仙頭啓矢――「枚方の緑閃光」がたどり着いた、町田ゼルビアとACLの夜
「仙頭啓矢」という名前を、どこで初めて知っただろうか。
高校選手権の得点王としてだろうか。
J2京都サンガF.C.で輝いた攻撃的MFとしてだろうか。
あるいは、横浜F・マリノスでJ1の壁に直面した選手として、かもしれない。
そして今、Jリーグ・FC町田ゼルビアの背番号8として、天皇杯優勝とACLエリートの舞台で躍動する姿を目にして、あらためて「こんなに良い選手だったのか」と感じている人も少なくないはずだ。
枚方の「緑閃光」から全国区へ
大阪府枚方市。
枚方市立渚西中学校に通っていた頃、FCグリーンウェーブでプレーしていた仙頭啓矢は、その圧倒的なフィジカルとセンスから、周囲の子どもたちの中で突出した存在だった。
当時、彼につけられた異名は「枚方の緑閃光」。
スピードだけではない、プレーの閃き、ボールタッチの柔らかさ、そして勝負所での強さ。
育成年代の指導者から見れば、「このまま順調に伸びれば、必ずどこかで大成する」と感じさせるタイプだったかもしれない。
そこから進んだのが、名門・京都橘高校。
3年時には第91回全国高校サッカー選手権大会に出場し、チームは準優勝。
1学年下の小屋松知哉とともに、5得点を挙げて大会得点王を獲得している。
全国の舞台でゴールを量産し、結果を残し、優秀選手にも選出される。
高校年代でここまでスポットライトを浴びながら、それでも「プロ直行」ではなく、東洋大学を選んだことに、仙頭のキャリアの深みがある。
東洋大学での4年間――「遠回り」に見える道の価値
高校選手権得点王。
この肩書きから一気にプロへ、というルートは少なくない。
だが仙頭は、東洋大学へと進学する道を選ぶ。
東洋大学での4年間。
表向きの「華やかさ」だけを見れば、高卒プロの選手と比べて地味に映ったかもしれない。
だが、そこで積み上げたものは、プロになってからの彼のしぶとさ、したたかさを形づくっていく。
3年時、関東大学サッカーリーグ2部でベスト11。
総理大臣杯では創部以来初めての出場とベスト8進出に貢献。
4年時も再び2部ベスト11に選出され、チームは1部昇格を果たした。
大学サッカーで「2年連続ベスト11」。
紙の上では数行で済んでしまう実績だが、その裏には「一度名前が売れた選手」が、もう一度、ゼロから積み上げ直すプロセスがある。
高校選手権で得点王になっても、その後4年間で成長が止まる選手もいる。
一方で、仙頭のように、大学の舞台で再び自分を磨き直し、別の形で評価をつかみ取る選手もいる。
育成年代の選手たちにとって、「高校で目立てなかったら終わり」では決してないのと同じように、「高校で目立ったからといって安泰ではない」という、もう一つの真実を仙頭のキャリアは示している。
京都サンガF.C.での台頭――ボランチで見せた新境地
2017年、京都サンガF.C.に加入。
J2・京都で迎えたプロ1年目の開幕。
2月26日、第1節・モンテディオ山形戦でJリーグ初出場。
そして3月12日、第3節・アビスパ福岡戦でプロ初ゴールを決める。
4月1日の第4節・ジェフユナイテッド千葉戦では、プロとして初めてボランチで先発し、そこでまた1得点。
攻撃的なポジションだけでなく、中盤の底でもクオリティを発揮できることを証明した試合だった。
のちに「トップ下からボランチまでこなす万能型MF」と評されるようになるベースは、この頃から作られていた。
2019年5月には、J2リーグ戦5試合で3得点2アシスト。
月間MVPを受賞し、チームの中心選手として脚光を浴びる。
J2の舞台で、仙頭啓矢という名前は、完全に「覚えられる側」の存在になった。
横浜F・マリノスでぶつかったJ1の壁
そして2020年、ついにJ1への挑戦。
完全移籍で加入したのは、攻撃的スタイルを貫く横浜F・マリノスだった。
J2で結果を残し、満を持してのJ1挑戦。
だが、そこで待っていた現実は甘くない。
リーグ戦の出場はわずか3試合にとどまり、AFCチャンピオンズリーグでも出場機会は訪れなかった。
「成長曲線が順調に右肩上がりであれば、そのままマリノスで主力に」
そんな期待を抱いていたファンにとっても、本人にとっても、決して満足いく時間ではなかったはずだ。
一方で、ここで「試合に出られない時間」を経験したことを、後にどう解釈するか。
若い選手たちが陥りがちな、「ビッグクラブに行くこと」そのものを目的化する危険。
そこに対し、仙頭は9月に半年ぶりの古巣・京都への期限付き移籍を決断する。
「試合に出て、ピッチの中で自分を取り戻す」
そうした現実的な選択ができたからこそ、その後のキャリアは途切れずに続いていく。
鳥栖・名古屋・柏――「点を取るMF」から「チームを回すMF」へ
2021年、サガン鳥栖へ完全移籍。
ここで仙頭は、J1でフルシーズンを戦う経験を手にする。
リーグ戦38試合出場3得点。
スタッツだけを見れば「派手さ」はないかもしれない。
しかし、出場試合数が示すのは、指揮官からの信頼の厚さだ。
続く2022年は名古屋グランパス、2023年は柏レイソルへ。
それぞれのクラブで、求められる役割は微妙に違う。
攻撃のタクトを振るう試合もあれば、守備バランスを整えることが第一のタスクになる試合もある。
2019年のJ2京都時代のように、「得点とアシストで目立つ存在」から、「チームのために動き続ける万能型MF」へ。
成長とともに、プレースタイルにも変化が生まれていった。
ゴール数だけでは測れない価値を、どこまで周囲が理解できるか。
そして、選手自身がその役割にどれだけ誇りを持てるか。
これは、指導者にとっても、育成年代の親御さんたちにとっても、考えるべき問いかけではないだろうか。
2024年、町田ゼルビアへ――「優勝経験のないクラブ」との出会い
2024年、仙頭はFC町田ゼルビアへ完全移籍する。
J1昇格を果たし、日本サッカー界で新しい風を巻き起こしていたクラブ。
ハイプレス、高強度、走力。
そんなキーワードで語られるチームにおいて、仙頭の武器である「技術と戦術眼」は、また別の重みを持ち始める。
クラブ史上初タイトルとなる、2025年の天皇杯優勝。
その過程をインサイドから支えた一人が、この背番号8だった。
「優勝経験のないクラブ」にタイトルをもたらすために必要なのは、実は「スター」だけではない。
試合の流れを読む目。
90分間を通して、チームにとって最適な位置に立ち続けられる感覚。
試合ごとに変わる役割を、迷いなく遂行できる柔軟性。
仙頭啓矢という選手は、そのすべてを持った中盤の職人になっていた。
ACLエリートの夜、江原FC戦で見せた「三つの関与」
2025年11月25日。
AFCチャンピオンズリーグエリート、リーグステージ第5節。
江原FC(韓国)とのアウェーゲーム。
町田は中2日。
つい先日、天皇杯決勝でクラブ初タイトルを手にしたばかりでありながら、メンバーを大幅に入れ替えながらこの試合に臨んだ。
そんななかで、仙頭は先発出場し、先制点を含む3ゴールすべてに絡む決定的な働きを見せる。
前半24分。
ドレシェヴィッチから左サイドの林幸多郎へ。
林が1対1から中央へパス。
ナ・サンホのシュートは相手に当たって高く上がり、ペナルティエリア右へこぼれる。
そこに走り込んだ増山朝陽がダイレクトで折り返し、最後は仙頭が頭で押し込む。
味方の連続したアクションが生んだボールの落下点を読み、確実に決め切る。
さらに前半26分には、自らの守備からチャンスを生み出す。
高い位置からプレッシャーをかけ、連続したボール奪取の中でファウルを受け、危険な位置でFKを獲得。
これを下田北斗が鮮やかに決め、追加点へとつながった。
前半39分。
右サイドの高い位置で再び仙頭がボールを奪い、そのまま折り返し。
走り込んだオ・セフンがきっちりと決めて3点目。
ゴール、ファウル誘発、ボール奪取とラストパス。
スコアに直接刻まれるプレーと、その一歩手前の仕事。
仙頭啓矢がピッチで表現していたのは、まさに「結果とプロセスの両方に影響を与えるMF」の姿だった。
ピッチに刻まれた問いかけ
この試合をどう捉えるか。
天皇杯で優勝したばかりのチームが、中2日でACLの舞台に立ち、アウェーの韓国で3-1の勝利。
その中心に30代を迎えつつある一人のMFがいる。
若い頃のように、毎試合ゴールを量産するわけではない。
それでも、大事なところで結果を出せる選手であり続けるために、彼は何を積み上げてきたのか。
もし仙頭啓矢が、この日の試合後にこんな言葉を口にしたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
「ゴールもアシストも、もちろん嬉しいです。
でも、自分の中では、チームにとって一番助けになるポジションで、90分をどう過ごせるか、そこを一番大事にしています。
若い頃みたいに、『自分が点を取ればいい』だけじゃないですから。」
実際の発言ではない。
だが、京都、マリノス、鳥栖、名古屋、柏、そして町田。
これだけ多くのクラブで、それぞれ違う役割をこなしつつ、254試合という膨大なJリーグ出場数を重ねてきた事実そのものが、彼の価値観を物語っているように見える。
「移籍の多い選手」と「どこでも必要とされる選手」
仙頭啓矢のキャリアを振り返ると、クラブの数の多さに目が行くかもしれない。
- 京都サンガF.C.
- 横浜F・マリノス
- サガン鳥栖
- 名古屋グランパス
- 柏レイソル
- FC町田ゼルビア
「一つのクラブで10年」のようなキャリアとは違う。
だが、こう問いかけてみたい。
「移籍が多い」ことは、ネガティブなことなのだろうか。
それとも、「どのクラブからも必要とされ続けた」証なのだろうか。
指導者として、あるいは親として、子どもたちにどんな価値観を伝えるか。
一つのチームで長くプレーすることの素晴らしさもある。
一方で、環境を変えながら、どこへ行っても信頼を得る選手であり続ける生き方もある。
仙頭のように、毎回違う監督、違う戦術、違う文化、違うライバルの中でポジションを勝ち取っていくこと。
そこには、目に見えない適応力、コミュニケーション能力、そして何よりも「サッカー理解力」がある。
「枚方の緑閃光」が教えてくれるもの
中学時代、「枚方の緑閃光」と呼ばれた少年は、今、30歳を迎え、ACLの舞台で3ゴールに絡む活躍を見せている。
高校選手権の得点王。
大学サッカーのベスト11。
J2月間MVP。
そして天皇杯優勝、ACLエリートでの勝利への貢献。
これほどまでに多様なタイトルや評価を積み重ねてきた選手が、「日本代表の常連」でもなければ、「派手なヒーロー」として扱われることも多くはない。
だからこそ、そこにこそ学ぶ価値があるのではないだろうか。
・一度スポットライトを浴びても、そこで満足せずに自分の道を選ぶこと。
・遠回りに見える時間が、結果的に自分の武器を増やしてくれること。
・大きなクラブで苦しんでも、そこで終わりにせず、試合に出る選択を取る勇気。
・「点を取る選手」から「チームのための選手」へ役割を変えていく覚悟。
・移籍を繰り返しながらも、どこでも信頼を勝ち取るための、日々の姿勢。
育成年代の選手たちにとって、「憧れのスター」だけがロールモデルではない。
仙頭啓矢のように、「プロとして生き抜く力」を体現している選手こそ、本当はもっと知られるべき存在かもしれない。
指導者にとっても、一人の選手のキャリアを「成功か失敗か」で判断してしまうのではなく、「どんな局面で、どんな選択をしてきたのか」という視点で見つめるきっかけになるだろう。
そして親御さんにとっても、「高校での評価」「大学かプロか」という一点だけにとらわれない、多様なキャリアの形を考えるヒントになるはずだ。
ACLのピッチで、江原FC相手に先制点を決めたあのヘディング。
高い位置でボールを奪い続ける姿。
味方を生かすパスと、自ら前に出ていくタイミングの良さ。
そのすべては、枚方のグラウンドから始まり、京都橘、東洋大学、京都、横浜FM、鳥栖、名古屋、柏、町田と続く、長い時間の積み重ねの結果だ。
「プロになる」ことをゴールにするのか。
「プロとして生き続ける」ことを目指すのか。
仙頭啓矢のサッカー人生は、静かに、しかし強く、その問いを投げかけているように見える。





