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15歳の決断がサッカー人生を左右する


非常に曖昧な記憶ですが、私が中学2年生の14歳の時に開催された、8地域トレセン(今は9地域?)の大会に参加した話から、15歳で加入したガンバ大阪ユースの話をしたいと思います。


あれは今思えば、何の大会だったのでしょうか。おそらく今でいう「ナショナルトレセンU-14」のような大会だと思います。


当時の大会ではパンフレットも配布されており、その大会に参加していた選手の一覧が載っていました。おそらく実家のどこかを探せばパンフレットがあると思いますが、まさに今、未だ鮮明に記憶していることは、前年度の同大会で活躍した小松原学が、そのパンフレットの表紙を飾っていたと言うことです。


当時は選手としてのピークを迎えており、関西トレセン(当時ガンバ大阪ジュニアユースに所属していた)の10番として大会に参加していました。肝心の結果がどうであったかは全く覚えていません。ただ、東海トレセンに所属していた佐野裕哉鈴木良和のプレーを、スタンドから観戦していたのは記憶しています。それが決勝戦だったことも覚えています。


私はというと、大会前「FW」登録として選出されていました。しかし、大会中に指導者から「MF」をいきなり命じられ、慣れないポジションでサッカーをすることになりました。怖いもの知らずと言うのか運が良かったと言うのか、MFの方がかえってFWよりも大会ではアピールすることができていました。


なぜなら、その大会のテーマの一つでもあった(当時のどの指導者も口をそろえて言っていた)「体の向き」を常に意識してプレーできていたからです。おそらくFWでは後ろからボールを受けるのに背後のディフェンスのプレスもあり体の向きが悪くなることが多いですが、MFであれば前を向いてプレーすることや、後ろからのボールを「いい体の向き」で受けることができていたのではないでしょうか。


勢いにも乗ったところで、大会直後に行われた大会優秀選手が集まる(後のU-15日本代表候補を選抜する)試合にも招集されました。そこでもMFとして「体の向き」を意識したプレーが功を奏したのか、後のU-15日本代表候補に選出されました。


しかし、今大人になって振り返ってみると、当時ガンバ大阪ユースの監督に就任が決まっていた西村昭宏氏(現アイゴッソ高知監督)の強い推薦があったからこそ代表候補にもなれたのかなと感じています。
※本人未確認

西村昭宏氏(私の知る育成指導では過去最高の指導者)


その大会をキッカケに、大阪府外の選手たちと一緒にサッカーをプレーする経験や、自身のプレーにも幅や大きな自信が芽生え、中学3年生の春にはU-15日本代表候補合宿で10番を背負うことになりました。


完全にうぬぼれてしまいました。


その後、数回代表候補合宿に参加したものの、私はいつしか呼ばれることはなくなりました。
※その後、代表候補で背番号10を背負うと「外れる」選手が相次いだらしい


当時まだ誕生日を迎えていなかった14歳の私には、その「外れた」という事実を受け入れるのに少し時間が必要でした。


そして、長い間ショックを引きずったまま、自分の15歳の誕生日の翌日に母親をくも膜下出血で亡くし、さらに怪我にも悩まされ、中学3年生最後の大会である「高円宮杯U-15第9回全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会」では、準決勝の横浜マリノスジュニアユースとの対戦で、ようやく怪我からの復帰を果たしましたが、後半残り15分だけの出場で力を発揮できませんでした。私の中学サッカーは、こうしてピークを過ぎたのでした。


ただ、一つだけいいニュースとして、ガンバ大阪ジュニアユースからガンバ大阪ユースへ昇格することが決まっていました。冬の大会を終えると、高校受験も関係なく(テストの場にいれば受かるような高校を選択したため)、早々に張り切って自分をアピールするために、ガンバ大阪ユースの練習に参加していました。


カテゴリの違いで感じるスピードや体の強さについていくのが必至でしたが、当時高校3年生に上がる年であった二川孝広や大黒将志のプレーに惚れ惚れしている自分がいました。この二人だけは次元が違いすぎたのです。


そして、高校生のスピードにも慣れたころ、またしても不運が自分を襲い、練習中に競り合いでバランスを崩し、右足の複雑骨折をしてしまったのです。いい思い出としては、骨折した私を大黒将志がドクタールームへ負んぶして運んでくれたことぐらいです。


やってしまったと思いながらも、自分を責めるしかありませんでした。「無理なボールを張り切って競り合いに行ってしまった」そう後悔せずにはいられませんでした。


その怪我はこれまでになく長期間のリハビリを有することとなり、おかげ様で筋トレ、リハビリ、筋トレの毎日を過ごすことができました。ガンバ大阪ユースでは、プロ選手と一緒の筋トレルームを使用していたことで、当時在籍していたプロ選手とよく交流させてもらっていました。特に印象に残っているのは、都築龍太の雄たけびをあげながらのエアロバイクです。

なぜ、そこまでして自分を追い込めるのか。


その時はまだ理解に苦しみました。


怪我から復帰したのは高校1年生の夏。日本クラブユースサッカー選手権 U-18の本大会が始まるころです。同期のメンバーは既にガンバ大阪ユースのレギュラーとして活躍している選手もいました。私は怪我からの復帰まもなく、試合勘は全く戻っておらず、少しずつ練習に参加し始めたころでした。


そして大会参加メンバーを18名+2名(予備)発表するミーティングの中で、なぜかそんな私がメンバーインしたのです。当時の監督であった西村昭宏氏からは、

リハビリを頑張っていたから


という理由でメンバーインしたということを告げられました。最高に嬉しくて涙したことを覚えています。(当時は非常に涙もろく、いつも福山雅治の「桜坂」を聴いて同期の前で泣いていた)


しかし、それは束の間の喜び。その時のガンバ大阪ユースは二川孝広をキャプテン(基本しゃべらないから監督から任命された)とし、大黒将志の得点力(多分大会得点王)をもって、順調に決勝まで駒を進めました。決勝では阿部勇樹や佐藤寿人らを率いるジェフユナイテッド市原ユース(当時名)を2-0で破り優勝しました。


本来であればここで喜ぶはずですが、私はそこでもまた涙したのです。そしてそれは嬉し涙ではなく、悔し涙です。


優勝したガンバ大阪ユースのメンバーで、大会を通じて1分も1秒も試合に出ていなかったのは私だけだったのです。まさにドイツワールドカップの遠藤保仁状態です。


いつしかその矛先は西村監督に向けるようになり、私も大阪人として言いたいことを監督に向かって言っていました。ですが、いつしかの練習で「お前とは馬が合わん」と言われたことを未だに覚えています。


ですが、そんな西村監督から来た年賀はがきに書かれていた言葉を、大人になった今でも大切な言葉として自分の教訓としています。

自分の武器をみつけろ!

どんな時でも、どんな場所でも、どんな相手でも、全力で戦え!


張り切りすぎた結果、怪我にも悩まされ、自分をアピールすればするほど監督との衝突が生じ、挙句の果てにサッカーだけしかない自分からサッカーを奪われたような気持ちにもなったことはありましたが、こんな他愛ないサッカー人生を振り返ってみると、あの時15歳でガンバ大阪ユースへ行くと言う決断が、西村監督との出会いを与えてくれ、人生の糧となる言葉をもらい、そして多くのサッカー経験を積ませてくれたという感謝の気持ちを感じさせてくれているのかなと思います。


ということで、紆余曲折を経て「NEWJI」をサッカー仲間と創っています。皆さん、応援よろしくお願いいたします。

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