ユースに上がれなかったGKが日本代表の守護神になるまで──早川友基が示した日本サッカー育成のもう一つの道

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早川友基という物語――「ユースに上がれなかったGK」が日本代表になるまで

Jリーグを夢見る選手や、育成年代を預かる指導者なら、一度は耳にしたことがある名前かもしれない。

鹿島アントラーズの守護神、日本代表ゴールキーパー。

早川友基。

2025年、EAFF E-1サッカー選手権でA代表デビューを果たし、日本代表としてピッチに立った26歳のGKは、もともと「エリート街道まっしぐら」だったわけではない。

そのサッカー人生は、ユース昇格の挫折からはじまり、大学サッカーでの再起、そして鹿島アントラーズでの熾烈なポジション争いを経て、ようやくつかんだ現在地だった。

横浜F・マリノス育成組織から、「ユース不昇格」という現実

神奈川県相模原市出身の早川友基は、少年時代から名門・横浜F・マリノスのプライマリー、そしてジュニアユースで育ってきた。

Jクラブ育成組織。

そこにいるというだけで、多くの子どもたちにとっては「選ばれた側」の象徴でもある。

だが、そこで終わらないのが現実だ。
ユースに上がれる枠は限られている。

早川は、その狭き門をくぐることができなかった。

「マリノスのユースに上がれなかった」

この一行でまとめてしまうには、あまりに重い現実だろう。

多くの選手にとって、それは「自分はプロにはなれないのかもしれない」と突きつけられる瞬間でもある。

そこでサッカーから離れていく選手もいる。
カテゴリーを落として続ける選手もいる。

早川が選んだ道は、桐蔭学園高等学校への進学だった。

桐蔭学園へ――「終わり」ではなく、「別のスタート」

桐蔭学園高等学校。

神奈川を代表する進学校であり、高校サッカー界でも名を馳せる強豪。

マリノスのユースに上がれなかった選手が、そのままサッカーから離れるのではなく、新たな強豪の門を叩く。

そこには、「まだ終わりじゃない」という意志があったはずだ。

ユースに昇格できなかった悔しさ、劣等感、焦り。
それらと向き合いながら、環境を変え、高校サッカーの世界に飛び込む選択。

育成年代の選手や親御さんにとって、ここにはひとつの大きな示唆がある。

  • 特定のクラブの「ユースに上がれなかった」=「プロの道が閉ざされた」ではないこと
  • 環境が変わっても、成長のチャンスは作り続けられるということ

むしろそこからの3年間をどう過ごすかによって、サッカー人生は大きく変わる。

早川の場合、その先に「大学サッカーでの飛躍」が待っていた。

明治大学での4年間――「自分を取り戻す」時間

高校卒業後、早川は明治大学へ進学する。

明治大学サッカー部と言えば、関東大学サッカーリーグ戦を何度も制してきた、日本の大学サッカーを代表する名門だ。

2019年、2020年と関東大学サッカーリーグ戦2連覇。

その中心にいたGKが、早川友基だった。

リーグ2連覇に加え、自身も2019年、2020年と2年連続でベストイレブンに選出される。

大学サッカーの中でも、明確に「トップレベルのGK」として認められていった証だろう。

ユースに上がれなかった少年が、大学で日本の大学サッカーを代表する守護神となる。

その過程には、目に見えない努力と、試合に出られない時間、評価されない時期も含まれていたはずだ。

大学4年間は、多くの選手にとって「伸びる」か「止まる」かを分ける時間でもある。

勉強、私生活、ケガ、モチベーション。

あらゆる要素が成長を邪魔することもあれば、支えることもある。

早川は、その中で確かな成長曲線を描き、ついにプロへの扉をこじ開けた。

鹿島アントラーズ加入――名門でのポジション争いへ

2021年、鹿島アントラーズへの加入が発表される。

同期入団には、横浜F・マリノスの育成組織、そして明治大学でもチームメイトだった常本佳吾の名前もあった。

「マリノスの下部組織→大学→鹿島」という不思議な縁でつながる2人が、再び同じチームで戦うことになる。

しかし、鹿島のゴールマウスは、簡単に空いている場所ではない。

当時そこに立っていたのは、Kリーグでの実績も豊富なクォン・スンテ、日本人GKとして伸び盛りだった沖悠哉。

2021年の公式戦初出場は、天皇杯2回戦Y.S.C.C.横浜戦。

Jリーグのピッチには、まだ立てなかった。

プロ2年目、J1デビューは第30節――「待つ」という才能

2022年9月16日。

J1第30節、サガン鳥栖戦。

この日、早川はついにJ1で初先発を飾る。

クォン・スンテ、沖悠哉という実力者たちを抑えての抜擢。

ここからシーズン終了まで、鹿島のゴールを守り続けることになる。

プロの世界では、「待つ」ということもひとつの能力だ。

出番がない時期、練習だけの毎日。

そこで腐るのか、準備を続けるのか。

GKは特に、交代の少ないポジションだ。
オフェンスの選手のように、途中出場でチャンスを掴む機会はほとんどない。

だからこそ、巡ってきた1回のチャンスを「つかめる準備」をしているかどうかがすべてになる。

鳥栖戦での起用は、まさにそうした「準備し続けた者」にだけ訪れる瞬間だったのだろう。

2023年、レギュラー定着と「フルタイム出場」という信頼

2023年シーズン、早川友基は鹿島アントラーズの「正GK」として、シーズン全試合フル出場を果たす。

これは単に、「試合に出続けた」という記録以上の意味を持つ。

  • ケガやコンディション不良なく戦い抜いたフィジカルと自己管理
  • チームから託された圧倒的な信頼
  • ミスをしても、またゴールマウスを任され続けるメンタリティ

GKは、一つのミスが失点につながりやすいポジションだ。

だからこそ、シーズンを通してゴールを守り続けることは、「安定」という言葉だけでは表現しきれない価値を持つ。

スンテの「1番」を継ぐということ――2024年、背番号1と覚悟

2024年、クォン・スンテが引退。

鹿島アントラーズの名守護神がピッチを去り、その背番号1を引き継いだのが、早川友基だった。

鹿島で背番号1をつけるということ。

それは、単に「キーパーの番号」という話ではない。

三冠を知るクラブの伝統、タイトルを求め続けられる重圧。

サポーターの期待。

先代の守護神たちの背中。

そのすべてを背負う番号だ。

そのシーズン、早川は2年連続となるリーグ戦全試合フル出場を達成する。

「背番号1にふさわしいかどうか」を問われ続ける1年。

その問いに対する、ひとつの明確な答えだった。

「年間ベストセーブ級」と称された神戸戦のワンシーン

2024年10月17日。
J1第34節、ヴィッセル神戸戦。

優勝争いの大一番で、試合開始早々に訪れた決定的なピンチ。

神戸の左サイドからのクロス。

ペナルティエリア内で大迫勇也が胸トラップで抜け出し、左足でシュート。

元鹿島のエースであり、日本代表としても数々のゴールを決めてきたストライカーとの、真正面からの1対1。

この場面で飛び出したのが、10月度の月間ベストセーブ賞にも選ばれた一瞬だった。

「あのプレーはクロスが上がってディフェンスの頭を越えた時、相手の選手がフリーだったので、まずは寄せることを意識しました。
そして、ニアを消しながらファーへ誘導するイメージで自分の体を上手く運び、相手に誘導したコースへ打たせるという部分は最大限できたと思います」

このコメントには、現代GKに求められる「状況判断」と「事前のイメージ」のすべてが凝縮されている。

  • クロスが上がった瞬間の情報処理
  • DFの位置と相手FWのフリー状況の把握
  • 「まずは寄せる」という、迷いのない第一アクション
  • ニアを消しながら、あえてファーへ誘導する身体の使い方
  • 相手に打たせるコースを、自らデザインする感覚

SNSでは「ワールドレベル」「何回見ても飽きない」「年間ベストセーブ級」といった声が相次いだ。

だが、その裏側にあるのは、日々のトレーニングで積み上げられた「準備」の結晶だろう。

育成年代のGKにとって、この言葉は特に示唆に富んでいる。

ただ「止めよう」と思って飛び出すのではない。

どう相手を制限し、どこにシュートを打たせるのか。

その駆け引きが、世界基準のセービングにつながっていく。

月間ベストセーブ3回、2か月連続受賞――「見る者を納得させる守護神」へ

2024シーズン、早川は4月、9月、そして10月と、月間ベストセーブ賞を3度受賞している。

特に9月、10月と2か月連続での受賞は、単なる「一発のスーパーセーブ」ではなく、継続的にハイパフォーマンスを発揮し続けている証でもある。

「今年何回目の選出だっけ?」
「セービングの時の姿勢すら美しい」

そんなサポーターの声の中で、早川は「鹿島の守護神」としてだけでなく、「日本を代表するGK」としての存在感を高めていった。

2025年、選手会長、日本代表、そしてEAFF E-1制覇

2025年、早川友基は鹿島アントラーズの選手会長に就任する。

ピッチの上だけでなく、チームの内側でも信頼を集める存在になったことを示す役職だ。

守護神であり、背番号1であり、選手会長。

その肩書きが物語るのは、自らのプレーでチームを支え、日々の姿勢や言葉で仲間を導くリーダー像だろう。

同年7月。

EAFF E-1サッカー選手権2025決勝大会に臨む日本代表メンバーに初選出。

そして7月12日、第2戦・中国戦で先発フル出場を果たし、A代表デビューを迎える。

その後、国際Aマッチ3試合に出場。

ユースに上がれなかった少年は、日本代表のゴールを守るところまで来た。

「ユースに上がれなかったGK」から見える、日本サッカー育成への問い

ここまでの早川友基の歩みを、育成年代の選手や親御さん、指導者たちはどう受け止めるだろうか。

ひとつ確かなのは、この物語が「奇跡」ではなく、「選択と継続」の積み重ねだということだ。

  • Jクラブのユースに上がれなかったとき、何を選ぶのか
  • 高校サッカー、クラブユース、どの環境で自分を磨いていくのか
  • 大学進学を「遠回り」と捉えるのか、「成長の4年間」と捉えるのか
  • プロに入ってから、出番までの時間をどう過ごすのか

日本サッカーの育成は、Jクラブ下部組織だけで完結しているわけではない。

高校サッカーもあれば、大学サッカーもある。
地域リーグや社会人サッカーから這い上がってくる選手もいる。

早川のサッカー人生は、その「複線的な育成ルート」が、きちんとトップレベルとつながっていることを証明している。

ユースに上がれなかったことを「終わり」とせず、新しい環境で成長し続ける。

その姿勢こそが、育成年代の多くの選手が学ぶべきメッセージではないだろうか。

GKというポジションに宿る「覚悟」と、早川友基というモデル

ゴールキーパーは、特殊なポジションだ。

1試合を通して、身体を張る数回の場面だけで評価が変わることもある。

ミスをすれば、失点としてスコアボードに刻まれる。

それでも、最後尾からチームを支え続ける役割を引き受ける。

早川友基は、その覚悟を背番号1に込めながら、鹿島アントラーズ、日本代表のゴールマウスに立っている。

ユースに上がれなかった中学生のときに感じた悔しさも。

明治大学でベストイレブンに選ばれたときの誇らしさも。

プロ1年目、なかなか出場機会が得られなかった焦りも。

サガン鳥栖戦でJ1デビューを飾ったときの緊張も。

ヴィッセル神戸戦で大迫のシュートを止めたときの静かな手応えも。

選手会長としてチームをまとめる責任も。

EAFF E-1サッカー選手権で流れた日本代表の国歌も。

そのすべてが、今の「守護神」早川友基を形作っている。

育成年代のGKたちは、自分の環境や立場に不安を感じたとき、彼の名前を思い出してもいいのかもしれない。

「ユースに上がれなかったGK」が、日本代表になっているという事実を。

Jクラブの育成組織にいなくても。

高校サッカーからでも、大学サッカーからでも。

自分の選択と努力次第で、日本サッカーの頂点に近づけるということを。

その現実を体現している一人のゴールキーパーが、今日も鹿島のゴールに立っている。

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