奥田勇斗というサイドバックの物語──「昇格できなかったユース出身者」が、セレッソ大阪の両サイドを駆けるまで
J1・セレッソ大阪の背番号16、奥田勇斗。
2024シーズンにプロデビューしたばかりの24歳は、今や右サイドバックだけでなく、左サイドバックとしてもピッチを駆け回っている。
だが、その道のりは順風満帆とは言い難い。
ガンバ大阪のアカデミーで育ちながらトップ昇格をつかめず、大学進学を経て、宿敵ともいえるセレッソ大阪のレギュラーにたどり着いた一人のサイドバックのサッカー人生には、育成年代の選手や指導者、そして親御さんにとって、多くの示唆が詰まっている。
ガンバ大阪ユースからの「昇格見送り」──スタート地点は挫折だった
大阪府河内長野市出身。
少年時代は地元クラブの長野FCでボールを追いかけ、小学生の頃には関西トレセンにも選ばれた。
中学進学時には、実はセレッソ大阪のアカデミーセレクションも受験し、一次選考を通過している。
だが、最終的に彼が選んだのはガンバ大阪ジュニアユースだった。
ガンバ大阪ジュニアユース、そしてユースへ。
いわゆる「エリートコース」を進んだ奥田は、2019年には2種登録選手としてトップチームおよびU-23チームに登録され、J3リーグ8試合に出場し1ゴールという結果を残した。
トップデビューへの階段を、着実に上がっているように見えた。
だが、現実は厳しかった。
高校卒業時、ガンバ大阪のトップチーム昇格は見送られる。
ユースの仲間がプロ契約を勝ち取っていくなかで、自分には声がかからない。
この瞬間を、彼はどう受け止めたのか。
ニュースや会見では多くを語ってはいないが、「ガンバの2種登録からトップに上がれなかった」という事実は、育成年代の選手にとって、決して他人事ではない出来事だろう。
Jクラブのアカデミーにいたからといって、トップ昇格が約束されているわけではない。
むしろ、最後の入口でふるい落とされる選手の方が圧倒的に多い。
奥田も、その一人だった。
「大学進学」という選択──桃山学院大学で見つけた新たな自分
トップ昇格を逃した奥田が選んだのは、桃山学院大学への進学だった。
ここで彼のサッカー人生は、静かだが大きな転機を迎える。
桃山学院大学で彼を指導した松本直也監督は、こう評価している。
「中盤に入って行ったりするので、これまでの日本代表にいたSBの概念とは違う。
ゲームメイクに長けた元ドイツ代表のフィリップ・ラーム選手のような選手」
「日本のサイドバック像」といえば、運動量、上下動、クロスといったキーワードが並びやすい。
だが、松本監督は奥田を「ゲームメイクができるサイドバック」として評価し、ラームの名前まで持ち出した。
これは単なるリップサービスではない。
中盤に顔を出し、味方と連係しながらビルドアップに関わるプレースタイルは、現代サッカーにおいて非常に価値が高い。
また、監督はプレー以外の部分にも注目していた。
「上級生に意見することも出来るし、我々ともしっかり話をして、常にチームがよくなるためにはどうするべきかということを考えている選手」
ガンバでトップ昇格を逃したことで、奥田は「プロから遠ざかった」と感じたかもしれない。
だが、桃山学院大学での4年間は、サイドバックとしてのスタイルを磨き、コミュニケーション能力やリーダーシップを育む時間になっていった。
育成年代の選手にとって、「大学へ行くか、行かないか」は大きな岐路になる。
そのとき、「大学=妥協」だと考えてしまう指導現場も、まだ残っていないだろうか。
オファーが届いたのは、ガンバではなくセレッソだった
大学で頭角を現し、練習参加の機会を得たのはセレッソ大阪とヴィッセル神戸。
さらに古巣・ガンバ大阪への練習参加の話もあったという。
奥田は、プロ入りについてこうした状況の中で返事を保留していた。
ガンバに戻る可能性も、現実的に意識していたに違いない。
だが、最終的にガンバからは補強ポイントの違いなどを理由にオファーは届かなかった。
一方で、セレッソ大阪のスカウト担当・野口裕司は、こう話している。
「補強ポイントがサイドバックで、プレースタイルが合致した。
練習参加してもらった時の選手や現場の評価が非常に高かった。
小菊昭雄監督からすぐにオファーを出しましょうという意見をもらった」
補強ポイントとプレースタイルの合致。
ここには「巡り合わせ」の要素が、明らかに存在している。
同じ選手でも、クラブによって必要とされるタイミングはまったく違う。
ガンバでは補強ポイントではなかったサイドバックが、セレッソではまさに「欲しかったピース」だった。
選手の価値は、選手自身だけでなく、クラブの状況や戦術、タイミングに大きく左右される。
だからこそ、「あのクラブに上がれなかった」ことを、自分の全否定にまで広げる必要はないはずだ。
奥田自身も、セレッソ加入の理由をこう語っている。
「練習に参加したときのチームの雰囲気がいい印象が持てた。
自分がやりたいことができた」
ガンバのユース出身者が、プロとして選んだのは宿敵・セレッソ大阪。
だが、その選択は単なる「ライバルに拾われた」という物語ではない。
自分のスタイルが最も活きるクラブを、自らの感覚で選び取った、一つの意思決定でもあった。
「ラームのようなSB」がプロの扉を開く──特別指定からJ1デビューへ
2023年4月27日、2024シーズンからのセレッソ大阪加入内定と、特別指定選手承認が発表される。
それからわずか1か月後、5月24日のルヴァンカップ予選リーグ・FC東京戦で後半開始から途中出場し、C大阪での公式戦デビューを飾った。
その少し前、5月8日のヴィッセル神戸との練習試合では、7-0の大勝にアシストで貢献。
このときのプレーぶりが、小菊昭雄監督の心を大きく動かしている。
「ハーフタイムに通訳にお願いして自分の気持ちを(右サイドで連係を取るジョルディ・クルークスに)要求していた。
こういうことができる選手は間違いなく良くなるし、まだまだ伸びる。
コミュニケーション能力も含め、すごい選手が入ってくれるとうれしくなった」
さらに、小菊監督はこう続けた。
「戦術理解度が高いのも感じた。
クラブが責任を持ってすばらしい選手、日本代表にしていかないといけないという使命感もわいた。
早いタイミングで公式戦出場を考えていきたい」
ここに見えるのは、「能力の高さ」だけではない。
外国籍選手との意思疎通を自ら取りにいく姿勢、戦術を理解し、ピッチ内で体現しようとする意識。
大学で磨かれたコミュニケーション能力や俯瞰的な視点が、プロの現場で評価されていることがよくわかる。
育成年代の現場では、とかく「技術」「フィジカル」「スピード」が評価の中心になりがちだ。
だが、プロの監督がそこに加えて見ているのは、「自分の考えを伝える力」や「戦術を理解し、仲間を動かせるか」という部分だろう。
奥田の飛躍は、そのことを改めて示している。
U-22日本代表、アジア大会準優勝──「挫折組」が日の丸を背負う意味
2023年6月、奥田は欧州遠征を行うU-22日本代表に選出される。
イングランドとの試合では先発出場し、2-0の勝利に貢献した。
さらに9月、アジア競技大会に臨むU-22代表メンバーにも選ばれ、大会を通して主力としてプレーし、準優勝という結果を残す。
ガンバ大阪ユース時代、トップ昇格を逃した選手が、数年後にはU-22日本代表のユニフォームを着ている。
この事実をどう受け止めるか。
「ユースで上がれなかった=終わり」ではないことを、これほど説得力を持って語るストーリーはそう多くない。
育成年代の選手にとって、18歳前後での評価はときに「人生の通信簿」のように感じられる。
だが、本来サッカー人生は、そこから先の方がはるかに長い。
大学、JFL、J3、社会人リーグ、それぞれのステージで力をつけ、再びJリーグの扉を叩く選手たちも少なくない。
奥田のU-22代表入りは、「遅れてきた選手」の可能性を可視化する出来事だった。
セレッソ大阪でのプロ1年目──右サイドからの台頭
2024年、奥田勇斗は正式にセレッソ大阪へ加入。
3月2日、第2節の鹿島アントラーズ戦で後半途中出場し、J1デビューを飾る。
その後、右サイドバックの主力である毎熊晟矢が欧州移籍を果たすと、その穴を埋めるようにしてレギュラー争いに名乗りを上げた。
プロ1年目のJ1リーグ戦で21試合出場1ゴール。
ルヴァンカップや天皇杯を含めると、公式戦27試合に出場し2ゴール。
数値だけを見ても十分なインパクトだが、それ以上に印象的なのは、落ち着いたビルドアップと、局面での賢さだろう。
「プロ1年目からスタメンで試合に出る」と入団会見で公言していた目標は、決して口先だけのものではなかった。
ガンバで掴めなかった居場所を、セレッソで、自分の足で取りにいっている。
左サイドバックという新たな挑戦──「利き足じゃない側」で戦う意味
2025年夏、セレッソ大阪は守備陣に故障者が相次ぐ。
特に左サイドバックでは、高橋、登里らが離脱し、チームは対応を迫られた。
そこで新たな役割を与えられたのが、右利きのサイドバック・奥田勇斗だった。
湘南戦に続き、天皇杯FC東京戦に向けたトレーニングでも、奥田は終始左サイドバックとしてプレーする。
本人はこの挑戦を、こう語っている。
「限られたメンバーで、自分が与えられたポジションでしっかり結果を出せるように。
どれだけやれるかっていうのにフォーカスしている」
左右が変わっても、「求められることは一緒」だとしつつ、同時に難しさも口にしている。
「左足を使うことはやっぱり右サイドより多くなる。
後は本当に細かい体の向きとか、そういうところが非常に難しい。
そこをちょっと慣れていく必要がある」
練習でも、彼は意識的に左足を使う場面を増やしているという。
「パスコントロールでは左足を意識して多く使ったりしている。
相手から見ても(左足で)オープンで止めると、選択肢が増える中で難しい状況を与えられる。
そこで(右足で)内側に止めちゃうと選択肢を絞らせてしまう。
左足を使うことが有効だと判断してるので、今はそこを練習している」
苦手な足に向き合い、ポジションの難しさを言語化し、それをトレーニングに落とし込む。
このプロセス自体が、非常に「プロフェッショナル」だと感じられる。
育成年代では、利き足側、得意なポジションでプレーしたい、という思いが強くなる。
しかし、プロの現場では、「チームのために、どこまで自分のコンフォートゾーンを広げられるか」が問われる。
右から左へとポジションを広げていく奥田の姿は、その一つの答えかもしれない。
ピッチ外の“逆風”と向き合う──結婚、SNS、そして選手の尊厳
2025年5月4日、セレッソ大阪はDF奥田勇斗の入籍を公式発表した。
本人はクラブ公式サイトや自身のインスタグラムで、こう綴っている。
「どんな時もいつもそばで支え続けてくれる」
「いつも笑顔で一緒にいるととても楽しく、毎日がとても幸せ」
サポーターから祝福の声が多く寄せられる一方で、ネット上では新妻と見られる人物のSNSアカウントが特定され、投稿内容が切り取られ、ネガティブな噂や攻撃的なメッセージも散見された。
これに対し、セレッソ大阪は4月にSNSでの誹謗中傷に対する声明を発表しており、必要に応じて警察への通報や法的措置も辞さない姿勢を明確にしている。
プロサッカー選手は、ピッチの上で評価される存在だ。
しかし、現代はSNSを通じて、彼らのプライベートにまで過剰な視線が向けられる時代でもある。
選手個人だけでなく、その家族、パートナーまでが不特定多数の対象になってしまう現状に、私たちはどこまで自覚的だろうか。
ファンやサポーターの情熱は、クラブを支える大きな力になる。
だが、その情熱が一線を越え、選手やその家族の生活や尊厳を脅かしてしまうなら、それはもう「応援」とは呼べない。
奥田の結婚をめぐる一連の騒動は、日本サッカーに関わるすべての人に、「選手も一人の人間である」という当たり前の事実を、改めて問いかけているように思える。
「心はもうセレッソ」──ガンバ出身者が紡ぐ新しい大阪の物語
桃山学院大学での加入内定会見で、奥田はこんな言葉を残している。
「実際ピッチに立ってみないと感情は沸いてこないけど、心はもうセレッソ」
中学時代にセレッソのセレクションを受けていたこと。
柿谷曜一朗や香川真司のプレーに憧れ、「ファンに魅せるサッカー」のイメージを抱いていたこと。
地元・河内長野市から見たとき、セレッソの方がスタジアムが近かったこと。
すべての点が線でつながるように、ガンバユース出身者がセレッソでプロのキャリアを歩み始めた。
2024シーズンにJ1で21試合に出場し、2025シーズンもすでにリーグ戦12試合に出場している右サイドバック。
そして、左サイドバックとしても存在感を示そうとしている新たな挑戦者。
「ラームのようなSB」と評された男は、今この瞬間も、セレッソ大阪というクラブのなかで、自身の立ち位置を少しずつ広げ続けている。
ガンバから昇格できなかったユース出身者が、アジア大会準優勝のU-22代表になり、セレッソのレギュラーサイドバックとして大阪ダービーに立つ。
この物語を、偶然の積み重ねだけで片づけてしまうには、もったいない。
育成年代の選手たちへ──「今の評価」がすべてではない
いま、アカデミーの序列や選抜チームの選考結果に、一喜一憂している選手は多いはずだ。
「ユースに上がれなかった」「トップに昇格できなかった」という現実を前に、サッカーを続ける意味を見失いそうになっている選手もいるかもしれない。
だが、奥田勇斗のサッカー人生は、こう問いかけてくる。
- 18歳や高校卒業時の評価は、あなたのサッカー人生の「最終判定」なのか。
- 大学や他カテゴリーで成長し、別のクラブで必要とされる未来を、どこまで想像できているか。
- 「自分のスタイルが活きる場所」を、時間をかけて探す覚悟を持てるか。
これは選手だけでなく、指導者や親御さんにも突きつけられる問いだろう。
「今いるクラブで上に上がれなかった=失敗」ではない。
むしろ、その後の4年、5年、10年をどう過ごすかで、サッカー人生の輪郭は大きく変わっていく。
指導者・親御さんへ──「評価する側」の目線を問い直す
奥田の例から見えてくるのは、「遅咲き」の可能性を信じ切れる環境の重要性だ。
桃山学院大学での4年間がなければ、「ラームのようなSB」と呼ばれるほどのプレースタイルは形にならなかったかもしれない。
コミュニケーション能力を武器にする今の姿も、大学という環境があったからこそ育まれた部分が大きい。
選手を評価する立場にいる指導者や、子どもの進路を一緒に考える親御さんは、つい「今いる場所の中での序列」に目を奪われてしまう。
だが、本当に見るべきなのは、「この子が4年後、5年後にどんな選手になっているか」ではないだろうか。
サイドバックというポジションも、この数年で大きく価値観が変わっている。
ビルドアップに関わり、ゲームメイクを担い、ときには中盤に入って数的優位を作る。
奥田勇斗は、その「新しいSB像」を体現しながら、自らのキャリアを切り拓いてきた。
「今のポジションでの評価」だけに縛られず、「将来どんな役割を担えるか」を一緒に想像しながら、選手の選択肢を狭めないこと。
その積み重ねが、第二、第三の奥田勇斗を生み出していくのかもしれない。
まだ24歳、物語は続いていく
両サイドバックをこなし、U-22日本代表としてアジア大会準優勝を経験し、プロ2年目の2025シーズンもコンスタントにJ1のピッチに立つ24歳。
ガンバのユースから昇格できなかった一人の選手は、いまやセレッソ大阪で「欠かせない存在」になりつつある。
もちろん、彼のサッカー人生はまだ途上だ。
日本代表、海外移籍、さらなるポジションの進化。
クラブのスカウトも、「日本代表や海外移籍といった高いところを目指してやってほしい」と期待を寄せる。
その道のりの先に何が待っているのかは、誰にもわからない。
だが一つだけ確かなのは、奥田勇斗というサイドバックの物語が、育成年代の選手たちに、「今の評価がすべてではない」と静かに語りかけ続けているということだ。
ユースでの昇格を逃しても。
利き足とは逆のサイドを任されても。
ネットの片隅で心ない言葉が飛び交っても。
自分のプレーと、自分の選択に責任を持ち、前に進む。
その背中を、Jリーグを夢見る多くの選手たちが、スタンドから、画面越しから見つめている。






