、彼が思い描いても不思議ではない。
「J3ですごかったではなく、J2、J1でも通用する選手になりたい」
この言葉に、今なら続きが足されているのかもしれない。
「怪我をしても、何度でも戻ってこられる選手になりたい」。
「楽しむ心を失わずに、J1で勝負し続ける選手でいたい」。
横浜FCのユニフォームをまとい、再び左サイドを駆け抜ける日。
そのとき、どれだけの育成年代の選手たちが、彼の背中に自分を重ね合わせるだろうか。
どれだけの指導者や親御さんが、「遠回りしてもいい、でも戻ってこられる選手に」と願いを新たにするだろうか。
“横浜の韋駄天”村田透馬の物語は、J1残留争いのただ中で、一度立ち止まりながら、まだ静かに、しかし確かに、続いている。






