川﨑修平という物語──ガンバ大阪からポルトガル、ラトビア、そして東京ヴェルディへ
「諦めずにやっていれば何かがあるなと思っていた」。
23歳のフォワード、川﨑修平。
大阪府岸和田市で生まれた小さなストライカーは、ガンバ大阪からポルトガル、ラトビア、そして2025年春、東京ヴェルディへとたどり着きました。
J1優勝クラブ・ヴィッセル神戸での歓喜もあれば、海外で1年近く試合に出られないどん底もありました。
その紆余曲折は、プロサッカー選手の華やかな一面だけでなく、「それでもボールを追いかけたい」という、静かだけれど強い覚悟を映し出しています。
岸和田の少年から、ガンバ大阪ユースのエースへ
大阪府岸和田市。だんじり祭りで知られるこの町で、サッカー小僧として育ったのが川﨑修平です。
イーデス岸和田SC、NSC北斗、SSクリエイトと、地元のクラブを渡り歩きながら、彼は着実に頭角を現していきました。小さな体ながら、低い重心と鋭いドリブル、ゴール前での落ち着き。
やがて彼は、関西の名門・ガンバ大阪ジュニアユース、そしてガンバ大阪ユースへと進んでいきます。
168cm、66kgという体格は、現代サッカーのフォワードとしては決して大きくありません。
それでも、彼には武器がありました。細かいタッチでボールを失わないドリブル、シュートまで持ち込む決定力。
ガンバ大阪U-23では、J3という大人の戦いの中に混ざりながら、2019年に25試合2得点、続く2020年には18試合8得点と、着実に結果を積み上げていきます。
Jリーグデビューと、初ゴールの歓び
2019年5月18日、J3第9節・カターレ富山戦。
この試合が、川﨑修平のJリーグ初出場でした。
そして同じ年の11月4日、SC相模原戦でJリーグ初得点。
10代の若者が、プロの舞台でネットを揺らすその瞬間。スタンドで見ていた人は、彼の名前をメモしたかもしれません。
ガンバ大阪は、2019年に彼をトップチームの2種登録選手とし、2020年からの昇格を発表します。
期待の若手フォワードとして、プロへの扉をくぐったその歩みは、順調に見えました。
「アグエロを彷彿とさせる」J3月間MVPと、ACLでのハットトリック
2020年、ガンバ大阪トップチームに正式に昇格した川﨑修平は、まずJ3のガンバ大阪U-23で爆発します。
とくに2020年8月、J3で5得点3アシストという圧巻のパフォーマンスを見せ、「2020明治安田生命 KONAMI 月間MVP(J3部門)」を受賞しました。
アグエロを思わせるような、低く速いドリブルと、ゴール前での決定力。
小柄でありながら、相手にとって怖い存在であることを、数字で証明してみせたのです。
同じ年のJ1第14節ベガルタ仙台戦でJ1デビュー、続くシーズンでのサガン鳥栖戦ではJ1初先発も経験。
そして2021年7月7日。
ACL・タンピネス・ローバースFC戦で、プロ入り初のハットトリックを記録します。
「トップチーム初得点を含むプロ初ハットトリック」
アジアの舞台で3ゴール。
多くの選手が一生に一度できるかどうかの偉業を、彼は21歳前にやってのけました。
この頃、多くの人が思ったはずです。「川﨑修平は、一気にガンバのエースになっていくのではないか」と。
ポルトガル・ポルティモネンセへ──初めての海外挑戦
2021年8月。
川﨑修平は、ポルトガルのポルティモネンセSCに完全移籍します。
Jリーグの有望株がヨーロッパへ。
夢を追う若者の挑戦として、多くのサッカーファンが彼の名をチェックした瞬間でした。
しかし、ここから彼のサッカー人生は、一気に難しい局面へと入っていきます。
「1年近くプレーできなかった」ケガと苦悩の日々
ポルトガルでの生活。
新しい言葉、新しい文化、新しいスタイルのサッカー。
その中で川﨑は、ある大きな壁にぶつかりました。
「海外に行って1年2カ月ぐらいで鎖骨を骨折してヒザもやってしまい、ポルトガルでは1年ぐらいプレーできなかったです」
鎖骨骨折、そしてヒザの負傷。
「走ること」「ボールを蹴ること」が仕事であるプロサッカー選手にとって、長期離脱は、自分の存在価値そのものを問い直されるような時間です。
スタジアムの歓声から遠ざかり、試合にも出られない。
ただ黙々とリハビリを続けるしかない日々。
「それでも、やるべきことをずっと折れずにやってきました」
ボールを蹴ることが許されない時間の中で、彼は自分に問い続けていたのかもしれません。
「自分は本当に、サッカーが好きなのか」と。
ヴィッセル神戸で味わったJ1初ゴールと優勝
ポルティモネンセで出場機会をつかめないまま、2023年、彼はJ1のヴィッセル神戸へ期限付き移籍します。
海外での挫折から、日本での再挑戦へ。
2023年9月3日、J1第26節・京都サンガF.C.戦。
この試合でリーグ戦今季初スタメンに抜擢されると、川﨑は待望のJ1初ゴールを記録します。
ガンバ時代はJ1でノーゴール。
ポルトガルではほとんど出番なし。
そんな彼が、強豪ヴィッセル神戸のユニフォームを着て、ついにJ1のネットを揺らしたのです。
シーズン終盤には、クラブは悲願のJ1初優勝を達成。
リーグ戦の出場試合数こそ多くはなかったものの、川﨑修平は「J1優勝経験者」として大きなタイトルを手にしました。
それはきっと、ポルトガルで試合に出られなかった時間も、決して無駄ではなかったと教えてくれる証のひとつだったのかもしれません。
ラトビア・ヴァルミエラFCへ──ヨーロッパの片隅で
ヴィッセル神戸でのシーズンを終えたあと、彼は再びポルティモネンセへ戻ります。
しかし、そこで待っていたのは「居場所のなさ」でした。
2024年、彼はラトビア1部・ヴァルミエラFCへ期限付き移籍します。
ラトビアという国のリーグを、詳しく知っている日本のサッカーファンは多くないかもしれません。
それでも川﨑は、その地で公式戦12試合に出場し、1アシストを記録しました。
華やかな舞台から遠く離れた北欧の小さなリーグ。
気候も文化も違う地で、彼はどんな思いでピッチに立っていたのでしょうか。
「すべて自分自身の問題。ただ、それを無駄にはしたくない」
ラトビアでの半年、そしてまたポルトガルへローンバック。
しかし、保有元クラブであるポルティモネンセに、自分の居場所はありませんでした。
立場は不透明、将来も見えない。
「すべて自分自身の問題。ただ、それを無駄にはしたくないですし、そういうのも経験なので、これからですね」
ここで「日本に戻ってこなければよかった」とか、「海外なんて行くべきじゃなかった」と嘆くこともできたかもしれません。
けれど彼は、そうは言いませんでした。
起きてしまったことを誰かのせいにするのではなく、「すべて自分自身の問題」と受け止めたうえで、そこから何かを学ぼうとしている。
この言葉には、23歳とは思えないほどの重みがあります。
東京ヴェルディとの出会い──「もう一回はい上がる」場所
そんなとき、彼に手を差し伸べたクラブがありました。
J1へ復帰し、新たなスタイルで勝負に挑む「東京ヴェルディ」です。
2025年3月、“第1登録期間”の締切を超えてからの加入発表となりましたが、実際にはクラブ間・個人間の合意や申請手続きはすべて期限内に済んでいました。
国際移籍証明書(ITC)の関係で、正式発表だけが遅れていたのです。
その裏側には、東京ヴェルディの強化部が海外クラブとの難しい交渉を重ね、彼を必要なピースと判断して動き続けたという背景がありました。
森下仁志コーチとの再会──「一番の出発地点」に戻る
ガンバ大阪U-23で指導を受けた森下仁志コーチ。
現在、その森下氏は東京ヴェルディのコーチを務めています。
この存在が、今回の移籍を大きく後押ししました。
「そこ(ガンバ時代)が僕の一番の出発地点というか、一番そこでやっていたものが、今の自分を作り上げてきたので、また初心に戻って、森下さんのもとでやれるということで、すごくワクワクしています」
ガンバ大阪U-23時代は、とにかく練習量が多かったと振り返ります。
「あのときはすごく練習量が多かったですし、あのときをもう一回ここで思い出すというか、ここでやれれば、僕自身また成長につながると思います」
苦しかった海外での時間を経て、彼はもう一度「原点」に戻ろうとしています。
それは、過去に戻るという意味ではなく、「あの頃の自分のがむしゃらさを取り戻す」という覚悟にも聞こえます。
東京ヴェルディが見た「技術」と「メンタリティ」
東京ヴェルディの城福浩監督は、川﨑修平の加入について、こう語っています。
「技術。特にゴール前のアタッキングサードの技術は形を持っていますし、簡単にはボールを失わない。フィニッシュも枠を捉えられる力を持っている。アタッキングサードで冷静な判断ができる。そのためのジャストなコントロールができる。そういう技術を持ち合わせている」
そしてもうひとつ、城福監督が強調したのは、その「生き様」でした。
「おそらくは去年の松橋優安よりもはるかに難しい立場で、サッカーをやって生活をするということが、どれだけありがたいかを思い知るという言い方がいいか。それを痛感しながらピッチに立つような状況になっている選手の1人」
サッカーでご飯を食べることが、どれだけ尊いことか。
日常的に試合に出ていると、つい忘れてしまいそうになる「原点」を、彼は身をもって思い出させてくれる存在だと指揮官は語ります。
「まさにはい上がっていこうというメンタリティを持っている」
華々しい実績だけではなく、「どん底からもう一度はい上がろうとする心」。
東京ヴェルディは、その姿勢ごとチームに迎え入れました。
「どん底に一回落ちたので、ここからもう一回はい上がる」
囲み取材で、川﨑修平は今の心境を、はっきりと言葉にしています。
「僕自身なかなか去年はあまりいいとは言えない環境というか立場でした。ヴェルディでチャンスをもらえるということで、今はすごく向上心というか、野心を持ってやっていきたいなという気持ちでいっぱいです」
ラトビアでの出場機会、しかしポルトガルでの不透明な立場。
鎖骨、ヒザのケガ。
試合に出られない時間が長く続いても、彼はボールをあきらめませんでした。
「去年もなかなかいい立場ではなくても諦めずにやっていたというのは、諦めずにやっていれば何かがあるなと思っていたからです。ヴェルディでやらせてもらうチャンスもいただけましたし、そういうどん底に一回落ちたので、ここからもう一回はい上がるという気持ちはずっと持っています」
「どん底に一回落ちた」。
そこから這い上がろうとする23歳の言葉は、サッカー選手としてだけでなく、ひとりの人間としての決意そのものです。
東京ヴェルディで目指すもの──走力、守備、そしてゴール
東京ヴェルディは、「戦う」という基準がとても高いクラブだといわれます。
前線からの守備、走り続けること、球際での強さ。
ただテクニックがあるだけでは、ピッチには立てません。
川﨑自身も、それをよく理解しています。
「成長できる部分では走るところでも僕自身はまだまだ足りないと思いますし、そこを伸ばしていきたい。守備の強度であったり、球際でガツンと行くところは自分のものにできる。それも技術だと思うので、巧さや戦う部分は全然足りないなと思うので、伸ばしていけるなと思います」
テクニックに加えて、「戦う技術」を身につけること。
走る、守る、ぶつかることもまた、現代サッカーにおいては一つのスキルなのだと、彼は認識しています。
一方で、攻撃面での目標もはっきりしています。
「ヴェルディは戦うという基準がすごく高くあるので、そこにプラスして僕が攻撃の良さをチームに加えられたらなと思っています」
「やっぱりゴールやアシスト。結果にこだわってやりたいなと思います」
現在はシャドーのポジションを主戦場とし、ビハインドや同点の状況で途中出場する形が想定されています。
追いつきたい、勝ち越したい、そんな試合終盤に送り出されるアタッカーとして、彼のひとつひとつのプレーが勝敗を左右する場面も増えていくでしょう。
仲間とともに、新しい物語へ
東京ヴェルディのロッカールームには、彼にとって心強い顔ぶれがいます。
ガンバ大阪下部組織出身の同期・食野壮磨。
ガンバ大阪時代の先輩・福田湧矢。
中学生の頃から知っている木村勇大。
「僕は全然自分からいかないですね」と語る少し人見知りな性格も、コミュニケーション能力の高い若手たちに支えられ、チームにはスムーズに溶け込めているといいます。
最後の公式戦は、2024年11月のヴァルミエラでの試合でした。
そこから約4カ月ぶりの実戦となった清水エスパルスとのトレーニングマッチでは1アシスト。
本人は「全く満足していなかった」と振り返りますが、東京ヴェルディでの練習を重ねる中で、コンディションは確実に上がってきています。
J1の舞台に戻ってきた東京ヴェルディ。
その中で、23歳のフォワードは、「もう一度ここからはい上がる」と心の中で誓いながら、静かに、しかし確かに走り出しています。
岸和田からガンバ大阪へ。
ACLでハットトリックを決め、ポルトガルでケガに苦しみ、ラトビアで戦い、日本へ戻ってきた川﨑修平。
そのサッカー人生は、華やかなスター街道とは少し違うかもしれません。
けれど、苦しみや迷いの中で、それでもボールを追い続けてきた23歳の物語を知るとき、私たちはきっと、自分自身の「諦めたくない何か」を思い出すのではないでしょうか。
歴史あるクラブ・東京ヴェルディの緑のユニフォームに袖を通し、「勝利のために全力で戦います!」と語った川﨑修平。
彼の次の一歩を、あなたはどんな思いで見つめるでしょうか。





