木村勇大、マイペースな“万能ストライカー”が歩んできた、日本サッカーのリアルな階段
名古屋グランパスの背番号22、フォワード木村勇大。
2025年8月に東京ヴェルディから完全移籍で加入した24歳のストライカーは、わずか「2~3カ月」で名古屋サポーターの心をつかみ、イベント会場には自身のユニフォームを手にしたファンが列をなす存在になっている。
だが、その現在の輝きは、決して一直線のサクセスストーリーではない。
大阪桐蔭高校、関西学院大学、京都サンガF.C.、ツエーゲン金沢、東京ヴェルディ、そして名古屋グランパス。
木村勇大のキャリアは、育成年代の選手や指導者、親御さんにとって、「Jリーグにたどり着くまでのリアル」と「プロになってからも続く試練」を考えるきっかけを与えてくれる。
東京・神戸・大阪をまたいだ原点 “おとなしい”少年が選んだ道
木村勇大のサッカー人生は、決して華美なエピソードから始まったわけではない。
幼少期を過ごした東京では、よみうりランドが思い出の場所だという。
「幼稚園の頃から、小学3年生までいた東京では、よみうりランドが印象的です。練習のたびに電車で行っていたので、ある意味思い出の場所です」
YNキッカーズ、東京ヴェルディジュニア。
そこから神戸に移り、ヴィッセル神戸U-12、U-15へ。
神戸での生活では、摩耶山・掬星台の夜景を「おすすめの場所」と語るあたりにも、彼の感性の端正さがにじむ。
「静かで、あまり争いごとが好きではないタイプでしたね。人の後ろについていくような子供時代を過ごしていました(笑)」
「ガツガツ前へ出ていくキャラクター」ではなく、「人の後ろについていくおとなしい少年」。
それでも、なりたい職業は最初から決まっていた。
「サッカーを始めた時から自然にサッカー選手になりたいと思っていました」
この「静かさ」と「夢への揺るがない芯」の共存が、のちの木村勇大というストライカー像を形づくっていく。
大阪桐蔭、関西学院大学という選択 「感謝を忘れない」土台が作られた場所
中学年代をヴィッセル神戸U-15で過ごしたあと、彼が進んだのは名門・大阪桐蔭高校。
高校サッカーの強豪での日々は、技術やフィジカルだけでなく、人としての在り方を問い続けられる時間だった。
「『感謝を忘れない』ですね。高校生の頃に厳しく言われた言葉で、色々な人に支えられてここまで来ることができているので、そういう意味でも周りの人を大切にしたり、感謝することは大切にしなければいけないなと思います」
勝ち負けに一喜一憂するだけではなく、「感謝を忘れない」というフレーズを土台に刻み込んだ高校時代。
その後、選んだ進路が関西学院大学サッカー部だったことは象徴的だ。
大学では、関西選抜、デンソー関西大学選抜、全日本大学選抜候補と、大学サッカーの中で着実に評価を高めていく。
いま、日本の育成年代にとって「高校からすぐプロ」だけが正解ではないことは、少しずつ共有され始めている。
だが、進路に悩み、「大学に行く=出遅れではないか」と不安に感じる高校生は今も多い。
関学からJリーグへと進み、U-22日本代表にも選出された木村勇大の歩みは、「大学サッカー経由」という道の価値を静かに証明しているように見える。
京都サンガF.C.との出会い “特別指定”から始まったJの扉
2021年10月。
関西学院大学在学中の木村は、京都サンガF.C.への2023年度加入内定と、「JFA・Jリーグ特別指定選手」としての承認が発表される。
2022年シーズンも京都の特別指定選手としてJ1の舞台に立つことになった。
J1リーグ開幕節、2022年2月19日の浦和レッズ戦。
サンガスタジアム by KYOCERAで、彼はJリーグデビューを飾る。
そして4日後。
ルヴァンカップ・グループステージ第1節、柏レイソル戦で公式戦初ゴール。
「やはりゴールを決めた時が最高の瞬間です。特別指定選手として初めて出場したルヴァンカップで得点をした瞬間は本当に最高でした」
「大学生」でありながら、「J1のゴールを決めたストライカー」でもある。
肩書きの狭間にある時間は、華やかさ以上に、プレッシャーと期待が入り混じる。
それでも、大学とJ1を行き来しながら、彼は少しずつ自分の立ち位置を確かめていった。
プロ1年目の現実 出場、無得点、そして育成型期限付き移籍
2023年、正式に京都サンガF.C.所属のプロ選手となった木村は、J1リーグ7試合、ルヴァンカップ5試合、天皇杯1試合に出場しながら、公式戦でゴールを奪えない時間を過ごす。
「J1の壁」という言葉は簡単だが、その裏には、自分との静かな対話がある。
そんな中、2023年8月。
彼はJ2・ツエーゲン金沢へ、育成型期限付き移籍を選ぶ。
移籍先のJ2で10試合に出場し、1得点。
数字だけを切り取れば、大きく目を引くものではないかもしれない。
ただ、ここで問いたくなる。
- 「J1で出番が減ったとき、カテゴリーを下げてでも出場機会を求めるのか」
- 「苦しいときに環境を変える決断をする勇気を持てるのか」
木村勇大は、その問いに「プレーする場所を選ぶ」という形で答えた。
おとなしい性格だと言うが、キャリアの分岐点では必ず、自分の意志で一歩を踏み出している。
東京ヴェルディでの飛躍 “10番”を背負ったシーズン2桁得点
2024年、彼はJ1に復帰する。
東京ヴェルディへの期限付き移籍。
YNキッカーズ、東京ヴェルディジュニアと、幼い頃にボールを追いかけた東京の地に、今度はJ1のストライカーとして戻ってきた形だ。
このシーズン、彼は大きく殻を破る。
J1リーグ36試合出場10得点、天皇杯でも1ゴール。
自身初のシーズン2桁得点を達成し、東京ヴェルディのJ1残留に大きく貢献する。
2025年シーズンには、背番号「10」を託される存在へとステップアップした。
185cmの体格を活かしたキープ力と、推進力あるドリブル。
「万能ストライカー」と形容されるプレースタイルは、ここで一気にJ1レベルの完成度に近づいていく。
「長身ながら、繊細なボールタッチでボールを収めることができ、チームの攻撃の起点となる。本人も低い位置からボールを運ぶ推進力と、ゴール前での一人でシュートへもっていく力を強みと語る」
一人で完結できる力を持ちながら、ボールを預ければ前線で起点になれる。
ストライカーであり、ターゲットであり、時間を作れる存在でもある。
日本の育成年代が求めてきた「万能型9番」の一つの答えを、彼はプレーで示し始めていた。
U-22日本代表と怪我の現実 「選ばれて終わりではない」時間
2023年にはU-22日本代表にも選出された。
アジア競技大会サッカー競技への選出が決まりながら、怪我により無念の辞退。
代表に呼ばれることは、もちろん大きな誇りだ。
しかし、「選ばれてからピッチに立つまで」の道のりには、常にリスクと不確定要素が隣り合わせにある。
怪我で味わう悔しさ。
それでも、彼はそこで立ち止まらないための術を、自分の中に持っている。
「逆境に対して、深く考えてもよかったという思い出がないため、おいしいご飯を食べて、しっかり寝るということですね。そうすることで、次の日に気持ちを切り替えることができ、調子を取り戻すことができます。また、悩み事があった時は一人で温泉に行き、リフレッシュしたりもします」
「深く考えすぎない」「おいしいご飯と睡眠」「一人で温泉に行く」。
一見、のんびりした対応策に感じるかもしれない。
だが、怪我や出場機会の減少といった逆境の中で、「自分を追い詰めすぎない」ことは、長くキャリアを続けるうえで極めて重要なスキルだ。
名古屋グランパス移籍と“生涯現役宣言” ファンとの距離感が教えてくれるもの
2025年8月、東京ヴェルディで10番を背負いながら、彼は新たなチャレンジを選ぶ。
名古屋グランパスへの完全移籍。
加入直後からJ1リーグ11試合連続出場。
10月4日のセレッソ大阪戦で名古屋での初ゴールを決めると、その185cmの体躯と推進力で、すぐにグランパスサポーターの心をつかんでいく。
2025年11月1日。
名古屋市中区のグッズショップで行われたサイン・写真撮影イベントには、60組のファンが来場。
「いや、そうっすね。改めてすごく多くの人が来てくれて、しかも自分のユニフォームを持っている人がほとんどで、すごい嬉しかったです」
移籍からわずか数カ月。
背番号22のレプリカユニフォームを手にしたファンに囲まれた光景は、Jリーガーという仕事の「もう一つの顔」を物語っている。
「『頑張ってください』って言ってもらえるのは嬉しいですね。改めて頑張ろうと思えるんで、頑張ります」
ある女性ファンからは「死ぬまで応援します!」という言葉が飛び出した。
それに対して彼は笑いながら、こう返した。
「死ぬまでプレーし続けます」
軽妙なやり取りの裏に、「プロである限り、期待に応えたい」という覚悟がにじむ。
移籍してまだ「2~3カ月」だと語りながらも、そこまでの間に積み上げたプレーと姿勢が、名古屋の街に彼の名前を刻み始めている。
“マイペース”であり続ける強さ 一人の時間と地域へのまなざし
イベントでは、写真やサインに応じながらも、彼の根っこの部分は変わらない。
「客観的に見て、、、難しいですね。調子に乗っている、ではなくマイペースですね(笑)他の人からも言われることが多く、マイペースで自分の世界で生きているみたいな感じですね」
多くの視線を浴びるプロサッカー選手という仕事は、とかく「自分を大きく見せること」に誘われがちだ。
しかし木村勇大は、「一人の時間」を大事にしながら、自分のペースを守ることで、心のバランスを保っている。
「一人の時間ですね。もちろん友達と遊んだりする時間もありますが、一人でいる時間も好きなので、その時間は確保するようにしています」
そして、ピッチ外で大切にしたいこととして、「地域貢献」を挙げる。
「掃除などのボランティア活動含めた、様々な地域貢献活動をしたいです。そして、常に自分には何ができるのかを考えて、人の役に立つような活動を行っていきたいと思っています」
Jクラブに所属するということは、単に「試合に出て勝つ」だけではなく、地域の子どもたちやファン、支えてくれる人たちと関わり続けることでもある。
プロを目指す育成年代の選手たちは、どうしても「契約」や「試合出場」に意識が向かいがちだが、クラブと街に支えられ、街に還元していく姿勢を忘れない選手こそが、長く愛される。
名古屋のサポーターが、移籍わずか数カ月で彼のユニフォームを手に並ぶ理由は、ゴールやプレーだけでなく、その「在り方」にもあるのかもしれない。
育成年代へのメッセージ 「チャレンジ」と「感謝」のあいだで
木村勇大は、自分の経験を踏まえて、子どもたちに伝えたいこととして、こう語る。
「何でもよいので、まずは自分で目標を持ってチャレンジしてほしいです。そして自分の夢を見つけてその夢を叶えるために日々努力して欲しいです」
ヴィッセル神戸U-15を経て、大阪桐蔭、関西学院大学、京都サンガF.C.、ツエーゲン金沢、東京ヴェルディ、名古屋グランパス。
そのどのタイミングにも、「安全な選択」よりも「チャレンジ」があった。
- プロ入り前に特別指定選手としてJ1に飛び込んだこと。
- J1で出場機会が減った中で、J2ツエーゲン金沢への育成型期限付き移籍を受け入れたこと。
- 大学経由でありながらU-22日本代表に届く位置まで自分を引き上げたこと。
- 東京ヴェルディで10番を背負うタイミングで、名古屋グランパスという新たなクラブに踏み出したこと。
その一つひとつは、リスクも不安も伴う決断だったはずだ。
それでも、彼が根っこで大切にしているのは、「感謝」と「チャレンジ」。
静かで、おとなしく、マイペース。
そんな彼の中に確かにある「一歩を踏み出す勇気」は、派手な言葉ではなく、日々の積み重ねからにじみ出てきたものなのだろう。
「死ぬまでプレーし続けます」という言葉の重さを、どう受け止めるか
イベントでの「死ぬまでプレーし続けます」という一言は、単なるサービス精神のある返しでもあり、同時に、彼自身の覚悟の表現でもある。
日本のサッカー界では、「プロになること」が一つの大きなゴールとして語られがちだ。
だが現実には、プロになってからの競争の方が、はるかに厳しい。
出場機会、怪我、移籍、戦術との相性、監督交代、サポーターの期待。
木村勇大は、そのひとつひとつと向き合いながら、それでも「死ぬまでプレーし続けます」と笑って言えるだけの、自分なりのペースと哲学を身につけてきた。
育成年代の選手は、自分の将来を思い描くとき、「プロ契約」や「J1デビュー」の先にある時間をどれほどイメージできているだろうか。
指導者や親御さんは、子どもたちが夢に向かう過程で、「結果」と同じくらい「チャレンジの仕方」や「感謝の心」を伝えられているだろうか。
「感謝を忘れない」
「チャレンジ」
「おいしいご飯と睡眠で切り替える」
「一人の時間を大事にする」
「地域のために、自分に何ができるか考える」
そして、「死ぬまでプレーし続けます」と言えるくらい、サッカーを好きでいられるかどうか。
木村勇大のサッカー人生は、派手な見出しや劇的な逆転劇よりも、静かで、着実で、それでいて確かな成長に満ちている。
名古屋グランパスの22番がこれから積み重ねていくゴールと時間が、日本サッカーを目指す多くの若い選手たちにとって、「プロとは何か」を考える一つの物差しになっていくのかもしれない。






