山口蛍という「光」が照らす、日本サッカーのリアル
どんな暗闇でも明るい光を放ち続けられますように。
そんな願いを込めて「蛍」と名付けられた少年は、いまJ2・V・ファーレン長崎のキャプテンマークを巻き、再び「昇格」というプレッシャーの真ん中に立っている。
W杯に2度出場し、ヴィッセル神戸ではクラブ初のリーグ優勝を引き寄せた元日本代表。
その男が、34歳にして新たな挑戦の舞台として選んだのは、J1ではなくJ2の長崎だった。
「なぜ、そこで長崎なのか。」
そう感じた育成年代の選手や指導者、親御さんも多いかもしれない。
だが、山口蛍のサッカー人生をたどっていくと、その選択はむしろ彼らしい「必然」に近い。
赤目から長居へ──片道2時間の電車に揺られて
1990年、三重県名張市赤目で生まれた山口蛍。
父の影響でボールを蹴り始めたのは小学校3年生。
ポジションは、いまの「守備的MF」のイメージとは少し違うトップ下だった。
中学進学のタイミングで、彼は3つの関西クラブの入団テストを受ける。
- セレッソ大阪
- ガンバ大阪
- 京都サンガF.C.
テスト当日に合格を告げてくれたクラブ──それが、のちに彼の人生を大きく左右することになるセレッソ大阪U-15だった。
名張から大阪まで、電車で片道2時間。
学校が終わると急いで電車に乗り、夜遅くに帰ってくる。
その日々を支えたのは、「もっと上手くなりたい」という感情だけではなく、「ここでやると決めた」覚悟だったのかもしれない。
1年生の終わりに、JFAエリートプログラムの1期生として選出。
2006年にはセレッソ大阪U-18に昇格し、2008年には主将としてプリンスリーグ関西優勝、そしてリーグMVP。
この時期に背負ったのは「10番」。
守備的MFというより、攻撃の中心として評価されていた事実は、いまのプレーを見るうえで、意外と大切な伏線になっている。
プロの壁と、ボランチへのシフト
2009年、丸橋祐介とともにセレッソ大阪トップチーム昇格。
だが、すぐに順風満帆とはいかない。
プロ入り後しばらくは出場機会に恵まれず、「ユースのスター」がプロの現実に直面する時間が続いた。
転機は2011年。
ボランチとして徐々に出場機会を得るようになり、J1第24節・浦和レッズ戦で公式戦初ゴール。
攻撃的なポジション出身でありながら、豊富な運動量と球際の強さ、危険察知能力を買われて守備的役割を担う。
それは、ただ「下がった」わけではなく、攻撃のセンスと守備の献身を兼ね備えた「中盤のダイナモ」への進化だった。
2013年にはリーグ戦34試合フル出場、日本代表初選出、そしてJリーグベストイレブン。
ユースから積み上げてきた時間が、ここで一気に花開いた。
半月板損傷と降格──「暗闇」の始まり
2014年、登録表記を「山口螢」から「山口蛍」へ。
キャプテンも志願し、クラブの先頭に立つ覚悟を決めたシーズンだった。
しかし、8月のFC東京戦で右膝外側半月板損傷。
そのまま最終節まで復帰できず、セレッソ大阪は17位でJ2降格。
クラブの命運がかかったシーズンで、主将がピッチに立てないまま終わる。
リハビリの時間、彼は何を考えていたのだろうか。
「以前の自分に戻れるだろうかという不安をはじめ、いろいろなことを考えた。リハビリをしながら、以前の自分よりもどれだけパワーアップして復帰できるかという部分をテーマに掲げて乗り越えた」
育成年代の選手や、彼らを預かる指導者にとって、「ケガ」はいつ自分事になってもおかしくない現実だ。
山口蛍も例外ではなく、むしろ彼のサッカー人生の大きなターニングポイントは、この「半月板損傷」にあったと振り返っている。
ドイツ・ハノーファー96へ──「夢」と「現実」の温度差
2015年12月、ブンデスリーガ・ハノーファー96への完全移籍。
日本代表ボランチとして満を持して挑んだ欧州へのチャレンジ。
だが現実は厳しかった。
- チームはダントツ最下位という苦しい状況
- 本職のボランチではなく右サイドハーフでの起用
- 代表戦での鼻、眼窩底骨折
結果的にリーグ戦6試合出場にとどまり、チームも降格。
「海外で長くやっていない」と本人が後に語るように、名声とは裏腹に、欧州でのキャリアは短期で終わることになる。
ヨーロッパ挑戦=成功、という単純な図式には回収されない「ひとつの現実」がここにある。
「残りのサッカー人生をすべてこのクラブと」──そして、神戸へ
2016年6月、山口蛍は半年でセレッソ大阪へ復帰する。
そのとき、彼はこう語った。
「育ったクラブを離れてみて、セレッソに対する思いが想像以上に強くなった」
復帰会見ではさらに踏み込む。
「残りのサッカー人生を全てこのクラブとともに歩んでいきたい。プレーで返していくしかない」
J2の舞台から再スタートした2016年。
しかし、その年の秋にはJ2月間MVPを受賞し、チームをJ1昇格へと導く。
続く2017年、背番号10を背負い、クラブ史上初のルヴァンカップと天皇杯制覇。
再びベストイレブンに輝き、クラブ史上最高の勝ち点、リーグ3位という歴史的なシーズンを支えた。
だからこそ、2019年に発表されたヴィッセル神戸への移籍は、多くのセレッソサポーターを揺さぶった。
「残りの人生をすべてこのクラブと」と口にした選手が、別のクラブへ向かう。
ブーイングが起こったのも、ある意味で当然の感情だった。
開幕戦、ヤンマースタジアム長居。
ボールに触れるたびに浴びせられる大ブーイング。
それでも試合後、彼はセレッソ側のゴール裏へ足を運ぶ。
「ブーイングされることも理解している。仕方ないと思う。サポーターにはいい思い出しかないし、感謝していることばかりなので、ブーイングがあったからどう、ということはないですね。サポーターも含めて、変わらず、ずっと好きだと思います」
プロとしての決断と、ひとりの人間としての未練や愛情。
その間で揺れながらも、彼は自分の選んだ道に責任を持とうとしていた。
神戸で手にした「タイトル」と「成長」
ヴィッセル神戸は、「リーグ優勝とACL優勝を本気で目指す」と公言するクラブだった。
アンドレス・イニエスタ、ダビド・ビジャら世界的スターが集うなか、山口蛍は中盤の心臓として、そして時にキャプテンとしてチームを支え続けた。
2019年、リーグ全試合フル出場、インターセプト数リーグ最多。
天皇杯優勝でクラブ初タイトル獲得に貢献。
2020年にはFUJI XEROX SUPER CUPでPK戦9人連続失敗という異常事態のなか、自ら決めてタイトルを引き寄せる。
コロナ禍の過密日程でも公式戦全試合出場を果たし、ACLベスト4進出。
海外スターたちからの評価も高い。
「中盤の選手として必要なものを全て兼ね備えている」「様々な数値が100%の、かなり複合的に完璧な選手」(ダビド・ビジャ)
それでも彼は、華やかなイメージとは裏腹に、チームメイトを生かす「黒子」の役割に徹する。
「ボランチとしてピッチに立っている時は、隣でコンビを組む選手にどれだけプレーしやすい環境を作ってあげられるかを常に考えている」
2023年、悲願のJ1リーグ優勝。
イニエスタから引き継いだキャプテンマークを巻き、優勝が懸かった名古屋戦のピッチに立った。
その後の取材で、セレッソからの移籍についてこう語っている。
「セレッソは中学生の頃から育ててもらったクラブで、そこでトップにも上がって試合にも使ってもらって、日本代表にもなって…。そのチームから移籍するのって本当に、自分の中でも想像はしていなかったですし、ずっとそこにいるものだと思っていた。ただ、選手として、壁にぶつかるようなところもあった。その中で決断した移籍だった。神戸に毎年のようにすごい選手が入ってくるっていう中で一個人のプレーヤーとしてみても、僕自身のプレーの幅だったりとかいうものも伸ばすことができたと思う」
「残りの人生を捧げる」と誓ったクラブを離れたことも、「タイトルを取りたい」という欲求も、「プレーヤーとして成長したい」という衝動も、すべてが矛盾しているようで、実はどれも本音だったのだろう。
ひとつのクラブに忠誠を尽くすことだけが「正解」なのか。
それとも、環境を変えて自分を磨き続けることもまた、ひとつの「プロの在り方」なのか。
育成年代の選手たちは、山口蛍のキャリアから、その問いを自分ごととして考えてみる価値がある。
代表という重圧と、「もういいです」という言葉
U-21日本代表として広州アジア大会金メダル。
ロンドン五輪では全試合フル出場でベスト4。
A代表では東アジアカップ2013優勝&大会MVP、2014・2018年と2度のW杯出場。
ロシアW杯予選イラク戦で迎えた自身の誕生日、アディショナルタイムに決めた劇的な決勝ゴールは、いまも多くの人の記憶に残っている。
一方で、2018年ロシアW杯ベルギー戦のラストワンプレーでのカウンター失点は、彼に重い議論を背負わせることになった。
「ファウルしてでも止めるべきだった」という批判。
それに対して、チームメイトの酒井宏樹は「蛍のところでファウルするのは無理でした」と擁護したが、本人にとっては消えることのない「もしも」が残ったはずだ。
そんな彼が、2019年11月に代表復帰しながら、招集についてこう話している。
「僕も、もういいです。長谷部さんほどのキャリアがあったらポンッと入っても与えるものがあると思う。僕はそこまでじゃないし、海外でも長くやっていない。若い選手も出てきてるんで大丈夫です。個人的にはクラブでしっかりやりたいという思いが強い」
「もっと代表に関わりたい」と言ってもおかしくない立場で、「もういい」と言い切る。
そこには、自己評価のシビアさと、若い世代へのバトンを渡す覚悟、そして何より「自分はどこで一番チームに貢献できるのか」を冷静に見極める視点がある。
華やかな代表の舞台を追い求めることだけが、プロの幸せではないことを、山口蛍は身をもって示している。
究極の人見知りが、キャプテンを務めるということ
「究極の人見知り」。
自分をそう表現する選手が、J1優勝チームのキャプテンを務め、いまJ2長崎のキャプテンとしてチームの先頭に立っている。
初対面の人と話すのが苦手。
顔を見ることすらできないことがあると話す彼が、ピッチ上では誰よりも声を出し、誰よりも走り、誰よりもチームメイトのためにポジションを調整する。
キャプテンシーとは、言葉の多さや派手さではなく、「誰よりもチームのことを考え続けること」なのだと、彼のプレーが教えてくれる。
神戸での主将辞任、そして「長崎へ行く」という挑戦
2024年、山口蛍はヴィッセル神戸で背番号を「5」から「96」へ変えた。
理由は、愛犬「クロ」にちなんで「96(クロ)」。
J1優勝クラブのキャプテンでありながら、その数字に込めたのは、等身大の自分らしいユーモアと愛情だった。
しかしシーズン後半、怪我による離脱、復帰直後の再離脱。
その間に、井手口陽介の復調、新加入の鍬先祐弥の台頭もあり、出場機会は徐々に減っていく。
最終節後のファイナルセレモニーで、彼は主将辞任を表明した。
そして2025年。
V・ファーレン長崎への完全移籍。
「J1王者の主将」が選んだ次のクラブは、J2からJ1昇格を目指す地方クラブだった。
長崎での「号泣案件」──優勝を誓うキャプテンの声
11月23日、J2第37節。
首位・水戸ホーリーホックと2位・V・ファーレン長崎の直接対決。
勝てば自動昇格圏2位以内が近づく、大一番。
2-1で長崎が勝利し、勝ち点69で首位逆転。
ホーム最終戦のセレモニーで、山口蛍はマイクを握った。
「本当は今日昇格が決まると1番良かったと思うんですけど、水戸というライバルに今日しっかり勝って、最終節は徳島アウェーですけど、しっかり勝ってJ2優勝してJ1に行きましょう」
そして、スタジアムを埋めたサポーターに向かって、静かに、しかし力強く言葉を紡いだ。
「本当にこのサポーターの方々、このスタジアムで1年間プレーして、本当にこの長崎に来るという挑戦をして、すごく今は良かったなと思っています。最後、本当に優勝して、みんなで喜んで長崎に帰ってきましょう。ありがとうございました」
SNSには「号泣案件」「なんか泣ける」「感謝しかない」という声があふれた。
J1優勝を経験し、数々のタイトルを手にしてきた男が、J2のスタジアムで「ここに来て良かった」と言い切る。
その言葉の重みを、あなたはどう受け取るだろうか。
育成年代の選手、指導者、親御さんへの問いかけ
山口蛍のサッカー人生には、派手な成功よりも、むしろこんな場面が多く登場する。
- 片道2時間を電車で通い続けた中学時代
- プロ入り後、なかなか出場できなかった時間
- 半月板損傷とクラブのJ2降格
- ブンデスリーガ挑戦の末の短期撤退
- 「残りの人生を捧げる」と誓ったクラブからの移籍
- ベルギー戦のラストワンプレーへの批判
- キャプテンとして迎えた優勝と、その後の主将辞任
それでも、彼はそのたびに「以前の自分よりもパワーアップして戻る」と決め、次の一歩を踏み出してきた。
そしていま、J2長崎で「優勝してJ1に行きましょう」と、スタジアムを埋める人々に約束している。
夢は、最初に描いた形のまま叶うとは限らない。
むしろ、多くの場合は形を変えながら、何度も選び直すことを迫られる。
山口蛍のキャリアは、「最初に決めたことを守り抜く」強さだけでなく、「決めたことを変える勇気」もまた、プロには必要だということを教えてくれる。
育成年代の選手たちに問いかけたい。
いま、あなたが「ここだ」と決めている場所や、「こうなりたい」と思い描いている将来像が、もし変わったとしても、それは裏切りだろうか。
あるいは、その時々の自分と真剣に向き合った結果としての、新しい挑戦なのだろうか。
指導者や親御さんに問いかけたい。
子どもたちが進路を選び直そうとする時、私たちはその変化を「弱さ」と見るのか、「成長」と見るのか。
もし、山口蛍がセレッソから神戸へ、神戸から長崎へと移籍するたびに「ブレた」と切り捨てていたら、いま長崎のスタジアムで涙を流すサポーターとの風景は、きっと生まれていない。
どんな暗闇でも、明るい光を放ち続けられるように。
その願いを名前に込められた少年は、傷つきながら、悩みながら、それでも前を向き続けてきた。
J2・V・ファーレン長崎のキャプテンとして、優勝とJ1昇格を誓う34歳の姿は、結果以上に、その歩み自体が多くの人の心を照らしている。
あなたは、自分のサッカー人生のどの地点で、どんな「光」になろうとしているだろうか。





