初瀬亮というサイドバックの「選択」の物語
「自分の選択に保険をかけるような男になるな」。
幼い頃から父にそう言われ続けてきた少年は、岸和田のだんじり祭とサッカーのどちらかを選ばなければならない岐路に立たされた時、迷いながらもサッカーを選んだ。
その少年こそ、ガンバ大阪のアカデミーからプロの世界へと飛び出し、ヴィッセル神戸でJ1連覇を経験し、イングランドにも渡り、そして2025年に再びガンバに戻ってきたサイドバック、初瀬亮である。
だんじりか、ガンバか。中学生で迫られた人生最初の決断
大阪府岸和田市出身。岸和田といえば、言わずと知れた「だんじり祭」の街である。
地元の人間にとって、だんじりは単なる年中行事ではない。初瀬はこんなふうに語っている。
「岸和田生まれの人間にとって『だんじり祭り』は人生をかけて参加すると言ってもいいほど、大事な行事。(中略)だから、親父には両方が中途半端になるのはよくないと、『ガンバに行くなら、祭りはナシでいいな』と念を押されました」
サッカーか、だんじりか。
父は、息子に「保険をかける」ことを許さなかった。
Jクラブのアカデミーを目指す時も同じだった。
「行きたいチームをひとつ選べ。そこがダメだったら、Jクラブはあきらめて地元のクラブチームでプレーしろ」
選んだのは、ガンバ大阪ジュニアユースだけ。
もし落ちれば、Jクラブの道は閉ざされる。それでもなお、自分で選び、覚悟を決めることを求められた。
このときの感覚を、育成年代の選手や保護者の方はどう受け取るだろうか。
「安全策」をいくつも用意しておく方が、合理的に見える時代である。
だが、一つに絞ったからこそ生まれる集中力、覚悟、そして「受かった時の重み」が、初瀬の心と身体を鍛えていく。
ガンバ大阪ジュニアユースへの合格。
片道2時間をかけて岸和田から通い続けた少年は、「祭り」を手放し、サッカーにすべてを注ぐ人生を選び取った。
ずっとBチーム。それでも腐らなかった理由
ガンバ大阪ジュニアユースに入ったからといって、順風満帆なわけではなかった。
むしろ、スタートは「下」からだった。
同期の市丸瑞希(FC SONHO川西)、髙木彰人(SC相模原)は、1年目からAチームに抜擢されていく。
一方で初瀬は、ずっとBチーム。
試合では、Aチームのボールボーイをしながら、同期が輝く姿を目の前で見ることになる。
「さすがに心が折れそうになったこともあります」
それでも途中でやめなかったのは、父との約束と、Bチームの西村崇コーチの言葉が、彼を踏みとどまらせたからだ。
「ホンマに死に物狂いで頑張ったヤツにしかチャンスは来ない。試合に出ているヤツら以上に量をやらないと質は語れないぞ」
「腐ったらそこで終わりや」
育成年代の現場では、「モチベーション管理」という言葉がよく使われる。
だが、選手本人にとっては、もっと生々しい葛藤だろう。
- 同期が先にAチームへ
- 自分はボールボーイ
- 試合に出られない週末
この現実の中で、「それでも続ける」と腹をくくるかどうか。
初瀬は、続ける方を選んだ。
ジュニアユースでは中学2年の終わり、高校では2年になる前の春休みの練習試合。
ようやく掴んだチャンスで結果を残し、Bチームの選手から、レギュラーへと自らの立場を引き上げていった。
ガンバ大阪ユース時代には、高円宮杯プレミアリーグ制覇にも貢献。
2015年には第2種トップ可登録選手としてトップチームに帯同し、天皇杯の準決勝・決勝でベンチ入り。
下積みの長かった少年は、ようやく「プロ」という扉の前まで辿り着く。
ガンバ大阪でのプロデビュー。そして訪れた壁
2016年、ガンバ大阪トップ昇格。
同期には堂安律、市丸瑞希、高木彰人と、注目度の高い才能が揃った世代だ。
市立吹田サッカースタジアムのこけら落としマッチ「Panasonic Cup」名古屋グランパス戦で、昇格1年目にして右サイドバックで先発に抜擢される。
3月6日、J1第2節ヴァンフォーレ甲府戦でリーグ戦初出場。
しかも、長沢駿の決勝ゴールをアシストしてみせる。
U-19日本代表にも選出され、AFC U-19選手権の準決勝ベトナム戦では左サイドバックとして先発し、セットプレーのキッカーとして2得点に絡む活躍。
ジュニアユース時代にBチームだった少年は、気づけば世代別代表の左サイドバックとしてピッチに立っていた。
だが、プロの世界は甘くない。
2016年はJ1出場5試合と限定的で、U-23での出場が中心だった。
2017年には、天皇杯でプロ初ゴール、公式戦4試合連続アシストなど、攻撃面のインパクトを示す場面も多くなっていくが、2018年、監督交代の影響もあり出場機会は激減する。
「このまま居心地のいいガンバにいたらなんとなく時間が過ぎていきそうな気がして」
アカデミーから育ってきたクラブ。
慣れ親しんだ環境を離れることの重みは、外から想像する以上に大きいだろう。
それでも、初瀬はまた「保険をかけない選択」をする。
2019年、ガンバ大阪を離れ、ヴィッセル神戸への完全移籍に踏み切った。
ヴィッセル神戸での迷いと覚醒。中村俊輔の言葉と「腐らない」覚悟
ヴィッセル神戸でのスタートは、決して悪くなかった。
2019年の開幕から左サイドバックでスタメン出場。
アメリカ遠征でのロサンゼルスFC戦では、FKを直接決めて移籍後初ゴール。
だが、守備面での脆さを露呈すると、左サイドで縦関係を組むルーカス・ポドルスキに厳しく叱責されるシーンもあった。
夏には元日本代表DF酒井高徳が加入。ポジションを失い、同年9月にはJ2アビスパ福岡への育成型期限付き移籍を選ぶ。
「出場機会を得るために移籍する」ことは、多くの選手が経験する現実だ。
ただ、その一方で、2020年以降の神戸でも出場機会は増えたり減ったりを繰り返す。
- 2021年:J1リーグ33試合出場
- 2022年:出場機会減少
このタイミングで頭をよぎったのが、かつて動画で見た中村俊輔の言葉だった。
「若い時に、試合に出られないからといって、簡単に移籍をするな」
移籍を続けることは、本当に自分を成長させるのか。
環境を変える前に、今いる場所でやり切ったと言えるのか。
初瀬は、「ここで動くのは、自分にとっての“逃げ”だ」と感じ、オフを返上してトレーニングに没頭する道を選んだ。
「いいと言われたものは『全部やってやる』と死に物狂いで取り組んだ。まさに『腐ったら終わる』という一心でした」
低酸素環境トレーニング(ハイアルチ)など、身体のベースを作り直し、フィジカルと走力を磨き上げた結果、2023年シーズン、ついに左サイドバックのレギュラーを確保。
J1リーグ33試合出場1得点8アシスト。
ヴィッセル神戸悲願のJ1初優勝に、間違いなく主力として関わる存在となった。
2024年も継続的にピッチに立ち、クラブはJ1連覇、さらに天皇杯も制して国内タイトルを手にする。
数年前、「出場機会がない」ことで悩んでいたサイドバックが、日本を代表する強豪クラブの左サイドを任されるまでになった。
そして、このタイミングで、10代の頃から漠然と抱いていた夢が、現実味を帯びてくる。
28歳でのイングランド挑戦。「保険をかけない」海外移籍
2025年、プロ10年目のシーズン。
イングランド2部・EFLチャンピオンシップのシェフィールド・ウェンズデイFCへの完全移籍が発表される。
ヴィッセル神戸からは契約延長のオファーも届いていた。
日本での居場所も、評価も、手にしていた。
それでも、彼は海外移籍を選んだ。
「どこでもいいから海外に飛び出してプレーできればいい、という年齢でもない。なので、代理人とも最初からある程度、リーグを絞って可能性を探っていこうと話していました」
28歳。
若手とは言えない年齢で、日本代表の実績もないサイドバックが、プレミアリーグやブンデスリーガに近いステージを本気で目指す。
リスクは大きい。
しかも、イングランドに渡った1月半ばの時点で、どのクラブとも契約は成立していなかった。
「クラブGMには『興味はあるけど、練習を見て決めたい』と言われていたし、正直に、僕以外にも他国の選手にも興味を持っていると伝えられていました」
ヴィッセルからの契約延長を蹴り、所属先が決まっていない状態で海外へ。
万が一、契約がまとまらなければ、無所属になる可能性さえあった。
それでも、初瀬は「チャレンジしない方が自分らしくない」と考えた。
「ここで尻込みして後悔するくらいなら、チャレンジして後悔するほうがよほど自分のためになると考えました」
最終的にシェフィールド・ウェンズデイと契約に至ったものの、成立までには時間がかかった。
その間の不安やプレッシャーは、本人にしか分からない。
正式サインを終えたあと、初めて現地入りした日に訪れたパブで、チキンカレーを食べながら、涙が止まらなかったと話している。
「『よかったー!』って気持ちと、『やっとサッカーができる!』って思って、めっちゃ泣いていました」
結果として、2024-25シーズンの出場はリーグ戦6試合にとどまり、2025年5月には契約満了で退団となった。
数字だけを見れば、「成功」とは言い難い挑戦かもしれない。
だが、読者である指導者や育成年代の選手、保護者に問いたいのは、「結果」だけなのだろうか、ということである。
自らの意思でリスクを取り、海外に飛び込み、プレーし、そしてまた帰ってくる。
「行かなかった未来」と、「行ってうまくいかなかった未来」。
どちらを自分の人生として選ぶか。
初瀬は、後者を選んだ。
ガンバ大阪への帰還と、膝の大怪我
2025年8月13日。
シェフィールド・ウェンズデイ退団から3カ月後、彼はプロキャリアをスタートさせたクラブ、ガンバ大阪に完全移籍で復帰する。
約7年ぶりの古巣。
8月23日の横浜FC戦でスタメン出場を果たし、新たなチャレンジが始まったかに見えた。
ところが11月5日、アジア・チャンピオンズリーグ2(ACL2)グループステージ第4節、ナムディンFC戦。
相手との接触もない場面で左足を気にし、そのままピッチに座り込む。
診断は、左膝内側側副靭帯損傷。
クラブは加療期間を公表していないが、サポーターからは「今シーズンは駄目か…」「想像以上の大怪我」といった声がSNS上に溢れた。
帰ってきたばかりのクラブで、ACLのピッチで。
そのシーンに、初瀬自身は何を思ったのだろうか。
再びリハビリの日々に向き合うことになった28歳のサイドバックは、これまで何度も繰り返してきた「腐らない」という選択を、またも強いられている。
両足のキック、左サイドバックというポジション。そして、これからプレーする者への問いかけ
初瀬亮のキャリアを語る時、技術面で欠かせないキーワードが「両足のキック」だ。
もともとは右利き。
しかし、小学生の頃に憧れたのは、左足の魔術師・中村俊輔だった。
「小学生の頃、中村俊輔選手に憧れて左足ばかり練習していた」
その結果、今では左右両足を使いこなし、コーナーキックやセットプレーでは主に左足でボールを蹴る。
左サイドバックとしての高精度なクロスやFKは、ヴィッセル神戸時代の8アシスト(2023年)にもつながっている。
育成年代の選手にとって、このエピソードは何を意味するだろうか。
- 利き足以外の足を「本気で」鍛えること
- 憧れの選手を、自分の技術テーマに落とし込むこと
- ポジションを絞りつつも、両サイドでプレーできる武器を持つこと
ポジションは本職の左サイドバックでありつつ、右サイドバックもこなせる。
現代サッカーにおいて、サイドバックは単なる「守備的なサイドの選手」ではない。
ビルドアップ、クロス、インサイドハーフ的な振る舞い、時にセットプレーのキッカー。
そこに必要なのは、技術、運動量、戦術理解、そしてメンタルだ。
初瀬のキャリアには、その全てを高いレベルで求められ、何度も壁にぶつかりながら乗り越えようとしてきた軌跡が刻まれている。
「逃げ」と「挑戦」の境界線を、どう引くのか
ガンバ大阪アカデミーからの昇格。
ガンバを離れてヴィッセル神戸へ移籍。
アビスパ福岡への期限付き移籍。
イングランドへの挑戦。
そして、古巣ガンバ大阪への復帰。
そのどれもが、「選択」の連続だった。
では、どこからが「逃げ」で、どこからが「挑戦」なのか。
中村俊輔の言葉を胸に「ここで移籍したら逃げだ」と踏みとどまったこともあれば、「ここで海外に行かない方が逃げだ」と海を渡ったこともある。
大切なのは、
- 「なぜ、今この選択をするのか」を自分に問い続けること
- その答えに、保険をかけないこと
- 選んだあとに、腐らずやり切る覚悟を持つこと
なのかもしれない。
指導者であれば、選手にどんな言葉をかけるだろうか。
保護者であれば、どこまで「選ばせ」、どこから「支える」のか。
選手本人であれば、「出場機会がない」「ライバルが来た」というときに、環境を変えるのか、そこで踏ん張るのか。
初瀬亮のサッカー人生は、日本の育成、Jリーグ、そして海外挑戦をめぐる一つのリアルなケーススタディにもなっている。
怪我の先に、どんな「左サイドバック像」を描くのか
左膝内側側副靭帯損傷という大怪我を負った2025年11月。
28歳という年齢を考えれば、「ベテラン」というにはまだ早い。
リハビリを経て再びピッチに立つまでの時間を、彼はどう使うのか。
プロ10年目を越え、J1優勝や海外移籍を経験し、再び「故郷」とも言えるガンバ大阪でプレーするタイミングでの負傷。
サイドバックとして、選手として、人として。
どんな姿で戻ってくるのかを、育成年代の選手たちも、指導者も、保護者も、一つの「物語」として見届けることができるだろう。
ジュニアユースでBチームから這い上がったように。
神戸で出場機会を失いながら、死に物狂いでフィジカルを鍛え直したように。
イングランドで出場数6試合に終わりながら、その決断を後悔ではなく「チャレンジ」として語るように。
いま彼は、また新しい「選択」の前に立っている。
その選択の仕方、向き合い方こそが、次の世代のサイドバックたち、日本サッカーを目指す子どもたちにとって、大きなヒントになるのかもしれない。






