高崎天史郎という19歳の物語──「出場0」の先に見えるサッカー人生
「J1でまだリーグ戦出場0、関東2部で2試合のみ」。
数字だけを並べると、派手さのかけらもない経歴に見えるかもしれません。
しかし、その裏側には、19歳の一人のサッカー選手が、もがき、選び、決断してきた時間があります。
FC町田ゼルビアに所属する高崎天史郎。
そして2025年10月、「海外移籍を前提としたトレーニング参加のため、チームを離脱」というニュース。
J1でほとんど出場のない10代の選手が、それでも海外へ挑戦しようとしているという事実は、育成年代の選手や指導者、親御さんにとって、多くの問いを投げかけてきます。
大阪から始まった“渡り歩き”の下部組織キャリア
高崎天史郎は2006年2月13日、大阪府生まれ。
その育成年代の歩みは、一つのクラブにどっしり腰を据えるタイプではありません。
所属歴を追うと、その特徴がよく見えてきます。
- F・C・ルイ・ラモス・ヴェジット
- DREAM FC
- セレッソ大阪U-12
- ガンバ大阪ジュニア
- センアーノ神戸 ジュニア
- 千里丘FC
- QUON FD
セレッソ大阪U-12、ガンバ大阪ジュニアという、関西を代表するJクラブのジュニアに名を連ねつつも、センアーノ神戸や千里丘FC、QUON FDといった強豪街クラブも渡り歩いてきた経歴。
多くの選手が「一つのビッグクラブアカデミー」を目指す中で、彼は複数の環境に身を置き、その都度「適応」と「再スタート」を繰り返してきました。
クラブを変えるたびに、監督も、求められる役割も、ライバルも、すべてが変わります。
子どもの頃から、常に競争の中に身を置き、居場所をつくり、認めさせてきた選手でなければ、こうした経歴にはなりません。
それは同時に、「ここで終わりたくない」「もっと上へ」という、本人の強い欲求の表れでもあります。
育成年代の選手たちにとって、この「移り変わるクラブ歴」をどう見るでしょうか。
「落ち着きがない」と見るのか、「チャンスを求めて挑戦し続けた」と見るのか。
同じ事実でも、そこから受け取るメッセージは、私たちの価値観次第で変わっていきます。
特別指定選手としての期待と、実戦ゼロという現実
2023年、高崎天史郎はFC町田ゼルビアへの2024年からの加入が内定。
同時に、Jリーグの「特別指定選手」として承認されました。
つまり、まだ正式加入前から、プロのトレーニング環境に入ることを認められた存在だったということです。
特別指定選手になれるのは一握り。
クラブから見て「将来トップで戦えるポテンシャルがある」と判断されなければ、この枠を与えられることはありません。
その時点で、クラブも周囲も「高崎天史郎」という名前に期待を寄せていました。
ところが、2023シーズンの出場は「0」。
登録はされながらも、実際に公式戦のピッチに立つことはありませんでした。
「プロの一歩手前」まで行きながら、スタジアムの芝に足を踏み入れることができない時間。
ベンチ入りのメンバー表に自分の名前がなく、そのたびに胸の奥がざわつく感覚。
同世代の選手がデビューを飾り、SNSやニュースで取り上げられていく中、自分は練習と控室を往復するだけの日々。
その葛藤は、数字には残りません。
ただ、「特別指定」という肩書がついた選手だからこそ、期待と現実のギャップは、通常の選手以上に重かったはずです。
プロ1年目、ルヴァン杯デビューと「0分」のリーグ戦
2024年、いよいよ正式にFC町田ゼルビアの一員となった高崎天史郎。
背番号は38。
トップチームの中でプロ1年目をスタートさせました。
彼が初めて公式戦のピッチに立ったのは、2024年9月4日。
Jリーグカップ(ルヴァン杯)のアルビレックス新潟戦でした。
途中出場でのデビュー。
ほんのわずかな時間だったとしても、「Jの公式戦に出た」という事実は、少年時代から積み重ねてきた何千時間という努力の、一つの到達点です。
「やっとプロの試合に立てた」
「でもここがスタートラインでしかない」
彼が実際にそう口にしたかどうかはわかりません。
しかし、長く出場機会を待たされてきた若手選手であれば、多くが似た想いを抱く瞬間です。
ただ、このシーズンを通しての公式記録は、リーグ戦0試合・0得点、リーグ杯1試合・0得点、天皇杯出場なし。
数字の上で、2024年の高崎の名前を見つけようとしても、「ルヴァン杯に1度出た選手」という一行で済んでしまいます。
しかし、トップチームのレベルで日々トレーニングを積み、ポジション争いを続ける。
試合に出られないシーズンは、メンタルを含めて「プロの難しさ」を一気に突きつけてきます。
育成年代では上手くいってきた選手ほど、プロでベンチにも入れない現実に直面したとき、自分の価値を見失いかけることが少なくありません。
「自分はこのレベルにいられる選手なのか」。
「このまま時間だけが過ぎていくんじゃないか」。
そうした問いとの向き合い方が、プロ1年目の大きなテーマになります。
SHIBUYA CITY FCへの育成型期限付き移籍という選択
2025年4月。
高崎天史郎は、関東サッカーリーグ2部に所属するSHIBUYA CITY FCへ、育成型期限付き移籍という形でクラブを離れます。
J1のクラブから、地域リーグへの移籍。
肩書だけを見れば、ステップダウンと映るかもしれません。
しかし育成年代や若手選手にとって、「試合に出る」という経験の価値は、リーグのカテゴリーをまたいで比較できるものではありません。
J1のトレーニングだけを重ねて、1年間ほぼ出場なしで過ごすのか。
あるいは、カテゴリーを下げても実戦の中で自分のプレーと向き合うのか。
どちらを良しとするかは、選手としてどんな未来を描くかによっても変わってきます。
SHIBUYA CITY FCでの公式戦出場は、関東2部で2試合・0得点。
数字だけを見ればインパクトはそこまでありません。
しかし、J1のベンチ外から、試合のある週末を過ごす環境へ移るというのは、サッカー選手としての感覚を取り戻す意味で、大きな一歩です。
そして、この移籍形態が「育成型期限付き」という点にも、意味があります。
完全移籍ではなく、あくまで成長のための一時的な武者修行。
クラブ側も、「経験を積ませてからまた戻したい」という意図を持って送り出しているということになります。
わずか2か月での町田復帰に見え隠れする評価
SHIBUYA CITY FCへの移籍期間は、2025年4月から6月まで。
6月26日には、FC町田ゼルビアへの復帰が発表されました。
通常、シーズンを通してのレンタル移籍が多い中で、わずか約2か月で呼び戻されるというのは、少し異例にも見えます。
ケガ人状況や戦術的な理由など、クラブ内部の事情は外からはわかりません。
ただ、「戻す価値がある」と判断されたからこそ、短期間での復帰が決まったとも捉えられます。
一度クラブを離れ、別の環境で公式戦を経験してきた選手が、また元のクラブに戻る。
そこには、選手自身の内面にも変化が生まれます。
「自分の立ち位置を、もう一度ゼロから作り直さなければいけない」
「このチャンスを逃したら、もう次はないかもしれない」
ピッチに立つ機会を求めて移籍し、そして短期間で戻ってきた先で待っているのは、またしても熾烈なポジション争い。
若手の選手が自分の存在価値を示すには、限られたチャンスで爪痕を残すしかありません。
そして突然の「海外移籍前提のチーム離脱」
その後はFC町田ゼルビアでの出場機会がないまま、2025年10月14日。
クラブの公式発表は、多くのサポーターを驚かせました。
「このたび、高崎天史郎選手が海外移籍を前提としたトレーニング参加のため、チームを離脱することとなりました。」
J1リーグ戦出場0。
関東2部で公式戦2試合のみ。
そんな19歳のMFが、海外クラブのトレーニング参加に向かう。
SNS上には、さまざまな反応が並びました。
「なんですと!」
「どこへ行っても成功を願ってます」
「いつか町田に帰ってきてね」
「こういう展開になったか」
「は!?海外!?」
「すごいけど複雑だ」
まだ移籍先も正式には決まっていない段階での「トレーニング参加」。
海外クラブにとっては、試す期間。
高崎にとっては、自分の将来と正面から向き合うオーディションです。
ここで一つ、考えてみたい問いがあります。
J1での出場実績がほとんどない10代の選手が、それでも海外に挑戦することについて、私たちはどう受け止めるべきでしょうか。
- 「日本で結果を出してから海外へ行くべきだ」
- 「出場機会の少ない今だからこそ、環境を一気に変えるべきだ」
どちらの考え方もあります。
しかし、少なくとも一つ言えるのは、「どちらが正解かは、今の時点では誰にもわからない」ということです。
日本の育成環境、Jリーグの競争、海外クラブのスカウティング。
そのすべてが変化し続ける中で、選手一人ひとりが選ぶ道も、多様になっていくのは自然なことです。
「数字では測れない19歳」の姿から、私たちは何を学べるか
通算成績は、J1リーグ0試合、Jリーグ杯1試合、関東2部2試合。
この数字だけを見て、「成功」と「失敗」を語ることは、あまりにも乱暴です。
育成年代から複数のクラブを経験し、特別指定選手としてプロの扉をノックし、出場機会を求めてSHIBUYA CITY FCへ移籍し、そして今、海外という新たな扉を叩こうとしている。
その一つひとつの選択は、「もっと成長したい」「もっとプレーしたい」という、サッカー選手としての純粋な欲求から生まれています。
指導者や親御さんの立場から見ると、選手の移籍や決断は、ときに不安にも映るかもしれません。
「もう少しここで我慢した方がいいのではないか」。
「海外なんて、まだ早いんじゃないか」。
しかし、プロのキャリアは、本人が「これだ」と信じたタイミングを逃すと、二度と同じ条件で訪れないこともあります。
19歳で海外のトレーニングに参加できる機会がある。
それ自体が、これまでの努力と、どこかで誰かが彼を評価してきた結果でもあります。
育成年代の選手たちに伝えたいのは、「数字や肩書きだけがすべてではない」ということです。
- 特別指定選手になったこと
- J1のトップチームで練習を続けた日々
- 関東2部でプレーする決断をしたこと
- 海外のトレーニングに参加する覚悟を持ったこと
これらはすべて、一人のサッカー選手の「サッカー人生」を形づくる要素です。
もちろん、どの選択にもリスクがあります。
海外挑戦がうまくいかない可能性もあります。
国内に残っていれば掴めたかもしれないチャンスを、逃すことになるかもしれません。
それでも、どの道を選ぶにしても、選手自身が自分の人生として受け止め、前に進むしかありません。
「居場所」と「出場機会」をどう考えるか
高崎天史郎のこれまでの歩みから、育成年代の選手たちに問いかけたいテーマがあります。
それは、「自分の居場所」と「出場機会」をどう考えるか、ということです。
Jクラブのアカデミーに入ったからといって、そこで終わりではありません。
プロ契約を取ったからといって、そこで安泰になるわけでもありません。
むしろ、契約や肩書きは、「スタートラインが変わっただけ」です。
高崎は、少年時代から何度もクラブを変え、自分の居場所を探し、日本トップレベルのクラブにたどり着きました。
そこからさらに、出場機会を求めて、関東2部という違う世界へ飛び込み、いま海外への扉を叩こうとしています。
あなたがもし、いま所属チームで試合に出られていなかったとしても。
あるいは、思うような評価を得られていなかったとしても。
それは「自分のサッカー人生が止まっている」ことを意味しません。
むしろ、「次の一歩をどう踏み出すか」を考える時間かもしれません。
指導者や親御さんにとっても、選手の移籍や挑戦をどう支えるかは、難しいテーマです。
安定した環境を望む気持ちと、チャレンジさせたい気持ち。
その両方の間で揺れ動くのは、ごく自然なことです。
高崎天史郎の選択をどう受け止めるか。
その答えは一つではありません。
ただ、一つ確かなのは、彼がここまでのキャリアの中で、何度も「安定」より「挑戦」を選んできたという事実です。
まだ終わらない19歳のストーリーの“いま”を見つめる
このコラムを書いている時点で、高崎天史郎の海外移籍先は、まだ正式に発表されていません。
トレーニング参加がどのような結果につながるのか、誰にもわからない段階です。
しかし、「海外移籍を前提としたトレーニング参加のため、チームを離脱」という一文の背景には、これまで積み重ねてきた日々と、これから向き合う新しい現実が詰まっています。
J1リーグ戦出場0、関東2部出場2試合。
数字に残るものは今はまだ少ないかもしれません。
それでも、その裏で19歳の一人の選手が積み重ねてきた決断や葛藤は、決して「0」ではありません。
育成年代の選手たちにとって、自分と同じように10代で悩み、選び、挑戦している選手の姿は、何よりのリアルな教材になります。
指導者にとっても、選手のキャリアの多様な形を理解し、支えていくヒントになるはずです。
親御さんにとっても、「安定だけが正解ではない」ことを考えるきっかけになるかもしれません。
高崎天史郎のサッカー人生は、まだ始まったばかりです。
この先、どんなクラブで、どんなポジションで、どんな役割を担っていくのか。
それを見届けていくことは、日本サッカーの未来を、別の角度から見つめることにもつながっていきます。





