前寛之というサッカー選手をめぐる物語――「タイトルの味」を知るボランチの歩み
前寛之(まえ ひろゆき)。
1995年8月1日、北海道札幌市厚別区生まれ。
ポジションはボランチ、ミッドフィールダー。
今や「クラブ初タイトルの立役者」として語られることの多い選手ですが、そのサッカー人生は決して一直線ではありませんでした。
北海道の少年が、コンサドーレ札幌の育成組織で育ち、水戸ホーリーホック、アビスパ福岡、そしてFC町田ゼルビアと渡り歩く。
その道のりの中で、タイトルを知らなかったクラブに、次々と“星”を刻んできました。
2025年、FC町田ゼルビアで天皇杯を掲げた前寛之。
その姿にたどり着くまでの物語を、少しゆっくりたどってみたくなります。
コンサドーレ札幌のアカデミーで育った「10番」
前寛之のサッカー人生は、地元クラブ・コンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)のジュニアサッカースクールから始まります。
小学生のころからコンサドーレの色に染まり、札幌U-12、札幌U-15、札幌U-18と、一歩ずつ階段を上っていきました。
札幌U-15では、2年生のときに高円宮杯U-15で準優勝。
すでにチームの主力として、ピッチの中心に立つ存在になっていました。
札幌U-18に上がると、その成長はさらに加速します。
2年生のころにはトップチームの練習に参加し始め、2012年のJユースカップ優勝メンバーの一人として名前を刻みました。
ボランチとして試合をコントロールし、守備で強さを見せる姿に、クラブは将来の中心選手の姿を重ねていたはずです。
当時の札幌のGM・三上大勝は、こんなふうに前を評価していました。
「ボールの出し手としていいものを持っている。ボランチとして体の強さもプロで通用するものを持っている」
3年生になると、札幌U-18で背番号10を託されます。
育成組織において「10番」は、ただの数字ではありません。
チームの顔として、仲間を引っ張り、ボールを預けられる象徴の番号です。
第21回Jユースカップではベスト4入りの原動力となり、ユース年代の頂点を争う舞台で、前はしっかりと自分の存在を示しました。
さらに、2014年の富士ゼロックス杯のNEXT GENERATION MATCHでは、U-18Jリーグ選抜の一員としてスタメン出場。
Jクラブの有望株が集まるチームの中でも、前は中心的な働きを見せました。
U-18日本代表候補のキャンプにも招集され、U-20ワールドカップを目指す世代の一人として期待を集めていきます。
兄と共演したプロデビュー、札幌で刻んだ原点
2013年11月4日。
内山裕貴とともに、翌シーズン2014年からのトップチーム昇格が発表されます。
下部組織からトップへ。
地元クラブのアカデミー出身選手として、夢見ていた瞬間が、現実になりました。
その少し後、クラブにとっても忘れられない出来事が訪れます。
2013年11月20日の天皇杯4回戦、対ヴァンフォーレ甲府戦。
チームはJ1昇格プレーオフを争う緊張の時期。
その公式戦で、前寛之はスタメンに抜擢され、ボランチとして公式戦初出場を果たしました。
しかも、その試合には、実兄である前貴之(のちにジェフユナイテッド千葉)が同じく先発として出場。
クラブ史上初となる「兄弟選手同時出場」という特別な記録が刻まれました。
同じピッチで、同じユニフォームを着て、同じ時間を戦う。
少年時代、兄とボールを追いかけていた日々から続く一本の線が、“プロの舞台”でつながった瞬間でした。
読者の中には、兄弟や家族とボールを蹴った記憶を持つ人もいるかもしれません。
あのときの笑い声や、ケンカのあとにまた一緒にボールを追いかけた時間。
前兄弟の姿は、そんな原点のような時間を思い出させてくれます。
初めての異国、タイ・コーンケンFCへの期限付き移籍
2014年、プロ1年目の途中。
前はタイ・ディヴィジョン1リーグのコーンケンFCへ期限付き移籍という道を選びます。
J2からタイ2部相当のリーグへ。
言葉も文化も気候も違う土地で、若いボランチは自分のサッカーと、改めて向き合うことになります。
数字として残るゴール数やアシスト数は、タイでの期間については多く語られてはいません。
しかし、異国の地でプレーするという経験は、ピッチの外も含めて、選手の中身を大きく変えます。
うまくいくことよりも、むしろ戸惑いや悔しさのほうが多い。
それでも、そこで得たものがあるからこそ、その後の前寛之は、どこへ行ってもブレない「軸」を持つ選手として成長していったのかもしれません。
J1の壁、札幌での模索
日本に戻った前は、北海道コンサドーレ札幌でJ2、そしてJ1を戦います。
2015年のJ2で15試合出場2得点。
2016年には18試合出場。
この2016年、札幌はJ2優勝を果たし、J1昇格を決めます。
クラブとしてのタイトルの喜びを味わった一方で、2017年J1の舞台では、出場4試合。
J1の壁、ポジション争いの厳しさを、肌で感じるシーズンになりました。
ユース時代から「中心選手」として歩んできた一人のボランチが、J1で思うように出場機会を得られない。
この現実は、選手としてのプライドと向き合う時間でもあったはずです。
それでも、彼はピッチから逃げませんでした。
出場できない時間も、練習で自分を磨き続けるしかない。
その先に、もう一度「自分の居場所」を取り戻すために。
水戸ホーリーホックで掴んだ「軸になる」という感覚
2018年、前はJ2・水戸ホーリーホックに期限付き移籍をします。
環境を変え、自分の価値をもう一度証明するための選択でした。
序盤戦は骨折で出遅れます。
ケガでピッチに立てない時間は、選手にとってとても長く、苦しいものです。
ただでさえ移籍初年度でアピールが必要な立場。
それでも、復帰後の前は、一気にギアを上げていきました。
2018年シーズン、復帰後はリーグ戦全試合フル出場。
「チームの軸」と呼ばれる存在へと、短期間でたどり着いていきます。
その働きぶりに対して、シーズン終了後には複数クラブからオファーが届きました。
それでも前は、水戸への完全移籍を選びます。
2019年も水戸でプレーし、自分の居場所をさらに深く作っていきました。
2019年シーズンは39試合出場5得点。
自身最多得点を記録し、攻守両面でチームを支えるボランチとして輝きを放ちます。
「出場機会が少ない若手」だった札幌時代から、「いないと困る存在」へ。
水戸ホーリーホックでの時間は、前寛之にとって、「自分がチームの真ん中に立つ」という感覚を強く刻み込んだ、大事な2年間になりました。
アビスパ福岡へ――新しい船で、いきなりキャプテンに
2020年、前はJ2から戻ったばかりのアビスパ福岡へ完全移籍します。
監督は、水戸時代の指揮官・長谷部茂利。
水戸で前をよく知る指導者が、新たなクラブで再び共闘する道を選びました。
そして前には、いきなり大きな役目が託されます。
移籍初年度から、キャプテン就任。
まだ福岡でのプレー経験もほとんどない中で、チームをまとめる「リーダー」としての重責を負うことになります。
移籍1年目のクラブでキャプテンを任される。
これは、長谷部監督をはじめクラブが、前の人格やプレースタイルをどれほど信頼していたかの証でもあります。
アビスパ福岡は、2020年シーズンにJ2を戦い、J1昇格を果たします。
2021年からはJ1に定着し、前はJ1の舞台でコンスタントに出場を重ねていきます。
- 2020年:J2・30試合1得点
- 2021年:J1・38試合2得点
- 2022年:J1・34試合出場
- 2023年:J1・37試合1得点
数字だけを見ても、その存在感が伝わってきます。
試合に出続けるということは、監督からの信頼、チームメイトからの信頼、そして何より自分自身を律する力がなければ成し遂げられません。
コロナ陽性判定と、突然の試合中止
2020年、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい始めた年。
Jリーグも例外ではなく、感染対策に追われるシーズンになりました。
7月27日に福岡がクラブ独自検査を行ったとき、前の結果は陰性でした。
しかし、8月2日に行われたJリーグ公式検査により、前が陽性の可能性が高いと診断されます。
その日夜に予定されていた対大宮アルディージャ戦は、試合開始2時間前を切ったタイミングで急遽中止に。
前はチームバスとは別の車両で医療施設へ移送され、翌日のPCR検査で陽性と診断されました。
幸い、症状は無症状。
それでも、チームキャプテンとして、そしてJリーガーとして、コロナという見えない敵と闘うことになった出来事でした。
ピッチの上で相手と戦うこととは違う、別種の緊張と不安。
それでも、前はチームに戻り、その後もアビスパ福岡を支え続けることになります。
クラブ初タイトルの喜び――ルヴァンカップとMVP
2023年、アビスパ福岡はルヴァンカップでクラブ史上初のタイトルを獲得します。
この大会で、前寛之はMVPに輝きました。
クラブ初タイトル。
それは、優勝カップの重さ以上に、クラブの歴史に「初めての星」を刻む意味を持ちます。
前は、その喜びを通して、「タイトルがクラブにもたらすもの」を深く理解しました。
「タイトルを獲ったチーム、獲っていないチームと、2つに分けられるところもあります。
前年にタイトルを獲れば、このチームに来たいと思う選手もいるかもしれない。
そういう少しのディテールのところもあれば、クラブとして何十年という歴史があるなかでの星1つは大きい意味があるのかなと思います」
この言葉には、ただの優勝の喜び以上の重みがあります。
優勝は、その瞬間だけで終わらない。
次のシーズン、その次の世代にまで影響を与える。
クラブの未来を変えてしまうことがある、と。
タイトルの味を知った男は、その後、新たなチャレンジの場として、FC町田ゼルビアを選びます。
FC町田ゼルビアへ――「もう一度、その味を」
2024年の終わり、前寛之はFC町田ゼルビアへの完全移籍が発表されます。
J1に定着し、2023年にはルヴァンカップを制したアビスパ福岡から、急成長を遂げる町田へ。
そこには、明確な理由がありました。
2025年シーズン、前は背番号16を着け、ボランチとして町田の新たな歴史に挑みます。
そして、その年の天皇杯で、FC町田ゼルビアはついにクラブ初タイトルを獲得します。
2025年11月22日。
国立競技場で行われた天皇杯決勝。
相手はヴィッセル神戸。
結果は3-1。
前はボランチとして先発出場し、相手の攻撃を封じ、セカンドボールを支配し続けました。
特に注目を集めたのは、元チームメイトでもあるMF井手口陽介とのマッチアップ。
福岡時代にコンビを組んだ仲間に、ほとんど仕事をさせなかった試合内容でした。
「陣地合戦というか、どちらが相手陣地に蹴り込むなかでセカンドボールを回収していくかというところは、きょうの自分のキーポイントになる、自分の仕事だとも思っていました」
脚光を浴びるのは、ゴールを決める選手や、派手なドリブルで観客を沸かせる選手ばかりではありません。
相手の「やりたいこと」を消し、地味に見えるかもしれない局面を積み重ねて、試合を勝利に引き寄せる。
ボランチというポジションの“渋さ”と“価値”が、ここに詰まっています。
試合後、前はこう明かしています。
「アビスパでその味を知り、ここでその味をまた味わうために来たのもあります」
アビスパ福岡で知った「タイトルの味」。
それを、今度はFC町田ゼルビアで、クラブ初タイトルという形でもう一度味わう。
そのために、自ら道を選び、プレッシャーのかかる場所に身を置いたのです。
「期待される側」で戦うということ
アビスパ福岡と、FC町田ゼルビア。
どちらも「クラブ初タイトル」を共に掴んだ関係ですが、その過程で前が感じたものには、微妙な違いがありました。
前は、福岡での立場と町田での立場を、こう語っています。
「アビスパではタイトルを獲れるかもしれないという確率で、あまり高くない期待値を、選手もそうですしサポーターの皆さんもたぶんそういう期待値だったと思います」
福岡時代、多くの人は「タイトルを獲れたらすごい」と思っていた。
挑戦者として、番狂わせを起こすような側だったかもしれません。
一方、町田はどうだったのでしょうか。
前は続けて、こう話します。
「昨シーズンはリーグ最終節まで優勝を争い、3位に終わった町田。サポーターとか、Jリーグのなかでも町田どうなるんだろうというところはあったと思う。そういう期待をされながら戦うというのも僕自身は初めてでしたし、それができたのでなおさら嬉しさがあります」
「勝ったらすごい」から、「勝ってほしい」「勝つはずだ」へ。
期待値が上がると、そのぶんプレッシャーも大きくなります。
挑戦者としての喜びと、優勝候補としての責任。
どちらも経験している前だからこそ、天皇杯優勝の重みが、より強く胸に響いたのかもしれません。
タイトルを届けるボランチが問いかけるもの
アビスパ福岡でルヴァンカップを制し、MVPを獲得。
FC町田ゼルビアでは天皇杯でクラブ初タイトルをもたらす。
数字以上に、前寛之という選手の存在は、「クラブの歴史を動かす人」として記憶されていくでしょう。
コンサドーレ札幌のアカデミーで背番号10を背負い、ユース代表に名を連ね、タイへの期限付き移籍、札幌トップでのJ1の壁、水戸ホーリーホックでの再出発、アビスパ福岡でのキャプテン就任と初タイトル、そしてFC町田ゼルビアでの天皇杯制覇。
そのどの一つが欠けても、いまの前寛之にはたどり着かなかったでしょう。
派手なゴールや華やかなテクニックが、サッカーのすべてではありません。
守備で相手を止める。
ボールを奪う。
味方がプレーしやすいようにポジションを取り続ける。
セカンドボールを拾う。
90分間、集中を切らさずに、チームの“土台”になる。
前が天皇杯決勝で語った
「陣地合戦」「セカンドボールを回収していくかというところが自分の仕事」
という言葉は、サッカーの本質を突いた一言でもあります。
ピッチの上で起きているのは、華やかなゴールシーンだけではなく、無数の「陣地の取り合い」と「ボールの取り合い」の積み重ねなのです。
小学生の読者にとっては、「地味なプレーも、全部が勝利につながっている」ということを教えてくれる選手かもしれません。
おばあちゃん世代の読者にとっては、「あの子、あまりテレビで名前を呼ばれないけど、実は大事な役目をしているんだね」と気づかせてくれる存在かもしれません。
そして、日本サッカー全体にとっても、前寛之の歩みは一つの問いかけになっているように感じます。
- タイトルの「星1つ」が、クラブの歴史や未来をどう変えていくのか。
- 「タイトルを獲ったチーム」と「まだ獲っていないチーム」の違いは、どこから生まれてくるのか。
- 守り、つなぎ、戦い続けるボランチの価値を、どれだけ正しく見つめられているだろうか。
前寛之は、決して声高に自分を語るタイプの選手ではないかもしれません。
けれど、そのプレーと歩みは、確かに言葉を持っています。
タイトルの「味」を知ったボランチが、その味をもう一度求めてクラブを選び、そのたびに、まだ星を持たないクラブに初めての星を刻んでいく。
その姿を見ながら、私たちは少しずつ、サッカーというスポーツの奥行きや、クラブという存在の重みを知っていくのかもしれません。



