伊藤洋輝という物語――静岡の少年がバイエルンでつないだ“238日ぶり”のロングボール
「These 238 days were all for this moment.
It’s a truly special day for me.」
バイエルン・ミュンヘン対フライブルク、6−2という派手なスコアで終わったその夜。
日本のサッカーファンが心を震わせたのは、点差でも、スターのゴールでもなく、一人の日本人ディフェンダーの一歩目だったのかもしれません。
今年3月の中足骨骨折から、実戦のピッチを遠ざかっていた伊藤洋輝。
8か月という長いトンネルを抜け、11月22日、ブンデスリーガ第11節フライブルク戦の後半38分。
交代ボードに「21」の背番号が灯った瞬間、その時間はひとつの物語に変わりました。
ピッチに立ってわずか1分後、自陣左サイドから放たれた一本のロングフィード。
逆サイドで待っていたマイケル・オリーセがそれを受け、ドリブルから豪快なミドルシュート。
スタジアムがどよめいたゴールは、公式記録で「アシスト:伊藤洋輝」と刻まれました。
ゴール後、オリーセをはじめチームメートたちが、まっすぐ伊藤のもとへ駆け寄っていく。
8か月待ち続けた男を祝福する輪。
その光景を見ながら、画面越しに胸が熱くなった人は、どれだけいたでしょうか。
浜松の少年が見ていた景色――フットサルコートとサントスの青空
1999年5月12日、静岡県浜松市に生まれた伊藤洋輝。
サッカーの名門県として知られる静岡の西部地区で、彼が最初にボールを追いかけた場所は、芝生ではなくフットサルコートでした。
「マリオフットサルスクール」。
小さなコートの中で、狭いスペースを素早く判断し、足もとでボールを扱う技術を磨く日々。
フットサルとサッカー、二つのボール遊びに夢中になりながら、彼は自然と“視野の広さ”や“間合いの取り方”を身につけていきました。
小学校4年生の春休みには、ブラジルの名門サントスFCの下部組織セレクションに合格し、短期留学を経験します。
「小学生でブラジル」。
そう聞くと、とても特別なことのように思えますが、当時の彼にとっては、ただ「もっとサッカーがしたい」という気持ちの延長線上にあったのでしょう。
遠く離れた異国の地で、知らない言葉に囲まれながらボールだけは世界共通。
このときの経験が、後にドイツでプレーするときの“物怖じしない姿勢”につながっているのかもしれません。
ジュビロ磐田U-15・U-18へ――プロを意識しはじめた思春期
小学校を卒業すると、舞台は一気に「プロへの入り口」へと移っていきます。
ジュビロ磐田U-15、U-18。
日本代表も数多く輩出してきた名門クラブの育成組織で、伊藤は本格的にプロを目指す道を歩き始めました。
2017年5月。
まだ高校生でありながら、ジュビロ磐田トップチームへの昇格が内定。
この瞬間から、彼の日常は大きく変わります。
ユースの試合には出場せず、通信高校へ編入してトップチームの練習に帯同。
同世代の仲間と戦うピッチではなく、大人たちのJリーグの世界へ、いきなり放り込まれた形でした。
このとき、彼の心の中にはどれだけのプレッシャーと期待が渦巻いていたのでしょうか。
周りには日本代表クラスの先輩たち。
自分の居場所をつくるためには、「若いから」ではなく「戦力だから」と認めてもらう必要がありました。
プロデビューと最初の壁――磐田、そして名古屋グランパスへ
2018年3月、ルヴァンカップ清水エスパルス戦でプロデビュー。
同年8月にはJ1リーグ・柏レイソル戦でリーグ戦デビュー。
静岡ダービー、J1の緊張感、満員のスタジアム。
どれもが若いディフェンダーにとって、忘れられない景色になったはずです。
しかし、プロの世界は甘くありません。
翌2019年、伊藤は名古屋グランパスへ期限付き移籍。
リーグ戦とカップ戦を合わせて9試合出場。
出番はあっても、「主力」と呼ばれるにはまだ遠い。
このとき彼は、どんな気持ちで毎試合に臨んでいたのでしょう。
「出る試合もあれば、出られない試合もある。
でも、そこで腐ったら自分は終わる。」
そう自分に言い聞かせるように、一つひとつのプレーに向き合っていた姿が想像できます。
J2でつかんだ“CB伊藤洋輝”――磐田でのフル出場の日々
2020年、ジュビロ磐田に復帰すると、彼の立ち位置は大きく変わります。
本職のボランチではなく、センターバックとしてスタメンを勝ち取りました。
J2リーグ37試合出場。
うち36試合がフル出場。
第11節・大宮戦ではプロ初ゴールも記録。
J1への即時復帰は叶わなかったものの、伊藤洋輝という名前は「若いのに落ち着いたセンターバック」として、多くのサポーターの記憶に刻まれていきました。
2021年も磐田で主力としてプレー。
センターバックだけでなく左ウイングバックもこなし、チームのJ2優勝・J1昇格争いを支えます。
J2の長く、地味で、泥くさい戦い。
ブンデスリーガの華やかなスタジアムからは想像できない、雨の日も、地方のスタジアムも、観客が少ない日も、ただひたすら守り続けた時間。
そこで養われた「90分を戦い抜く力」が、のちにドイツでの成功の土台になったことは、言うまでもありません。
シュトゥットガルトへ――“第二の香川”を見出した目
転機は突然やってきます。
2021年6月23日、VfBシュトゥットガルトへの期限付き移籍が発表。
彼を見つけ出したのは、ボルシア・ドルトムント時代にJ2の香川真司を発掘したスカウト、スヴェン・ミスリンタートでした。
J2からドイツ1部へ。
しかも、当初は「Bチームから」と言われていた選手が、ほどなくしてトップのレギュラーをつかんでいく。
このシナリオは、かつての香川を思い出させるものでした。
8月のDFBポカールで移籍後初出場。
ブンデスリーガ第3節でリーグ戦デビュー。
11月のマインツ戦で初ゴール。
11月の「ルーキー・オブ・ザ・マンス」。
「今季リーグデビューベスト11」。
半年で市場価値は推定移籍金の8倍近くに跳ね上がりました。
なにより象徴的だったのは、2021-22シーズン最終節・1.FCケルン戦。
残留をかけた土壇場で、後半アディショナルタイム。
コーナーキックからのボールを頭でそらし、遠藤航の劇的決勝弾をアシスト。
クラブの1部残留に、大きな足跡を残しました。
J2で積み上げたフル出場の経験が、ブンデスリーガ終盤の重圧の中でも、彼の足を止めさせなかったのかもしれません。
日本代表というもうひとつの舞台――歓喜と批判のあいだで
ユース年代から常に日本代表に名を連ねてきた伊藤。
U-16、U-17、U-18、U-19、U-20、U-21と、世代別代表の常連でした。
しかし、東京オリンピックの最終メンバーには届かず。
一度は代表から遠ざかる形になります。
2022年5月、A代表初招集。
パラグアイ戦でA代表デビューを飾り、その年の11月にはカタールW杯メンバーに選出されます。
中山雄太の負傷離脱もあり、左サイドバックでの出場も期待されていましたが、大会でレギュラーを務めたのはベテラン・長友佑都。
伊藤の出番はグループステージ第2戦・コスタリカ戦のみ。
敵陣でのバックパスなど、慎重すぎるともとれるプレーが目立ち、試合も0−1で敗戦。
彼は一部のメディアやファンから批判の矢面に立たされました。
「選手ってのはコーチング次第で1流にも2流にもなりえる」
元日本代表・本田圭佑は、そんな空気の中で伊藤を擁護しました。
若い選手が大舞台で失敗したとき、私たちはどんな言葉をかけるべきなのか。
問いかけられているのは、選手本人ではなく、私たち「観る側」の姿勢なのかもしれません。
2023年6月、ペルー戦で代表初ゴール。
左サイドバックとしてスタメンに入り、遠藤航のパスから決めた強烈なミドル。
カタールでの悔しさを、少しだけ晴らすような一撃でした。
バイエルン・ミュンヘンへ――日本人DFが踏み入れた“王者のロッカールーム”
2024年6月14日。
世界中のニュースサイトに「Bayern sign Hiroki Ito」の文字が躍ります。
ブンデスリーガの絶対王者、FCバイエルン・ミュンヘンが、シュトゥットガルトから伊藤洋輝を完全移籍で獲得。
契約期間は2028年6月末までの4年。
かつて奥寺康彦が1.FCケルンでブンデス優勝を経験し、その後、大久保嘉人、長谷部誠、香川真司と続いてきた「日本人とブンデスの歴史」の中に、新たな名前が加わります。
センターバックと左サイドバック、二つのポジションを高いレベルでこなせる左利き。
バイエルンが必要としていたタイプに、静岡出身のディフェンダーがぴたりとはまった瞬間でした。
中足骨の2度の骨折――長い長い238日のトンネル
しかし、華やかな移籍発表の直後、試練が訪れます。
7月29日の親善試合で中足骨を骨折。
ようやく復帰に向かいはじめた矢先、2025年3月には再び同じ箇所を骨折してしまいます。
24-25シーズン中の復帰は絶望的と報じられ、伊藤はほとんどピッチに立てないまま、シーズンを終えることになりました。
それでも、チームはブンデスリーガで34度目の優勝。
日本人選手として、奥寺康彦、大久保嘉人、長谷部誠、香川真司に続く5人目の「ブンデス優勝メンバー」となり、ホーム最終戦後の優勝セレモニーでは、チームメートと肩を並べて優勝プレートを掲げました。
ピッチでの貢献はわずかでも、その場に立っていた事実。
「ケガをしている自分は、この輪の中にいていいのだろうか」
そう迷うような時間もあったかもしれません。
それでも、リハビリの日々とトレーニングの積み重ねは、必ずチームの力になっている。
王者のロッカールームは、そう教えてくれた場所でもあったでしょう。
そしてフライブルク戦――238日ぶりの「ただいま」
そして、ブンデスリーガ第11節・フライブルク戦。
鈴木唯人が先制点を決め、日本人対決としても注目を集めた一戦。
バイエルンはそこから怒涛のゴールラッシュを見せ、最終的には6−2の逆転勝利。
後半38分、アレクサンダル・パブロビッチとの交代で、背番号21がピッチに送り出されます。
およそ8か月ぶりの実戦復帰。
そのわずか1分後、自陣左サイド。
伊藤の足元にボールが転がると、彼はためらうことなく大きく顔を上げました。
視線の先には、逆サイドで一瞬フリーになったマイケル・オリーセ。
振り抜かれた左足から、見る者が「えげつない」と声を漏らしたロングフィード。
ボールは美しい弧を描きながらピッチを横切り、オリーセの足もとへ。
ゴールは、その数秒後に生まれました。
歓声。
抱き合う選手たち。
そして、オリーセを先頭に、仲間たちがまっすぐ伊藤へ駆け寄る。
「待望の復帰戦でいきなりのアシスト」
「代表でも見たい」
「復帰早々の活躍はお見事」
SNSには称賛の言葉が並びました。
その多くが、ロングフィードの精度だけでなく、「仲間たちが伊藤に駆け寄る姿」に心を動かされています。
238日という長い時間を、ただの「ケガの期間」として流してしまわなかった証拠が、あの輪の中にはありました。
白い眉と、まっすぐな視線――伊藤洋輝という人間
小学校3年生のときに発症した「白斑」により、右眉や右まつ毛が白いままの伊藤。
幼いころには、きっとじろじろ見られることも、好奇の目にさらされることもあったでしょう。
病院に通い、治療も試みたものの、途中で中止し、今もそのまま。
「コンプレックス」として隠すのではなく、自分の一部として受け入れてきた時間。
日本代表として大観衆の前に立つときも、バイエルンのユニフォームを着て世界中に放送される試合に出るときも、その白い眉は変わりません。
ピッチに立つときの、あのまっすぐな視線。
白い眉の奥にある、揺るがない意思のようなものも、彼の武器のひとつなのかもしれません。
家族とともに歩むキャリア――父であり、夫であり、代表選手であること
2021年6月23日、伊藤は一般女性との結婚を発表しています。
すでに1人の子どもを持つ父でもあります。
ブンデスリーガでの過酷なシーズン、代表戦での長距離移動、ケガとの戦い。
それらの裏側には、支えてくれる家族の日常がある。
「サッカー選手・伊藤洋輝」を応援する私たちは、ついゴールやアシストの数、クラブ名や代表歴に目を向けがちです。
でも、その数字の後ろには、ひとりの夫として、父としての顔も確かに存在しています。
子どもにとって、「パパはバイエルンの選手」というのはどんな響きなのでしょう。
そして、ケガで苦しむ姿を見てきた家族にとって、フライブルク戦の復帰はどれほど特別な夜だったのでしょうか。
日本サッカーと伊藤洋輝――私たちはこの選手をどう見つめていくのか
J2からブンデスリーガへ。
ジュビロ磐田、名古屋グランパス、シュトゥットガルト、そしてバイエルン・ミュンヘン。
東京五輪落選、カタールW杯での批判。
ブンデス優勝メンバー、そして2度の骨折。
伊藤洋輝のこれまでの歩みは、決して一直線のサクセスストーリーではありません。
むしろ、道の途中には何度も小さなつまずきがあり、回り道があり、迷いがありました。
だからこそ、フライブルク戦での238日ぶりの一歩は、多くの人の心を揺さぶったのだと思います。
「These 238 days were all for this moment.」
彼がそう語ったように、私たちの人生にも、「今、この瞬間」のためだけに積み上げてきたような時間があるのかもしれません。
うまくいかない日々も、ケガで苦しむ季節も、J2で黙々と守り続けたシーズンも、すべてが一本のロングフィードにつながっていく。
これからバイエルンは、チャンピオンズリーグでアーセナルとのビッグマッチを控えています。
傷が癒え、再びコンディションを取り戻したとき、あのフライブルク戦のように、静かに、しかし確かに試合を変える一本を、伊藤がまた蹴る日が来るのでしょうか。
そのとき、私たちはどんな気持ちで彼のロングボールを見上げているのでしょう。
静岡の小学生も、日本代表に夢を託すおばあちゃんも、同じ画面の向こうで、「伊藤洋輝」という名前を、少しだけ誇らしく口にしているのかもしれません。



