「天才」と呼ばれた土居聖真の現在地──鹿島の8番から故郷・山形で示す33歳のサッカー人生

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土居聖真――「鹿島の10代」から、「山形の33歳」へ。天才と呼ばれた男のサッカー人生

1992年5月21日生まれ、山形県山形市出身。
モンテディオ山形の背番号を背負う33歳のMF、土居聖真。
その名前を聞いて、あなたはどんなプレーを思い浮かべるだろうか。
華麗なトラップ、ゴール前でのひらめき、相手DFの逆を取り続けてきたセンス。
あるいは「鹿島アントラーズの8番」としての姿を思い出す人も多いはずだ。

2024年11月。J2リーグ第37節、ジュビロ磐田戦。
9分、前線に送られたロングボールに抜け出した土居は、右足に「吸い付く」ようなトラップでボールを足元に置く。
その一瞬で、相手DFとの距離も、自分の次の選択も整理されていたのだろう。
ゴール左45度の位置から、右足をしなやかに振り抜く。
弧を描いたボールは迷いなくゴール右隅へ。
そのシーンに、DAZNの公式アカウントはこう言葉を添えた。

トラップからシュートまでが完璧なゴール!

SNSには
「うますぎる」「天才」「流石の一言」「J1でもなかなかお目にかかれない」といった声が並んだ。
33歳になっても、「天才」と呼ばれるプレーは健在だった。
だが、その“完璧”な一連の動きに至るまでの道のりは、決して一直線のものではない。

山形から鹿島へ──故郷を離れた少年の決断

山形市で生まれ育ち、OSAフォルトナ山形FCでボールを追いかけていた少年は、小学校を卒業するときに大きな決断をする。
地元を離れ、鹿島アントラーズジュニアユースへの加入を選んだのだ。

2005年から2007年、鹿嶋市立平井中学校に通いながら、鹿島の下部組織でプレー。
2008年からは鹿島アントラーズユース、鹿島学園高校での日々。
鹿島の育成組織で育った選手にしか分からない、あの独特の空気を、土居は10代のすべてで吸い込んでいる。

規律の中で自由を表現すること。
勝つことを当然とされる環境の中で、個人の色を失わないこと。
鹿島アントラーズというクラブは、土居のような“センス派”の選手にも、勝負の厳しさを徹底的に植え付けた。

2011年、鹿島アントラーズユースからついにトップチーム昇格。
同期には柴崎岳、梅鉢貴秀、昌子源。
後に日本代表の中核や海外組として名を馳せるタレントたちと共に、土居はプロの世界へ足を踏み入れる。

プロ初ゴールから「鹿島のトップ下」へ──8番を背負う重み

トップ昇格から2年後の2013年9月21日、ジュビロ磐田戦。
土居はついに、プロ初ゴールを決める。
そこから徐々に出場機会を増やし、2014年にはトップ下のポジションに完全定着。
リーグ戦8ゴールと、自身最多の数字を記録して存在感を示していく。

翌2015年。
クラブの顔とも言える「伝統の8番」を託された。
それは、小笠原満男や野沢拓也が背負ってきた番号。
ただの数字ではなく、「鹿島の中心であること」を求められる象徴だった。

8番を背負ったその年、AFCチャンピオンズリーグ2015のウェスタン・シドニー・ワンダラーズ戦でACL初ゴールをマーク。
その後、石井正忠監督の下では、4-4-2への変更に伴いFWとして起用される機会が増えていく。
トップ下、サイドハーフ、FW、セカンドトップ。
土居のキャリアは、ポジションとの「対話」の歴史でもあった。

2016年、クラブワールドカップと頂点への階段

2016年6月25日、1stステージ優勝が懸かったアビスパ福岡戦。
2トップの一角として先発し、優勝を決定づける2点目を決める。
続く天皇杯準決勝・横浜F・マリノス戦では先制ゴールで決勝進出に貢献。
そして、世界が注目する舞台、FIFAクラブワールドカップへと進んでいく。

この大会で、土居は3試合出場、1得点3アシストという結果を残す。
派手な得点数ではないかもしれない。
だが、ゴールとゴールの“間”を操るように、ゲームの流れを変えるプレーを見せ続けた。
チームを世界2位の位置まで押し上げた影の立役者と言っていい。

2017年4月1日、大宮アルディージャ戦。
決勝点を決め、チームを4連勝とし首位へ並ばせるゴールも、生粋の勝負強さを示す一撃だった。
「天才肌のテクニシャン」という一言では収まらない、「勝たせる選手」としての顔が、この時期の土居にはあった。

「天才」と呼ばれた男が見ていた景色

2020年。サッカーダイジェストのインタビューで、元日本代表の柿谷曜一朗は「天才」を挙げるなら誰かという質問に対し、(小野伸二とイニエスタは別格とした上で)土居聖真を1位に選んだ。

テクニックが素晴らしいし、特別なセンスがある。
鹿島の試合を観ていて、ボールが渡ると思わず『おっ』って前のめりになる。
ところどころで唸るようなプレーを見せてくれるのがたまらない。

同業者であり、同じく“天才”と評されてきた柿谷がそう評するほどのセンス。
2019年のベストプレーヤーアンケートでも名前が挙がるなど、プロの中でも「分かる人には分かる」選手だった。

一方で、土居自身はきっと、その言葉を特別な飾りとして受け取ってはいないだろう。
なぜならサッカーは、「天才だから」続けられる競技ではないからだ。

2017年にはリクルートライフスタイルとJリーグ主催の「イケメンJリーガー選手権」で優勝。
前々回、前回は同じ鹿島の柴崎岳が受賞しており、クラブとしては3連覇となった。
見た目や雰囲気がクローズアップされることもあったが、本質はやはり「プレー」で評価され続けた選手である。

日本代表への道──結婚式の準備中にかかってきた電話

2017年12月。
EAFF E-1フットボールチャンピオンシップ2017に向けた日本代表に、土居は追加招集される。
きっかけは清武弘嗣の脳震盪による離脱。
代わりに選ばれたのが、当時鹿島でプレーしていた土居だった。

このとき、彼は自らの結婚式の準備中だったという。
ヴァイッド・ハリルホジッチ監督は、メディアの前でこう打ち明けている。

彼には本当に申し訳ないんですけど、結婚式を準備していたようで。
結婚式は取りやめなくていいので、何日か来てくれと言わなければいけない。

人生の節目と、サッカー人生の節目が重なった瞬間。
2017年12月12日、中国戦でA代表デビュー。
日の丸を胸にピッチに立った時間は決して長くはない。
それでも、「日本代表」という階段を一段上がった事実は、彼のキャリアに確かな輝きを加えている。

出場機会の減少──20年目に決断したクラブとの別れ

鹿島のジュニアユースに入団してから約20年。
「鹿島一筋」と言っていい時間を過ごしてきた土居にも、変化の波は訪れる。

2022年以降、出場機会は徐々に減少。
2024年も夏までの先発はわずか3試合。
クラブは世代交代を進め、競争はさらに激しくなっていった。

若手が台頭し、戦術も変化する中で、ベテランの居場所は自然と狭くなる。
それはプロの世界では当然のサイクルであり、誰も避けることができない現実でもある。

育成年代の選手や、その親御さん、指導者にとって、この局面はどう映るだろうか。
「天才」と呼ばれ、日本代表にも選ばれた選手でさえ、出場機会を失う。
では、そのときに何を選び、どう生きるのか。
土居は2024年夏、その問いに一つの答えを出すことになる。

モンテディオ山形へ──「帰郷」と「再出発」が重なった夏

2024年7月25日。
土居聖真は鹿島アントラーズを離れ、モンテディオ山形への完全移籍を決断した。
ジュニアユースから含めて約20年を過ごしたクラブを離れることは、簡単な選択ではなかったはずだ。

モンテディオ山形からのオファーは、代理人を通じて数年前から届いていたという。
だが、実際に「戻る」決断をしたのは、33歳の夏。
地元・山形県をホームタウンとするクラブへの移籍は、単なる移籍ではなく、自身のサッカー人生を見つめ直す節目でもあったに違いない。

そして移籍後すぐ、その選択が正しかったと証明するかのように、デビュー戦となったJ2第25節・ファジアーノ岡山戦で初ゴールを挙げる。
クラブも街も違う。雰囲気も、求められる役割も違う。
それでも「ゴール前で決めるべきときに決める」感覚は失われていなかった。

ジュビロ磐田戦の一撃──まだ終わっていないと示すゴール

そして11月23日、J2第37節ジュビロ磐田戦。
9分、ロングボールを完璧にトラップし、右足のコントロールショットでゴール右隅へ。
SNSには、

  • 「うますぎる」
  • 「天才」
  • 「簡単にやってのける」
  • 「全てにおいてビューティフル」
  • 「J1でもなかなかお目にかかれない完璧なトラップとコントロールショット」

といった賛辞が相次いだ。
J1で戦っていた頃と何も変わらないどころか、むしろ研ぎ澄まされているようなプレー。
カテゴリーがJ2であろうとも、ピッチの上で発揮される技術とセンスに、差はない。

試合自体は2-2の引き分けに終わり、終了間際に追いつかれる悔しさもあった。
だが、あのゴールにははっきりとしたメッセージが込められていたように感じられる。
「まだ終わっていない。ここからもう一度、チームを勝たせる選手になる」
そんな意志を、プレーそのもので語っているようだった。

ポジションの変遷が教えてくれるもの──「ゼロトップ」としての33歳

サッカーを学ぶ育成年代の選手たちにとって、土居聖真のキャリアで特に注目すべきは、ポジションの変遷かもしれない。

・ユースからトップチーム初期:トップ下、サイドハーフ
・石井監督時代:4-4-2のFW、セカンドトップ
・2021年・相馬直樹監督以降:センターFW、いわゆる「ゼロトップ」的役割
・モンテディオ山形:得点も求められるアタッカー兼ゲームメーカー

2021年、Jリーグ開幕から29年目となる5月15日、第14節の横浜F・マリノス戦。
この試合で土居は、PKを含むキャリア初のハットトリックを達成している。
鹿島のホームゲームで鹿島の選手がハットトリックを記録するのは、約9年ぶりの出来事だった。

守備ラインとの駆け引きのうまさを評価され、ゼロトップ的なセンターFWとして起用されるようになった土居。
もともと「点を取る10番タイプ」の選手ではなかった彼が、前線の軸となってハットトリックを決めるに至るまでには、相当な試行錯誤があったはずだ。

「自分の得意なポジションはここだ」と言い切ってしまえば楽だったかもしれない。
だがプロの現場では、
「チームのために、どこで何ができるか」
を問い続け、変化し続ける選手だけが生き残っていく。

育成年代の選手たちに問いたい。
いま、自分のポジションにこだわりすぎていないだろうか。
サイドバックだから、センターバックだから、ボランチだからと、自らの可能性を狭めてしまってはいないだろうか。
土居聖真のキャリアは、ポジションの「名称」ではなく、「ピッチ上で何を表現するか」が本質であることを静かに教えてくれる。

「天才」の裏側にある、地味で長い時間

観る者を唸らせるトラップ。
ゴール隅に吸い込まれるコントロールショット。
それらは、一瞬の“ひらめき”に見えるかもしれない。
だがその一瞬には、何年分もの反復と失敗が染み込んでいる。

山形の少年時代から、鹿島ジュニアユース、ユース、トップチームまで。
小さなミスに眉をひそめ、指導者から厳しく要求される日々の中で、トラップは磨かれ、判断は洗練されていった。

天才と呼ばれる選手に共通するのは、「楽にやっているように見える」ことだ。
しかし、その「楽に見せる」までの積み重ねを想像できる人は、どれくらいいるだろうか。

保護者や指導者にとっても、ここに一つの視点がある。
試合で見せる派手なゴールやドリブルだけでなく、その裏にある反復練習や、地味なトラップの確認、ポジショニングの微調整こそが「天才」を形作っている。
子どもたちがそれに気づき、努力を続けるために、どんな声をかけるべきか。
土居聖真のプレーを通じて、その問いを自分自身に向けてみる価値は大きい。

故郷・山形で問われる「ベテランの価値」

今、モンテディオ山形でプレーする土居聖真に、クラブとサポーターは何を期待しているのだろうか。
ゴール数やアシストの数字だけでは、おそらく測りきれない役割がある。

J1経験、タイトル争い、クラブワールドカップ、日本代表。
その全てを知る選手が、J2のクラブにいる意味。
若い選手たちにとっては、日々のトレーニングや試合の中で、その「当たり前の基準」を肌で感じることができる、大きな財産だろう。

一つのトラップの質。
一つのプレスの角度。
一つの声掛けで変わるチームの雰囲気。
そうした細部にこそ、33歳になった土居の「価値」は現れる。

ゴールを奪い、観客を沸かせること。
それと同じくらい、あるいはそれ以上に、チーム全体の「サッカーの質」を押し上げること。
ベテランが担うその役割の大きさを、改めて考えさせられる。

Jリーグを目指す若い選手たちには、「プロになる」ことだけでなく、「プロでどう生き続けるか」という視点を持ってほしい。
土居聖真のように、環境が変わり、役割が変わっても、自分の武器を磨き続けることで、新しい価値を見出していく生き方が、たしかに存在している。

土居聖真という物語を、どう受け取るか

鹿島の8番として頂点を経験し、日本代表にも選ばれた選手が、33歳で地元クラブのユニフォームを着ている。
J2という舞台で、なおも「完璧なトラップ」と称されるプレーを見せている。
そこに、サッカー人生の「正解」はない。

もっと長く日本代表に定着していたかもしれない。
海外でプレーしていた未来も、あったかもしれない。
だが、現実として彼が選んできた道は、「鹿島で20年過ごし、山形へ戻ってプレーする」という物語だった。

その物語をどう受け取るかは、読み手である私たち一人ひとりに委ねられている。
育成年代の選手にとっては、「天才と呼ばれる選手でも、常に変化と決断を迫られる」という真実として。
指導者にとっては、「技術とセンスを持つ選手を、どう勝たせる存在に育てるか」というヒントとして。
親御さんにとっては、「子どものサッカー人生に、どんな選択肢や価値観を提示できるか」を考えるきっかけとして。

山形の青いユニフォームを着て放たれた、あのジュビロ戦の一撃。
ロングボールを吸い込むようにトラップし、迷いなく放たれた右足のシュート。
その背後には、山形から鹿島へ向かった少年の決断と、鹿島で過ごした20年、そして再び山形に戻ってきた33歳の覚悟が、静かに積み重なっている。

土居聖真のサッカー人生は、今もなお進行形だ。
その一つひとつのプレーを、ただ「うまい」で終わらせるのか。
それとも、自分自身のサッカーと人生に重ね合わせて、何かを汲み取ろうとするのか。
ピッチの上で語られる物語は、いつだって、観る者の姿勢を映し返している。

LANGL SCOUTING & SUPPORT PROGRAM

評価 :5/5。