「無名の静学10番」からJ1を動かす頭脳へ 名古新太郎が選び続けた“厳しい道”

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名古新太郎というサッカー人生──「薄い人間」だった少年が、日本のJ1を牽引するまで

名古 新太郎。

静岡学園、順天堂大学、鹿島アントラーズ、湘南ベルマーレ、そしてアビスパ福岡。

彼が歩いてきた道は、いわゆる“エリート街道”に見えるかもしれません。

しかし、その内側には、「無名」「苦しい一年」「薄い人間だった」というキーワードが、静かに、しかし確かに流れ続けています。

Jリーグで月間1位の結果を残し(2024年5月:4得点3アシスト/J1月間1位)、2025年にはアビスパ福岡の中盤を牽引する存在へと変貌した名古新太郎。

そのサッカー人生をたどると、育成年代の選手たち、指導者、そして親御さんにとって、いくつもの「問い」と「学び」が浮かび上がってきます。

幼少期から静岡学園へ──「薄い人間」だった自分を変えるために

熊本県天草市に生まれ、大阪市で育った名古は、幼稚園の年中で豊里SCに入りサッカーを始めました。

小学校4年から中学校までは大阪東淀川FCでプレー。

「地元の強豪高校に進む」という、自然な流れの未来もあったなかで、彼の人生の大きな転機となったのが、静岡学園高校からの声掛けでした。

「静学に入るまで、僕は何と言うか薄い人間だったので、厳しい環境に身を置いたほうがいいと思って県外に行くことを決めました。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY STORY」)

名古を静岡へと導いたのは、静岡学園の大先輩である坂本紘司氏の同級生で、恩師となる齊藤興龍コーチの存在でした。

大阪から離れ、サッカーの名門・静岡学園の寮へ。

待っていたのは、「上手くなれる環境」という綺麗な言葉だけではありません。

「静学での3年間は、練習はもちろん寮生活や上下関係、勉強も含め、厳しくしんどい毎日でした。」

「もう一度戻りたいかと聞かれると戻りたくないと思うくらいでしたけど、この道を通ってきてよかったと心から思います。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY STORY」)

名門校の厳しい競争。

サッカー以外の部分でも、自分で生活を組み立てなければならない寮生活。

それらを「しんどい」と正直に語りながらも、「それでも通ってよかった」と振り返る背景には、そこで培われた「人としての強さ」があります。

親にやってもらっていたことの有難み。

自分で生活を整えることの意味。

それは、たとえプロになれなくても、人として必ず残る財産です。

静岡学園の10番として、無名からの全国8強

静岡学園3年時、名古は背番号10を背負い、全国高校サッカー選手権に出場します。

主将・石渡旭、そして後輩には旗手怜央、薩川淳貴、鹿沼直生、GK山ノ井拓己といった、のちにプロに進む選手たちが名を連ねました。

2回戦で佐賀東高校に6-0、3回戦では夏のインターハイ王者・東福岡高校を3-0で破り、ベスト8入り。

大会を通じて名古は優秀選手に選出されます。(引用元:全国高校サッカー選手権大会公式記録)

それでも、彼自身はこう振り返ります。

「高校の時、僕は無名だったのでプロからの誘いはなく、先輩が多く行っていた順天堂大学にスポーツ推薦で進みました。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY STORY」)

「静学の10番で優秀選手」という肩書きを持っていても、「プロのスカウトの目に留まらない」という現実。

ここに、日本の育成年代の“当たり前”が表れています。

  • 名門校にいるからといって、プロから声がかかるとは限らない。
  • 全国で結果を残しても、競争はなお厳しい。

それでも名古は、そこで立ち止まらず「大学で4年間、自分を伸ばす」という選択をします。

順天堂大学での「人としての成長」と、スピード契約への道

順天堂大学への進学を決めた理由について、名古はこう話しています。

「ここを選んだのは、当時順大にいた静学の先輩の長谷川竜也さん(現・川崎フロンターレ)の存在が大きかったです。でも、一番の理由はプロになるため。サッカーに集中できる環境だと思ったからです。」(引用元:順天堂大学公式サイト「サッカー日本代表という夢へ。」)

順天堂大学スポーツ健康科学部で、サッカーと同時に「身体」「栄養」「コンディショニング」について学べる環境。

そして、OBで元日本代表DFの堀池巧監督のもとでの指導。

そこは、単に“サッカーが上手くなる場所”ではなく、「人としてどうあるべきか」を問われる場でもありました。

「サッカー選手である前に順天堂大学の1人の学生として、勉強はきっちりやる。順天堂大学蹴球部はその意識を高く持っています。」(引用元:順天堂大学公式サイト)

授業で学んだことを、トレーニングや体のメンテナンスに生かす。

サッカー以外の時間も、自ら律する。

「サッカー選手である前に一人の人間として」という姿勢は、のちにプロの世界で「ゲームを読む」「役割を理解し、仲間を動かす」力にもつながっていきます。

FWからボランチへ。「考えてプレーする」選手への転換

順大に入学した当初、名古はFWでした。

しかし、大学2年からボランチにコンバートされます。

堀池監督からは、状況判断を一つ一つ厳しく求められたといいます。

「僕は体格的に大きいわけではありませんし、どちらかというと頭を使ってサッカーをやるタイプです。試合中に考えること、頭で勝負することは大学に入ってから伸びました。」(引用元:順天堂大学公式サイト)

「一瞬のスピード」とテクニックに加え、「頭を使うボランチ」としての成長。

その成果は、2017年と2018年の関東大学サッカーリーグ戦・ベストイレブン選出という形で示されます。(引用元:関東大学サッカー連盟公式記録)

そして2017年、もう一つの大きなターニングポイントが訪れます。

ユニバーシアード金メダル、そして鹿島アントラーズとの“史上最速”仮契約

2017年、名古はユニバーシアード日本代表に選出され、台北で行われた夏季ユニバーシアードで金メダルを獲得します。(引用元:日本サッカー協会 JFA公式記録)

「大学3年の時にユニバーシアード日本代表に選ばれて、大会で世界1位になった時はめちゃくちゃ嬉しかったです。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY STORY」)

この大会を終えた頃、鹿島アントラーズからのオファーが届きます。

2017年11月、当時3年生でありながら、2019年からの鹿島加入が内定。

「Jリーグ史上最速の仮契約」とも報じられました。(引用元:鹿島アントラーズ公式リリース)

2018年には特別指定選手として鹿島に登録され、ACLを戦う日本有数のクラブに、大学と並行して飛び込んでいきます。

2018年8月11日、J1第21節・名古屋グランパス戦でデビュー。(引用元:Jリーグ公式記録)

2019年、正式に加入したプロ1年目には、ルヴァンカップ準々決勝・浦和レッズ戦でプロ初ゴールを記録します。(2019年9月4日/埼玉スタジアム2002)

しかし、彼の中にあった感情は、「夢が叶った」という達成感だけではありませんでした。

「プロになってからはプロになれたという喜びよりも、ここからだなという気持ちが強くありました。鹿島だったから余計にそうだったのかもしれませんが、結果が求められる世界なんだということをプロに入って強く感じました。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY STORY」)

鹿島で味わった現実と、湘南ベルマーレへの決断

2019年〜2020年、鹿島アントラーズでの名古は、リーグ戦出場機会こそ得ながらも、常にポジション争いと向き合う日々でした。

2020年シーズン終了後、彼は大きな決断をします。

2020年12月23日、湘南ベルマーレへの期限付き移籍が発表。(引用元:鹿島アントラーズ/湘南ベルマーレ公式リリース)

その移籍に込められていたのは、「出場機会」と「結果」への強い渇望でした。

「去年は自分の中ではとても苦しい一年でした。試合に出てこそ評価される世界なので、試合に出続けて活躍し続けて結果を出さなければ、生き残っていくことはできないと感じています。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY ASPIRATION 2021」)

「プロになれたこと」がゴールではなく、「プロで生き残り続けること」が課題になる。

これは、Jリーグを目指すすべての若い選手にとって、決して他人事ではない現実です。

「惜しい」ではなく「数字」を──湘南での覚悟

湘南での自分の役割について、名古は明確に言葉にしています。

「自分の特徴はドリブルやゴール前でアイデアを持ってプレーし、バリエーションを生み出すこと。数字も含めて目に見える数字を出したい。“惜しい”とか“いいところまでいけた”ではなく、結果のところをもっともっと意識して、最後の精度を上げていって結果に結び付けたいと思っています。」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト「MY ASPIRATION 2021」)

2021年、湘南ベルマーレでリーグ戦19試合3得点という結果を残し、J1初ゴールも記録。(2021年3月13日 J1第4節 vsベガルタ仙台/引用元:Jリーグ公式記録)

「出場したい」「通用したい」という段階から、「数字で示す」「チームを勝たせる」という段階へのシフト。

そのマインドチェンジが、のちの福岡での姿につながっていきます。

鹿島への復帰、そしてブレイク前夜

2021年シーズン終了後、名古は鹿島アントラーズ復帰が発表されます。(2021年12月28日/引用元:鹿島アントラーズ公式リリース)

しかし復帰後も、出場機会は決して安泰ではありませんでした。

  • 2022年:リーグ戦5試合出場0得点
  • 2023年:リーグ戦14試合1得点

一方で、着実に試合出場を重ね、2024年にはリーグ戦36試合出場・5得点、カップ戦を含めシーズン41試合に出場。(引用元:Jリーグ公式成績)

そして2024年5月には、J1全選手中で月間最多となる4得点3アシストを記録し、「結果を出す選手」としての評価を確固たるものにしていきます。(引用元:Jリーグ公式 月間表彰関連情報)

「無名だった」高校時代。

「苦しい一年」だった鹿島での序盤。

それらを経て、「数字」を伴った存在感を放つようになった名古は、2024年12月18日、新たな挑戦の場を選びます。

アビスパ福岡への完全移籍──「ゲームを読む10番」としての進化

2024年12月18日、名古新太郎のアビスパ福岡への完全移籍が発表されます。(引用元:アビスパ福岡公式リリース)

2025年、背番号14をつける彼は、福岡の攻撃と守備の「起点」としてプレーし始めました。

その象徴となる一戦が、2024年8月31日のJ1第28節・柏レイソル戦です。(引用元:SOCCER DIGEST Web「柏のビルドアップを苦しめた変幻自在のプレス。名古新太郎が牽引する福岡の進化」)

変幻自在のプレス、そして“落ちるFK”でのアシスト

この試合で福岡は1-2で敗れますが、内容面では大きな進化を見せました。

得意のハイプレスを少し抑え、ミドルプレス気味にラインをコントロールしながら、柏のワイドに開いたビルドアップの“出口”を狙い撃つ。

前線からのプレスをコントロールしていたのが、名古でした。

「特に颯之介には指示を出していました。今まで自分たちが積み上げてきたものと、(柏対策として)準備してきたもの、両方が上手く出せた。あとは試合中に微調整だったり、相手に合わせたプレーもしないといけない。そこの役割は僕がやらないといけないと思っています。」(引用元:SOCCER DIGEST Web)

岩崎悠人の負傷交代で投入された特別指定FW・佐藤颯之介に指示を出しながら、自らもボール奪取とゲームメイクを担う。

さらに、得意とする“落ちるボール”のフリーキックから上島拓巳の先制点をアシスト。

かつて「一瞬のスピード」と「仕掛け」を武器にしていたアタッカーは、今や「戦術を理解し、味方を導き、試合中に微調整を行うゲームリーダー」へと進化しています。

試合後、名古はそこに満足することなく、こう口にしました。

「(良いシーンも多かっただけに)そこでしっかり奪って仕留め切りたかったですね」

「自分自身、もっと力つけないとダメだなと思います。」(引用元:SOCCER DIGEST Web)

数字にこだわり、内容にもこだわる。

「チームの戦術を体現しながら、勝敗を決める局面で仕事をすること」。

それは、育成年代から常に教えられるテーマでありながら、プロの世界で本当にできる選手は多くありません。

名古新太郎の言葉から、育成年代が学べるもの

名古のサッカー人生を振り返ると、いくつもの「教訓」が浮かび上がります。

1. 「無名」や「声がかからない」は終わりではない

静岡学園で10番と優秀選手という看板を背負いながら、プロからのオファーはゼロ。

それでも彼は、

  • 大学というルートを選び
  • 順大で4年間、自分を磨き
  • ユニバーシアード代表として世界一になり
  • 鹿島アントラーズとの“史上最速”契約を勝ち取りました。

「高校卒業時点でプロに行けなかったら終わり」ではなく、「そこからの4年間でどれだけ成長できるか」という別の勝負がある。

この事実を、今、進路に悩む高校3年生やその親御さんは、どう受け止めるでしょうか。

2. 厳しい環境は「思い出したくない」と思うほどでいいのかもしれない

名古は静学の3年間を振り返って、

「もう一度戻りたいかと聞かれると戻りたくない」(引用元:湘南ベルマーレ公式サイト)

と話します。

それでも、

「この道を通ってきてよかったと心から思います。」

とも語っています。

「厳しい環境」とは、楽しい思い出だけが積み重なる場所ではないのかもしれません。

時には逃げ出したくなるような毎日であっても、そこで踏みとどまった経験が、その後の土台になる。

指導者は、ただ厳しくすることが目的ではなく、「その厳しさの先に何を残すのか」を、選手と共有できているでしょうか。

3. 「感情」と「人間性」が、プレーを決める

順天堂大学でのエピソードとして紹介される、名古と旗手怜央とのやり取り。

試合中にイライラが顔に出ていた旗手に、名古はこう言い放ちます。

「お前、そんなやったら試合から出ていけ!」(引用元:順天堂大学公式サイト)

その一言が、旗手に「自分の態度がチームにどう影響するか」を考えさせ、彼をひとつ上のレベルへと押し上げました。

一方で、名古はこうも語ります。

「僕自身は感情が表に出ることが悪いとは思っていない。」

「感情を表に出しても自分のプレーがしっかりできればそれでいい。」(引用元:順天堂大学公式サイト)

感情を抑え込むのではなく、「それをどうプレーに昇華するのか」。

この視点は、メンタルコントロールに悩む多くの選手にとって、ひとつのヒントになるかもしれません。

4. 「頭を使う選手」であることの価値

名古は、自らを

「どちらかというと頭を使ってサッカーをやるタイプ」(引用元:順天堂大学公式サイト)

と表現します。

静学で鍛えた技術。

順大で鍛えた判断と戦術理解。

鹿島で求められた「結果」。

湘南・福岡で積み上げた「数字」と「ゲームコントロール」。

柏戦で見せたように、相手のビルドアップに対して
「どこで、誰が、どうプレスに行くか」を試合中に微調整し、特別指定の若いFWに指示を送りながら、自らも起点になる。

その姿には、「頭の良さ」がはっきりと表れています。

ジュニアやユース年代の指導現場では、「走れる選手」「技術がある選手」に目が行きがちです。

しかし本当にプロで長く生き残るのは、

  • 状況を読むことができる選手
  • 監督の要求と相手の変化を同時に理解できる選手
  • そして仲間を動かせる選手

なのではないでしょうか。

「ここからだな」と言い続けるキャリアの先に

高校では無名と言われ。

大学ではユニバーシアード金メダルとベストイレブンを勝ち取り。

鹿島では「結果が求められる世界」を痛感し。

湘南では「数字」にこだわることを自らに課し。

鹿島復帰後も苦しみながら、2024年にはJ1月間1位の結果を残し。

そして今、アビスパ福岡で、戦術と技術、数字と責任のすべてを背負いながらピッチに立つ。

その一連の流れのなかで、名古新太郎は、何度も何度も同じ言葉を自分に投げかけてきたのかもしれません。

「ここからだな」と。

プロになったときも。

鹿島でベンチが続いたときも。

湘南へのレンタルを決めたときも。

福岡でプレスのスイッチを入れ、セットプレーでゴールを演出してもなお、「もっと力をつけないとダメだ」と言葉にする彼の背中を、育成年代の選手たちはどう見るでしょうか。

「高校でプロに届かなかった」「大学からでも間に合うのか」「今の環境は厳しすぎるのか、それとも甘すぎるのか」。

名古新太郎のサッカー人生は、そのすべてに対して、直接的な答えをくれるわけではありません。

ただひとつ確かなのは、「無名」からでも、「苦しい一年」からでも、「薄い人間だった」自分からでも、人は変わり続けられるということです。

そして、その変化は常に、自分で選んだ「厳しい道」の先にあった、ということなのかもしれません。

引用元:
・湘南ベルマーレ公式サイト「MY STORY」「MY ASPIRATION 2021」
・順天堂大学公式サイト「サッカー日本代表という夢へ。武器は順天堂大学での『人としての成長』」
・鹿島アントラーズ公式リリース 各種加入・復帰発表
・アビスパ福岡公式リリース 名古新太郎選手 完全移籍加入のお知らせ
・全国高等学校サッカー選手権大会 公式記録
・関東大学サッカー連盟 公式記録
・Jリーグ公式サイト 選手成績・試合記録
・日本サッカー協会(JFA) ユニバーシアード日本代表関連記録
・SOCCER DIGEST Web「柏のビルドアップを苦しめた変幻自在のプレス。名古新太郎が牽引する福岡の進化」

※本コラムはAIが情報収集・一次原稿を作成し、Soccer Discussion編集部が内容確認および引用元確認を行った上で公開しています。

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