登里享平というサイドバックが、いまも走り続ける理由
Jリーグで300試合以上に出場し、J1優勝4回、天皇杯2回、ルヴァンカップ1回。
それだけのタイトルを持ちながら、「まだもう1回、2回と大きく成長したい」と言い切る35歳がいる。
セレッソ大阪の左サイドバック、登里享平。
東大阪の街クラブでボールを追いかけ続けた少年は、なぜこれほど長く、そして濃く、サッカー人生を歩み続けられているのか。
2024年、プロ17年目。
地元セレッソ大阪へ完全移籍し、史上145人目となるJ1通算300試合出場を達成したシーズンは、決して順風満帆ではなかった。
左ハムストリングの肉離れ、そしてシーズン中には以前から抱えていた左膝外側半月板の損傷で手術を受ける決断もした。
それでも彼は、リハビリ室から前だけを見ている。
東大阪から「讃岐のジャックナイフ」へ
登里享平の物語は、大阪府東大阪市の小さなグラウンドから始まる。
クサカSS、そしてEXE ’90FCジュニア。
2人の兄の背中を追いかけ、小学生の頃からボールとともにある生活を送ってきた。
本人によれば、母親はこう話していたという。
「兄弟の中で、ボールを転がしたら手で掴まずに蹴り返してきたのは享平だけやった」
もちろん、半分は笑い話だろう。
だが、家でも外でもボールを追いかけていた少年が、そのままプロへの道を駆け上がっていったことを考えると、あながち誇張とも言い切れない。
小学校5年生でEXE ’90FCへ移籍。
「レベルの高い、厳しい環境に身を置きたかった」。
これが人生初の「移籍」だったと登里は笑う。
中学卒業後は香川西高校へ。
当時の彼には、高校サッカー選手権への強い憧れがあった。
当初は名門・帝京高校への進学を考え、セレクションにも合格していたが、特待ではなく一般での合格。
兄たちが大学に進んでいた家庭事情もあり、高校生なりに「親への負担」を考えた。
そんな中で出会ったのが香川西高校の環境だった。
「サッカーして、うどん食べて、サッカーして、またうどん」。
サッカーに集中できる環境。
元々あった「ちょっとサボり癖」を、自身でも笑い飛ばしながら、香川の地でボールに全てを注いだ。
1年生からレギュラーに定着し、選手権には3年連続出場。
3年時の第87回大会では、市立船橋高校を破るなどインパクトを残し、「讃岐のジャックナイフ」という異名で全国区の存在となる。
日本高校選抜に選出され、ドイツ・デュッセルドルフの国際ユース大会では4試合で3得点。
国士舘大学との練習試合で鮮烈なプレーを見せ、川崎フロンターレとの仮契約を勝ち取る。
後に同僚となる武岡優斗は、当時をこう振り返る。
「まさに『ジャックナイフ』という言葉通り。今とは全然違うプレースタイルやけど、あの日の登里は止められなかった」
川崎フロンターレで味わった「タイトルへの飢え」
2009年、川崎フロンターレに加入。
同年6月20日、大分トリニータ戦でプロデビューを果たし、ファーストタッチでシュートを放つほどのアグレッシブさを見せる。
10月25日のサンフレッチェ広島戦では、中村憲剛へのアシストでプロ初アシストを記録すると、その1分後には自らも初ゴール。
アタッカーとしての才能は誰の目にも明らかだった。
しかし、そんな華やかなスタートの裏で、彼は早くもクラブの「重さ」と向き合うことになる。
1年目に出場したヤマザキナビスコカップ決勝。
川崎は準優勝に終わり、ロッカールームには「また負けた」という空気が流れていた。
「こんなに本気でやって、それでも準優勝。
あの時、フロンターレがどれだけタイトルに飢えているクラブかを1年目ながらに感じました。
負けた後の雰囲気で、みんながどれだけいろんなものを背負ってるか、すごく伝わってきた」
若手としてピッチに立ちながら、クラブの歴史や重圧を同時に浴びる。
その経験は、後に「優勝を知る選手」としてセレッソ大阪へ移籍した時、若い選手たちに伝える“言葉”の下地となっていく。
「後ろは嫌」から始まったサイドバック人生
プロ3年目までは、右サイドハーフなど攻撃的なポジションを任されていた。
しかし転機は、風間八宏監督の就任だった。
ケガ人やコンディションの問題が重なった時期、風間監督は左サイドバックに登里を起用する。
それは、彼自身の言葉を借りれば「嫌でしかなかった」ポジションチェンジだった。
「後ろをやるのは…もう、嫌でしかなかったです(笑)」
攻撃的なドリブラーから、一歩後ろのサイドバックへ。
攻守にわたる判断と走力、ビルドアップの技術が求められる難しいポジションで、登里は時間をかけて自分の居場所を作っていく。
その過程は華やかではない。
ケガも重なった。
2015年は度重なる故障と膝のトラブルに苦しみ、リーグ戦出場はわずか1試合。
選手としての自分の価値すら見失いかける時間だったに違いない。
それでも2016年、背番号は2へ。
車屋紳太郎の控えに回るシーズンもあったが、トレーニングと出場した試合の積み重ねの中で、少しずつ「サイドバック・登里享平」が形をもっていく。
優勝を重ねる中でつかんだ「サッカーの面白さ」
2017年、12節の鹿島アントラーズ戦で約3年ぶりのリーグ戦ゴールを決め、クラブ初のJ1制覇に貢献。
2018年も連覇を果たし、2019年はルヴァンカップ初優勝。
そして2020年。
チームが4-3-3へシステム変更すると、左サイドバックのポジションを確固たるものに。
同年、川崎は圧倒的な強さでリーグ優勝と天皇杯制覇を成し遂げ、登里自身も初のJリーグベストイレブンに選出される。
阿部浩之、中村憲剛、家長昭博、小林悠。
独特なリズムと技術を持ったアタッカーたちと同じピッチに立ち、「相手を見て逆を取る」川崎のサッカーを体現する過程で、彼のプレーは大きく変わっていった。
「2019年くらいからプレースタイルが変わった。
阿部ちゃん、憲剛さん、アキくん、コバくんのリズムに合わせようと試行錯誤したのが大きかった。
自分の幅がかなり広がったと思う」
その変化を象徴するのが、中村憲剛の一言だ。
「やっと分かってきたな!」
ボソッと、しかし確かな重みを持って放たれた言葉。
「間違ってないんやなと思えた。
そこから、もっとサッカーの話をするようになったし、とにかくサッカーが面白くて仕方がなかった」
タイトルを獲るチームでプレーし続けること。
そこで求められるのは、派手なプレーだけではない。
90分間の安定、チームメイトの調子を把握し、“ノセてあげる”コミュニケーション。
やがて登里は、ピッチ内とピッチ外をつなぐ「潤滑油」としての役割を自然と担うようになる。
「サッカー選手は、サッカーだけしていればいいわけじゃない」
川崎で長年プレーした中村憲剛が繰り返し口にしてきた言葉。
「サッカー選手は、サッカーだけしていればいいわけじゃない」
登里もまた、その価値観を強く受け継いだ一人だ。
クラブのイベント、地域との交流、スクール生との触れ合い。
そこで彼は、ただの「Jリーガー」ではなく、「地域の人と笑い合う登里享平」として存在する。
川崎の公式チャンネルで配信された企画「子どもたちが最強スタメンを考えたら、登里がズタボロに」。
スクール生たちが考えた“最強スタメン”にサプライズで登場するはずが、左サイドバックには車屋紳太郎が選ばれ、気まずい空気が流れた。
自分が選ばれなかったことを、彼は笑い飛ばした。
むしろ、その場自体を楽しみ、場を和ませる役に回った。
選ばれなかった悔しさを飲み込み、それでも笑顔で子どもたちと接する。
プロとしてのプライドと、人としての柔らかさ。
こうした経験の積み重ねが、後の移籍決断にもつながっていく。
「安定」よりも選んだ「もう一度、大きく成長する道」
2023年、在籍15シーズンを経て、登里は川崎を離れることを決断する。
加入当初からの仲間たち、数々のタイトル、居心地の良い環境。
「このクラブでキャリアを終える」という選択肢は、間違いなく目の前にあった。
だが2024年1月6日、小中学生時代から応援していたクラブ、セレッソ大阪への完全移籍が発表される。
「残っていれば“安定”もあったし、自分の未来も“想像”できた。
でも、もう1回、2回と大きく成長したいと思った。
セレッソに自分の存在価値を示せれば、また違う成長や今後のキャリアにつながると考えて決断しました」
クラブから「リーグ優勝を目指している」と明確に伝えられたこと。
優勝経験を持つ自分を必要としてくれていること。
それらが、彼の背中を押した。
多くの選手が「安定」を選びがちな年齢で、あえてチャレンジを選ぶ。
これは育成年代の選手や、その親御さんにとっても、ひとつの強いメッセージではないだろうか。
「安全な道」と「成長に賭ける道」。
どちらを選ぶのか。
セレッソ大阪での「優勝を還元する」というミッション
セレッソ移籍1年目の2024シーズン。
開幕から左サイドバックのレギュラーとして出場し、4-3-3での“偽SB”としてビルドアップの軸を担った。
しかし5月、左ハムストリングの肉離れで離脱。
復帰までに約2か月半を要し、シーズン終盤には左膝外側半月板損傷の手術にも踏み切っている。
それでも、彼が口にする言葉に迷いはない。
「優勝したいっていう想いでここに来た。
優勝経験のある自分の立場を理解しているからこそ、自分を追い込みながら向き合っている。
昨季は10位。
『もっとやらないといけない』という気持ちが強い」
チームには浮き沈みがあり、90分を通した安定感や、試合ごとに内容が変わってしまう課題もある。
だからこそ、登里は意識的にコミュニケーションを増やしている。
「怪我をした時、外から見える印象と、中で感じる印象は全然違う。
だからこそ、意見のすり合わせやコミュニケーションをいろいろ考えながらやっている。
周りを“ノセてあげる”、そういう存在でいたい」
一方で、こうも語る。
「これまでの経験だけに頼らず、自分自身も変わっていかないといけない。
川崎のやり方とセレッソのやり方をどう合わせていくか。
大事なのは、一体感。
セレッソにはセレッソの良さがあるし、仲の良さやフランクさを、より良い方向に持っていければ優勝争いにつなげられる」
「優勝を知る選手」が「まだ優勝を知らないクラブ」で挑む戦い。
そこには、自身の経験を押しつけるのではなく、「クラブの色」を尊重しながら共に新しいスタイルを作ろうとする姿勢が見て取れる。
スタイルに「正解」はない。ただ、明確であることが大事
関塚隆、風間八宏、鬼木達。
常にゴールを目指すサッカーの中で育ってきた登里にとって、セレッソ大阪が掲げるアタッキング・フットボールは、ある意味で「性に合っている」と言える。
「相手を見ながらサッカーをするのは、積み重ねがあるからこそできること。
今のセレッソも改めてアタッキングフットボールに挑戦していて、やっていて楽しい。
結局、攻撃的に行くサッカーが僕も好きなんですよね」
一方で、「どんなスタイルでもいい」とも語る。
「クラブが目指すスタイルは、どんなものでもいい。
大事なのは、明確なスタイルがあること。
それがあれば選手は迷わずプレーできるし、個々の良さも出てくる。
だから、自分がやってきたサッカーに捉われずにアップデートしていきたい」
育成年代の選手や指導者にとって、この言葉はどう響くだろうか。
「ポゼッションか、カウンターか」「守備的か、攻撃的か」。
戦術の表層を議論する前に、「自分たちはどんなサッカーをしたいのか」を明確にしているだろうか。
スタイルの正解はひとつではない。
しかし、スタイルがあいまいなチームに、選手が進むべき道を見出すことは難しい。
登里の言葉は、そのことを柔らかく、しかし鋭く突きつけている。
「ボロボロになるまでやりたい」35歳の現在地
2024シーズン、左膝の手術を受けた登里は、いまも完全復活に向けてリハビリを続けている。
セルソースのPFC-FD療法なども取り入れながら、膝の状態と向き合う日々だ。
決して若くはない。
周囲では同世代の選手たちが次々に引退を決断している。
それでも、彼の中にははっきりとした熱がある。
「年齢の近い選手の引退が増えて、『自分もそういう年齢か』と思う反面、まだまだやれる感覚がある。
身体の調子も良いし、『ボロボロになるまでやりたい』と思っている。
セレッソを優勝させないと、自分が来た意味がない。
ピッチ外でもできることはあるけど、サッカー選手はピッチに立ってなんぼ。
とにかく優勝したい。
自分が加入して良かったと思ってもらえるような活躍をしたい」
J1で299試合、Jリーグ通算300試合を超える出場。
9得点、数々のアシスト、4度のリーグ優勝とタイトルの山。
それでも彼は、「まだ自分のサッカー人生は途上にある」と感じている。
問いかけられているのは、僕たち自身かもしれない
登里享平のキャリアを振り返ると、ひとつのキーワードが浮かび上がる。
それは「選択」だ。
- 小学生で、より厳しいEXE ’90FCへの移籍を選んだこと。
- 香川西高校を選び、サッカーに集中する道を選んだこと。
- アタッカーからサイドバックという「嫌な」ポジションチェンジを受け入れたこと。
- 川崎でくすぶった時期に、移籍ではなく「ここでやり切る」と腹を括ったこと。
- そして、全てが整った川崎を離れ、地元セレッソで再び成長を求めたこと。
そのどれもが、「楽な方」ではない。
だが、そのひとつひとつが、17年目を迎えた今の登里享平を形づくっている。
育成年代でプレーする選手たちにとって、「選択」はこれからいくらでも訪れる。
部活かクラブチームか。
進学か、プロか。
レギュラーを争うか、出場機会を求めて移籍するか。
指導者にとっても同じだ。
勝利を追求するのか、育成を優先するのか。
どんなスタイルをチームとして掲げるのか。
そのとき、自分は何を大事にして決めるのか。
「安定」か、「成長」か。
登里享平という一人のサイドバックの人生は、静かに、しかし確かに、僕たちに問いを投げかけている。
サッカー選手は、サッカーだけしていればいいわけじゃない。
だが同時に、ピッチに立たなければ何も始まらない。
左膝の傷痕をさすりながら、それでも前を向いて笑う35歳の姿を見ていると、プロかアマチュアかに関係なく、「自分はどこまで本気でサッカーと向き合えているだろうか」と、静かに自分自身を振り返らずにはいられない。






