食野亮太郎という物語。「浪速のメッシ」が今もピッチに問い続けていること
1998年6月18日、大阪府泉佐野市生まれ。
ガンバ大阪のユースからプロへ、そしてヨーロッパへ。
「浪速のメッシ」と呼ばれた才能は、順風満帆にスターへの階段を駆け上がるはずだった。
しかし、2025年現在の数字を眺めると、その道のりが決して平坦ではなかったことが、静かに浮かび上がってくる。
J1通算74試合8ゴール。
マンチェスター・シティへの移籍歴。
スコットランド、ポルトガルでのプレー経験。
A代表ではなく、U-22、U-23、U-24日本代表まで。
「今ごろ日本代表の中心だったかもしれない」と語られる存在が、リーグ戦のメンバーにすら入れない時期を過ごしている。
それでも、10月のAFCチャンピオンズリーグ2(ACL2)では、ラーチャブリー戦での華麗なターンからのゴール、ナムディン戦でのオウンゴールを誘うシュートと、2試合連続で得点に絡んでいる。
その直後、彼はこんな言葉を残している。
「自分で決めたかったし、それ以外にもチャンスはあった。
チャンスで仕留めきれるようにプレーの精度を上げて、リーグ戦のメンバーに入っていきたい」
かつて「未来の日本代表の中心」と期待された男は、27歳になった今も、自分に厳しい視線を向け続けている。
そこにこそ、食野亮太郎というサッカー選手の“物語”が宿っているのかもしれない。
ガンバ大阪という「家」で育った少年
中学生でガンバ大阪ジュニアユースに加入し、そのままユースへ進んだ。
2015年、高校2年のときにはガンバ大阪ユースのAチームの一員として高円宮杯U-18サッカープレミアリーグWESTを制覇。
まだ学校の机に座る年齢で、日本屈指の育成組織の「中心」の一人になっていた。
2016年、高校3年時にはトップチームに2種登録。
J3に参戦したガンバ大阪U-23でプロの世界へ足を踏み入れる。
3月13日、Y.S.C.C.横浜戦でJリーグ初出場。
9月18日の鹿児島ユナイテッドFC戦でJ3初ゴールを決め、吹田のピッチで初めてネットを揺らした。
J3通算56試合17ゴール。
数だけを見れば、「特別な才能」を証明するには十分な数字だろう。
小柄な体に宿るキレのあるドリブル、一瞬で重心をずらして相手を置き去りにするターン。
そのプレーぶりから、いつしかつけられた呼び名が「浪速のメッシ」だった。
育成年代の選手やその親御さんにとって、ここまでのストーリーは、ある種の「理想形」にも見える。
強豪クラブの下部組織に入り、年代別日本代表に名を連ね、トップチームに上がり、ゴールを重ねる。
このままJ1で大ブレイクし、日本代表、そしてヨーロッパへ——。
そんな未来予想図を、誰もが思い描いていた。
トップデビューと「令和初ゴール」
2018年、J1第6節ヴィッセル神戸戦でトップチームデビュー。
その年のルヴァンカップ・サンフレッチェ広島戦ではトップチーム初ゴールも記録した。
だが、本当に鮮烈だったのは翌2019年だ。
J3ではFC東京U-23相手に5点目を決め、得点ランキングトップに。
ルヴァンカップ・ジュビロ磐田戦で今季トップチーム初先発、そしてゴール。
J1第11節サガン鳥栖戦では、ついにリーグ戦初ゴールを奪う。
このゴールは、令和におけるガンバ大阪のJ1リーグ「初ゴール」としてクラブの歴史にも刻まれた。
「浪速のメッシ」が、新時代の幕開けを告げる一撃を決める。
そんなドラマのような瞬間を見れば、誰だってこう思う。
「この選手は、きっと代表の中心になるだろう」
「いつかは海外のビッグクラブでプレーするはずだ」
その予感は、実際に現実の形を取ることになる。
2019年8月9日。
プレミアリーグのマンチェスター・シティへの完全移籍。
マンチェスター・シティ移籍が生んだ「期待」と「ズレ」
マンチェスター・シティという名前は、育成年代の選手にとって、ほとんど“夢そのもの”のような響きを持つ。
世界最高峰のリーグ、世界中のスター選手たち、最先端の戦術。
そこに、自分とそう年齢の変わらない日本人選手が移籍する。
食野亮太郎のニュースは、多くの若い選手にとって「夢は本当に届く場所にあるのかもしれない」という感覚を与えたに違いない。
しかし同時に、その瞬間から彼のキャリアの歯車は少しずつ狂いはじめていく。
シティでチャンスを掴む前に、スコットランドのハート・オブ・ミドロシアン(ハーツ)へレンタル。
その後も、ポルトガルのリオ・アヴェ、昇格組のGDエストリル・プライアと、2年連続でポルトガルのクラブを渡り歩いた。
ハーツではスコティッシュ・プレミアシップ20試合3ゴール。
リオ・アヴェではリーグ戦19試合3ゴール。
エストリルでは9試合1ゴール。
「目立った活躍はなかった」と評されれば、それまでかもしれない。
でも、移籍先すべてが「1年レンタル」であることの難しさを、どれだけの人が想像できるだろうか。
言葉も文化も違う国で、1年しかいない前提。
チームにとっては完全な「戦力」としてではなく、“オプションの一つ”として見られやすい状況。
Jリーグを夢見る選手へ、そして指導者へ、ひとつ問いかけてみたくなる。
「海外挑戦」とは、いつ、どのタイミングで、どんな形で行くことが、本当にその選手のためなのか。
有名クラブと契約することがゴールになっていないか。
マンチェスター・シティとの契約は、確かに夢のようなニュースだった。
しかし、その3年間でシティのトップチームでの公式戦出場はゼロ。
レンタルを重ねるたびに、「シティ所属」という肩書と、リアルな出場機会とのギャップは広がっていった。
U-23日本代表の「唯一の海外組」として
2020年1月、AFC U-23選手権。
食野は唯一の海外組としてU-23日本代表に招集される。
サウジアラビア戦では同点ゴールを決めるも、終盤のPKで逆転負け。
チームはグループリーグ敗退という屈辱を味わった。
それでも、2021年にはU-24日本代表の一員として東京オリンピックを目指した。
コンスタントに出場し、最後の最後までメンバー争いに食い込む。
だが、本大会メンバーにその名前はなかった。
代表の「中心」になるはずだった選手が、ピッチの「外側」から仲間たちの戦いを見つめる。
育成年代から常にエリートコースを歩んできた選手にとって、その現実は決して軽くはない。
そんなとき、彼は何を思ったのだろうか。
ただ一つ言えるのは、そこでサッカーを投げ出さなかったという事実だ。
古巣ガンバ大阪への帰還と、現実との向き合い方
2022年7月8日。
食野亮太郎は、ガンバ大阪への完全復帰を選んだ。
マンチェスター・シティとの契約を経て、欧州で3クラブを渡り歩き、再び「家」に戻ってくる。
それは、“敗北”でも“逃避”でもない。
むしろ、現実と真っすぐ向き合う選択だったのではないか。
復帰直後の京都サンガF.C.戦でさっそくゴール。
2023シーズンはJ1で27試合3得点と、一見すれば「そこまで悪くない」数字に見える。
しかし、かつての期待値と比べられるのが、プロの世界の厳しさだ。
2024シーズンは11試合ノーゴール。
2025シーズンもリーグ戦5試合0得点1アシストと、出場機会は限られている。
「今ごろ代表の中心だったかもしれない」と言われる選手が、ベンチにも入れない試合を過ごす。
そのギャップと、どう向き合うのか。
ACL2のナムディン戦後のコメントは、そのヒントを与えてくれる。
「相手をかわしたところまでは良かった」
「自分で決めたかったし、それ以外にもチャンスはあった。
チャンスで仕留めきれるようにプレーの精度を上げて、リーグ戦のメンバーに入っていきたい」
華麗なターンで相手を外し、シュートが相手DFに当たってオウンゴールになる。
スタジアムは歓声に包まれ、チームは3連勝。
それでも彼は、「決めたかった」と自分のプレーに満足しない。
ここに、結果が出ているときほど「自分に厳しくいられるか」という、プロとしての姿勢がにじむ。
数字以上に大切な何かを、27歳の彼はようやく掴みかけているのかもしれない。
「浪速のメッシ」というラベルと、ひとりの人間としてのリアル
身長171cm。
圧倒的なフィジカルでねじ伏せるタイプではなく、細かいボールタッチとキレ、ひらめきで勝負するタイプ。
日本の育成現場では、こうした選手に対して「◯◯のメッシ」というラベルを貼りがちだ。
それは期待の表れであり、愛情でもある。
ただ同時に、そのラベルが選手自身を苦しめることもある。
- メッシのように常にゴールやアシストを求められる
- 少し結果が出ないと「期待外れ」と言われる
- 本来の持ち味とは違う“英雄像”と比べられてしまう
指導者や親御さんにとって、ここには大きな問いが潜んでいる。
「ラベル」を貼ることで、私たちは選手自身の成長を助けているのか、逆に縛ってはいないか。
本当に見るべきなのは、「誰かに似ていること」なのか、「その選手だけが持つ個性」なのか。
食野亮太郎には、彼にしかないストーリーがある。
江戸中期から幕末にかけて栄えた豪商・食野家の末裔という一面。
弟の食野壮磨もガンバ大阪ユース出身で、2019年のJ3・Y.S.C.C.横浜戦では兄弟そろってゴールを決めた。
そして弟は今、京都産業大学から16年ぶりにJ1に昇格した東京ヴェルディへ加入する道を歩んでいる。
兄弟でプロの道を選び、それぞれが違う景色を見ている。
そこにあるのは、メッシや誰かのコピーではない、たった一つの「食野家の物語」だ。
「伸び悩み」と呼ばれたその先で、何を学ぶのか
メディアはときに、彼を「伸び悩んだ逸材」と表現する。
「今ごろ日本代表の中心だったはずが…」という見出しもつく。
数字だけ見れば、その評価はある意味で妥当かもしれない。
しかし、育成年代の選手や指導者にとって、もっと大切なのは、そのラベルの向こう側にある「プロのリアル」をどう受け取るかだ。
- ユースで無双しても、プロの壁は想像以上に高いこと
- 海外移籍は「夢」だけでなく「現実」としての準備が必要なこと
- 代表に選ばれなかった後のキャリアこそ、その選手の人間性が問われること
- 25歳を過ぎてからも、プレースタイルやメンタリティを変えながら成長し続けられること
ACL2で結果を出しながらも、「リーグ戦のメンバーに入っていきたい」と口にする27歳の食野亮太郎。
その姿は、「才能があるかどうか」という次元を超えて、こう問いかけてくる。
今、目の前のポジション争いから逃げていないか。
うまくいかなかった経験から、本当に何かを学び取ろうとしているか。
J3で輝き、J1で令和初ゴールを決め、マンチェスター・シティと契約し、ヨーロッパを3クラブ渡り歩き、U-23日本代表の唯一の海外組になり、オリンピックメンバーから落選し、古巣に戻り、ベンチ外の日々を味わい、それでもACLで結果を出そうともがき続ける。
このキャリアを「成功」か「失敗」かの二択で測ることに、どれほどの意味があるだろうか。
むしろ、プロサッカー選手のリアルな人生として、もっと多くの若い選手たちが食野亮太郎の歩みを知るべきなのかもしれない。
うまくいった瞬間だけでなく、迷ったとき、外されたとき、批判されたときに、彼がどう振る舞ってきたのか。
ACL2・ラーチャブリー戦。
DF満田誠からのパスをペナルティエリア内で受け、華麗なターンでマーカーを剥がし、左足を一閃。
GKは一歩も動けず、ボールはゴール左下隅へ。
あのゴールは、「浪速のメッシ」というラベルに応えようとした一撃ではなく、幾度の挫折を経た一人の27歳が、なおも自分の武器を磨き続けている証のようにも見える。
その背中を、今の育成年代の選手たちは、どう受け止めるのだろうか。
そして、Jリーグを夢見る者たちは、自分自身の「サッカー人生」をどんな物語にしていくのだろうか。






