鈴木冬一という“決断するフットボーラー”――横浜F・マリノスへたどり着くまでのサッカー人生
2000年5月30日、大阪府東大阪市生まれ。
少年時代からセレッソ大阪のピンク色のユニフォームを着てプレーしてきた少年は、2025年、横浜F・マリノスのトリコロールをまとってJ1のピッチに立とうとしている。
その歩みは「エリートコース」と呼ぶこともできる。
だが、その実態はむしろ、「敷かれたレールから降りる勇気」を、誰よりも早く身につけた選手の物語だった。
セレッソ大阪で育った“順風満帆な10代”の裏側
鈴木冬一のサッカー人生は、セレッソ大阪そのものと言っていいほど、クラブとともにあった。
U-12、U-15、U-18。
ジュニアから育成年代のトップレベルで揉まれ続け、2015年には高円宮杯全日本U-15サッカー選手権で優勝。
日本クラブユースサッカー選手権(U-15)では大会優秀選手にも選ばれ、「将来のセレッソの左サイド」として大きな期待を集めた。
2017年、高校2年生にして2種登録選手としてトップチームに名を連ねる。
J3のセレッソ大阪U-23で公式戦出場も果たし、9月24日、福島ユナイテッドFC戦でJリーグデビュー。
普通なら、「夢への階段を最短距離で駆け上がる10代」と称されるだろう。
代表歴も華やかだ。
U-15から一貫して年代別代表に招集され、AFC U-16選手権、そして2017年のFIFA U-17ワールドカップでは全4試合に出場。
久保建英、中村敬斗らとともに世界と対峙し、日本をベスト16へ導く存在だった。
だが、その華やかな経歴の裏で、本人の胸中には別の感情が渦巻いていた。
「正直、代表で同じチームメイトや、イングランドなど世界トップの選手の力を見て、自分が技術的にも精神的にも遅れていると感じた」
U-17ワールドカップで、世界の同世代と自分を冷静に比較してしまったとき。
彼の中に浮かんだ言葉は、「成長」でも「充実」でもなく、「停滞」だった。
「世界を経験して、2種登録もして、J3の試合にも出ている。
でも“このまま行ったら、僕はこうなるんだろうな……”と。
プロになることそのものは、彼にとって「目標」ではなかった。
その先に、どれだけ成長できるか。
どこまで自分を高められるか。
そこまでをセットで考える選手だったからこそ、セレッソでプロになるまでの“レール”が見えた瞬間に、その先の「視界のぼやけ」が気になってしまった。
憧れのクラブ。
最高の育成環境。
かけがえのない仲間。
「セレッソは素晴らしい環境で、8年間の経験は自分の土台すべてを作ってくれた。
でも、このままで良いとは思えなかった」
多くの育成年代の選手にとって、“残る”という選択は安心をもたらす。
しかし鈴木冬一は、高2・高3という年代で、「環境に甘えてしまう自分」を一番怖がった。
長崎総合科学大学附属高校への“電撃移籍”という決断
2018年。
セレッソ大阪U-18の10代の有望株が、突如として高校サッカーの世界へ飛び込む。
行き先は長崎総合科学大学附属高校。
そこには、名将・小嶺忠敏がいた。
「選んだ理由は小嶺先生がいたから。
小嶺先生の下でなら、自分が求める厳しい環境でサッカーに打ち込めるし、人間性も磨けると思った」
人工芝から土のグラウンドへ。
ナイター設備も決して恵まれているとは言えない環境へ。
Jクラブの2種登録から、地方の高校チームへ。
その決断には、当然「賛否両論」がつきまとった。
しかし、彼はそこで逃げなかった。
長崎に着いて最初にやったのは、“肩書き”を捨ててチームに飛び込むことだった。
「長崎に行った当初は、いろんな人に自分から話しかけに行きました。
明るいキャラを活かして、どれだけ自分から入り込んで、みんなに認めてもらえるか。
練習から貪欲に取り組む姿勢を見せることで、より認めてもらえると思いました」
U-17日本代表。
セレッソ大阪U-18。
その肩書きは何の役にも立たない。
必要なのは、目の前の仲間の信頼を、自分の行動で勝ち取ることだった。
名将・小嶺監督も、その姿勢を高く評価する。
「冬一はすぐにみんなの手本になってくれた。
トレーニングも私生活も、すべて自分から率先して行動をする。
技術的にも優れた選手が、一切手を抜かずに努力する。
“良い選手とはこういう姿勢なんだ”と思わせてくれた」
小嶺監督は全幅の信頼を置き、ゲームキャプテンを託した。
同時に、ポジションも大きく変えていく。
「自分は“どこでもできます”と言っていたんですけど、“お前が得点源になれ”と言われて前線で使ってもらった。
攻撃が好きだったので、前で自由にプレーできてよかった」
セレッソ時代の「万能型」のイメージから一転。
長崎では、ストライカーとしてゴールに貪欲に向かう役割を与えられた。
ボランチも、サイドバックも、トップ下も、サイドハーフもやってきた。
しかし、長崎ではそれらすべてを「一人で背負う」ような感覚だったという。
「ボランチ、サイドバック、FWの役目もやらないといけない。
いろんなポジションを“その都度”やるんじゃなくて、全部ひっくるめてプレーする感じ。
それをやり続けられたことで、殻を破れた気がします」
土のグラウンド。
やわらかくないピッチ。
それでも、鈴木冬一は「サッカーの楽しさ」を、もう一度純粋に取り戻していく。
「僕が何をしたらチームが勝てるか。
もっとチームのためにやるべきことがあるか。
それを最優先で考えるようになりました。
自由だからこそ、逆に自覚とチームへの犠牲心が生まれた。
本当に毎日が楽しかった」
育成年代の読者にとって、ここには一つ、大きなヒントがあるのかもしれない。
「良い環境だから成長する」のではない。
「どんな環境でも、何を考えてプレーするか」で成長は決まる。
最後の選手権、涙のロッカールーム、そして湘南ベルマーレへ
長崎総合科学大附属での1年は、決して結果だけを見れば華々しいものではなかった。
インターハイ予選は初戦敗退。
プリンスリーグ九州でも7位。
それでも、日々の積み重ねが評価され、2019年からの湘南ベルマーレ加入が内定する。
そして迎えた高校最後の全国高校サッカー選手権。
3年連続出場を決め、大舞台に立った彼のもとには、かつての仲間たちが駆けつける。
瀬古歩夢、菅原由勢、宮代大聖、久保建英。
U-17日本代表の戦友たちが、NACK5スタジアムのスタンドから声援を送った。
「本当に嬉しかった。
応援に来てくれたのは、これまで自分が築いてきた信頼関係があったからこそ。
“本当に良い仲間を持ったな”と思いました」
2回戦の浜松開誠館戦では決勝点の起点となり勝利。
そして3回戦、帝京長岡高校との一戦。
CB大切達矢のクリアボールに誰よりも早く反応し、ドリブルで前進。
1対1のフィジカルコンタクトを制して、左足一閃。
ネットを揺らしたボールとともに、彼は応援席の前に駆け出す。
胸のエンブレムにそっとキスをして見せたそのガッツポーズには、「受け入れてくれた長崎への感謝」と「この1年の決断への誇り」が詰まっていた。
しかし、試合はそこから逆転を許して1-2で敗戦。
高校サッカー最後の瞬間は、勝利では幕を閉じなかった。
それでも、試合直後の彼はキャプテンとして涙を見せず、堂々とふるまう。
だが、ロッカールームで小嶺監督と目が合った瞬間、感情があふれ出た。
「グラウンドでは平気だったんですけど、ロッカーに戻って先生と顔を合わせた瞬間、涙が止まらなくなって。
その涙は、敗戦の悔しさだけではない。
「自分の人生を変える」決断を支えてくれた恩師への感謝が、何よりも大きかった。
「小嶺先生には一番感謝しないといけない。
メンタル、フィジカル、人間力。
まだまだですけど、確実に成長できた。
“ここに来て良かった”“あの時の自分は良い決断をした”と胸を張って言えます。
この経験を無駄にしないためにも、次のプロというステップで力を発揮しないといけない」
高校3年生のときに、「人生を変える決断」を経験したこと。
それは、その後のキャリアに大きく影を落とすのではなく、むしろ彼を強くしていく。
「プロになっても、この先移籍はあるもの。
賛否両論ある決断を下すことは、これからもある。
でもこの経験があるから、何事にも屈しないで、決断し続けたい」
自分の足で選択し、自分の責任で歩く。
鈴木冬一のサッカー人生は、この1年間によって決定的に形作られたと言っていい。
湘南ベルマーレでの飛躍、そしてヨーロッパ挑戦
2019年、湘南ベルマーレに加入した鈴木は、その万能性と強度を武器に一気にJ1のピッチへと飛び込んでいく。
3月9日、鹿島アントラーズ戦でJ1デビュー。
5月にはルヴァンカップ・V・ファーレン長崎戦でプロ初ゴール。
2020年のJ1開幕、浦和レッズ戦ではスタメン出場し、2アシストという鮮烈なパフォーマンスで存在感を示した。
サイドバック、ウイングバック、サイドハーフ、インサイドハーフ。
彼の武器である「どこでも高いレベルでこなせるマルチ性」は、湘南のハイインテンシティなフットボールと噛み合った。
そして2020年12月。
次の大きな決断を下す。
スイス1部・FCローザンヌ・スポルトへの完全移籍。
ヨーロッパの舞台は、日本とは違うフィジカル、違うテンポ、違う文化が渦巻く世界だ。
2021年1月、FCシオン戦でスイスデビュー。
3月にはザンクト・ガレン戦で移籍後初ゴールも記録。
ローザンヌではスーパーリーグとチャレンジリーグをまたぎながら、4シーズンで通算90試合以上に出場し、複数ポジションで経験値を積み重ねていく。
国内リーグ、カップ戦を含めると、プロ通算で150試合近く出場するまでになった。
「一度大きな決断を下した者は強い」。
高校時代の言葉は、その後の移籍にもそのまま当てはまる。
日本からスイスへ。
知らない言語、知らない文化の中で、「新しいチームにどう溶け込むか」を、彼はすでに長崎で学んでいた。
その経験は、彼を“海外組”として特別な存在にしたのではなく、「どんな環境でも自分のやるべきことから逃げない選手」にした。
京都サンガF.C.での帰還、そして横浜F・マリノスへの挑戦
2023年末、鈴木冬一は4年近く過ごしたスイスを離れ、日本の地に戻る。
2023年12月28日、京都サンガF.C.への完全移籍が発表される。
京都では、2024シーズンにJ1で15試合に出場。
サイドバック、ウイングバックを中心にチームの残留争いの中で走り続けた。
帰国直後のシーズンで、ヨーロッパで培った対人の強さと運動量をJ1のピッチで再び証明してみせる。
そして2024年12月27日。
名門・横浜F・マリノスへの完全移籍が発表される。
アタッキングフットボールを標榜し、国内屈指のサイドアタックを誇るクラブが、鈴木冬一というマルチなレフティに白羽の矢を立てた。
2025シーズン、背番号25。
東大阪から世界へ、そして再びJ1の頂点を目指すクラブへ。
この新たな環境で、彼はどのポジションで、どんな表情でプレーするのだろうか。
左サイドバックか、ウイングか、あるいはインサイドハーフか。
その柔軟性と献身性は、マリノスの攻撃的なスタイルと相性が良いはずだ。
「レールから降りる勇気」は、育成年代に何を問いかけているか
ここまで鈴木冬一の経歴を振り返ると、その節目ごとに「決断」というキーワードが浮かぶ。
- セレッソ大阪のジュニアからの8年間を離れ、長崎総合科学大附属高校へ移った決断
- 高校サッカーで土のグラウンドを選び、自分の役割を広げた決断
- J1で出場機会をつかみながらも、スイスへ飛び出した決断
- ヨーロッパで戦い続けた後、日本へ戻り、京都、そして横浜F・マリノスを選んだ決断
今、Jリーグや海外を目指す育成年代の選手たちは、しばしば「正解のルート」を探そうとする。
Jクラブユースに残るべきか、高校サッカーに行くべきか。
海外挑戦は早い方がいいのか、日本で試合に出ることを優先すべきなのか。
鈴木冬一のサッカー人生は、その問いに対して、静かにこう語りかけているように思える。
「正解は“ルート”じゃなくて、“その環境でどれだけ本気でやれるか”なんじゃないか」
セレッソ大阪は最高の環境だった。
それでも、彼はそこに甘えてしまう自分を恐れた。
長崎総合科学大附属は土のグラウンドだった。
それでも、彼は毎日が「楽しい」と言い切った。
スイスでは、言葉が通じない中で、試合に出られない時期もあったはずだ。
それでも、彼はそこでプレーし続け、プロ通算150試合近くの経験を積んだ。
指導者や親御さんにとっても、この物語は一つの問いを投げかけている。
- 「安全そうに見えるレール」に乗せるだけで、本当にその選手は伸びるのか
- あえて“違う景色”を見せることが、その選手の殻を破るきっかけになるのではないか
- 結果だけでなく、選手本人が「自ら決めた」と言える環境をどれだけ用意できているか
鈴木冬一は、高3という早さで「自分の人生を自分で決める」経験をしている。
だからこそ、その後スイス行きも、日本への帰還も、賛否両論を前提にしたうえで、自分の責任で選び取ってきた。
プロの世界では、契約、移籍、ポジション争い、戦術変更など、常に「決断」と「適応」が求められる。
その時に問われるのは、「どのクラブで育ったか」よりも、「どれだけ決断してきたか」「その度に何を学んできたか」なのかもしれない。
横浜F・マリノスで迎える、新たな“決断のステージ”
2025年、J1優勝争いをするビッグクラブ・横浜F・マリノス。
そこに飛び込むということは、再び熾烈な競争の真ん中に身を置くということだ。
ポジション争い。
タイトルを争うプレッシャー。
ACLや国内三冠を狙うスケジュールの中で、コンディションを保ち、結果を出し続けること。
セレッソ大阪で育った基礎。
長崎総合科学大附属で鍛えた人間力とハードワーク。
湘南ベルマーレで身につけたJ1の強度。
スイス・ローザンヌで培った国際基準の感覚。
京都サンガで再確認した「J1で戦い続けることの重み」。
そのすべてが、今、トリコロールの左サイドに集約されようとしている。
両サイド、両ウイング、中央、サイドバック。
どこでもプレーできることは、ときに「器用貧乏」と言われることもある。
だが、彼の場合は違う。
どのポジションでも「チームのために何ができるか」を最優先に考え、走り続けてきた選手だ。
育成年代の選手たちは、いつかきっと、テレビやスタジアムで「横浜F・マリノスの25番」がサイドを駆け上がる姿を見るだろう。
その時、単に「足の速いサイドバック」や「器用なレフティ」としてではなく、「何度もレールを外れる決断をしてきた選手」として、その走り方を見てほしい。
自分のキャリアを、自分で選び続けること。
その覚悟を持った選手が、日本サッカーにどんな風景を見せてくれるのか。
鈴木冬一というフットボーラーの物語は、まだ25歳の地点にすぎない。
この先の決断も、その先の景色も、彼自身の足で切り拓いていくことになる。
その歩みに、自分自身のサッカー人生を重ね合わせながら、静かに見届けていきたいところだ。






