奥埜博亮というサッカー人生――「サッカーを続けること」が導いた今
「サッカー選手になるために努力したことは?」
そう問われたとき、彼は少しだけ考えて、短くこう答えている。
サッカーを続けること。
特別な言葉ではない。
だが、J2からJ1、仙台から長崎、そして大阪、湘南へ。
紆余曲折のキャリアを歩んできた奥埜博亮の足跡を振り返ると、この一言の重みが、少しずつ輪郭を帯びてくる。
太子町から仙台へ──ユースの飛び級と、最初の挫折
大阪府南河内郡太子町。
Jリーグ中継をきっかけにサッカーを始めた少年は、小学2年で東京の名門・バディSCの門を叩く。
同じピッチには、後に日本代表となる丸山祐市の姿もあった。
ジェフユナイテッド市原・千葉の仙台スクールを経て、中学からはベガルタ仙台の下部組織へ。
中学3年でユースの公式戦に飛び級出場。
その時点で、彼の才能はクラブの中でも「抜きん出た存在」として認識されていた。
だが、順風満帆に見えた道のりは、高校3年時の負傷で暗転する。
本来ならそのままトップチーム昇格も見えた位置にいながら、怪我の影響で昇格は見送り。
奥埜はベガルタ仙台ユースから、一度「プロへの直通ルート」から外れ、仙台大学に進学する道を選んだ。
育成年代の選手や保護者であれば、この場面に自分たちを重ねる人も少なくないはずだ。
順調に進んでいたはずの階段が、ある日突然途切れる。
怪我、体の成長、学業、家庭の事情。
理由はさまざまだが、「直線ではないキャリア」を歩む選手の方が今は多い。
そんな中で奥埜は、「続ける」ことを選んだ。
仙台大学での再出発──特別指定選手、そして「7番」へ
仙台大学では1年目から公式戦に出場。
3年時の総理大臣杯では同志社大学戦でハットトリックを記録し、チームのベスト4進出に貢献する。
大学ではフォワードとしても起用され、多彩なプレーの幅を身につけていった。
ユース時代に指導を受けた手倉森誠からの評価は高く、2009年からは3年間、特別指定選手として再びベガルタ仙台のユニフォームに袖を通す。
「プロへの扉が完全に閉じたわけではない」。
そう実感させてくれる存在が身近にいたことは、彼にとって大きな支えだったはずだ。
2012年、ついに正式加入。
それは、ベガルタ仙台にとってもクラブ史に残る出来事だった。
ユース出身者が大学を経由してトップチームに昇格するのは、クラブ史上初。
その背中に託されたのは、「Mr.ベガルタ」千葉直樹が13年間背負い続けた「7番」だった。
大きな期待、伝統の番号。
それでも、プロの世界はやさしくはなかった。
1年目は天皇杯でプロ初ゴールを記録したものの、リーグ戦でのインパクトは限定的。
2年目の2013年は怪我も重なり出場機会を失う。
そして7月、J2・V・ファーレン長崎への期限付き移籍が決まる。
10代から過ごしたクラブを離れ、環境を変える選択。
これは一つの「挫折」とも、「挑戦」とも言える出来事だ。
長崎での手応えと、仙台への“戻り方”
長崎では2013年に16試合3得点、2014年には39試合4得点。
出場時間を積み重ねる中で、「J2でもまれる」時間が、自身の武器を明確にしていく。
点も取れるボランチ、献身的に走れるフォワード、試合の流れを読む能力。
いわば「万能型」の資質が、ここで磨かれていった。
2015年、奥埜は仙台へ復帰する。
戻ってきた彼に託された役割は、ただの「戦力」ではなかった。
この年、副キャプテンに就任。
仙台では初めて開幕スタメンを奪い、ユース出身者として初めてトップチームのレギュラーに定着する。
センターフォワードとして先発した27試合のうち17試合で同ポジションに入り、リーグ戦32試合7得点。
1stステージ第11節・浦和レッズ戦でJ1初ゴールを記録し、シーズン7点はチームトップタイ。
クラブの年間MVPにも選ばれた。
ユースからの長い年月を経て、「ベガルタ仙台の7番」として、ようやく胸を張れるシーズンだった。
だが、その物語は、ずっと続くわけではなかった。
2018年オフ、ジュニアユースから数えて14年半を過ごした仙台を離れ、2019年にセレッソ大阪へ完全移籍する決断を下す。
クラブ生え抜きとして育ち、番号も背負い、キャプテンシーも求められる存在が、大きな決断をする。
その裏側にどんな葛藤があったのか。
本人は多くを語らない。
ただ一つだけ確かなのは、「変化の中でも続ける」という姿勢を貫いたことだ。
セレッソ大阪での変貌──“ステルス”ストライカーから中盤の心臓へ
2019年、セレッソ大阪。
移籍初年度、ヴィッセル神戸との開幕戦で奥埜は即スタメンに抜擢され、チームトップとなる12.9kmの走行距離を記録して勝利に貢献。
フォワードに負傷が相次いだシーズン、ロティーナ監督は彼をセンターフォワードとして重用する。
守備のタスクをこなしつつ、リーグ戦7得点。
監督やメディアは、彼をこう表現した。
例えばオルンガのような存在感はない。
むしろステルス的に潜んでいる。
行動範囲が非常に広く攻守で味方を助ける。
あちこちに顔を出して味方を連結し、知らぬ間にゴール前にいる。
ハードワーク型のストライカーとして満点。
目立つのは派手なドリブル突破や、遠目からの強烈なシュートではない。
球際、カバーリング、味方との距離感、タイミング。
そうした「隙間の仕事」を、高い水準でこなし続ける選手。
それが、ロティーナ体制下の奥埜だった。
2020年にはクラブのJ1通算1000ゴールとなる記念すべき得点も記録。
2021年にはボランチでの起用がメインとなり、レヴィー・クルピ監督からは次のような言葉を贈られている。
中盤のスペシャリストだと思う。
代表に選ばれてもおかしくないし、セレッソで優勝を勝ち取って、タイトルを獲って欧州へ行く。
それくらいの実力を彼は持っていると思う。
これからのイメージ次第でもっともっと伸びるのではないか。
ポジションは前線から中盤へと移ったが、彼の本質は変わらない。
チームの穴を埋める。
ボールを失わない。
走る。
勝利のために、目立たない部分をやり切る。
2022年には小菊昭雄監督のもと、再びゴール前への飛び出しが増え、大阪ダービーでは全得点に絡む大活躍。
この年、Jリーグ優秀選手賞を初受賞する。
20代後半から30代前半、本来ならピークを迎える年代で、奥埜は「ポジションを固定されない選手」として、むしろ価値を高めていった。
それは、育成年代でよく言われる「ポジションを一つに絞れ」という考え方への、ある意味でのカウンターでもある。
ポジションを転々とすることはマイナスなのか。
それとも、複数のポジションをこなせる能力は、大きな武器なのか。
奥埜のキャリアは、後者の可能性を静かに証明しているのかもしれない。
そして湘南ベルマーレへ──“和製イニエスタ”と呼ばれた理由
2025年3月26日。
セレッソ大阪での6シーズンを経て、奥埜は湘南ベルマーレへ完全移籍する。
新天地での初めての大きな注目は、4月6日、J1第9節の名古屋グランパス戦だった。
3-4-2-1のボランチとして、奥野耕平と「ダブルオクノ」を形成。
加入からわずか2週間足らずとは思えないフィット感で、チームの中心に立った。
特徴的なのは、湘南の戦術が求める「流動性」の中で、常に最適なポジションを取り続けたことだ。
中央やストッパーが空けたスペースを的確に埋め、ボールを奪う。
奪った後には、正確でスピーディなパスでビルドアップを加速させ、時には自ら3列目から飛び出してカウンターに厚みを加える。
山口智監督は、この日のプレーをこう表現している。
彼の良さがすべて出たゲームだったなと。
相手を見て、自分たちを見て、そのうえで自分らしさを出すことに長けた選手。
修正がないわけではないですけど、パーフェクトに近い出来でした。
さらにボランチの相棒となった奥野耕平は、冗談めかしつつ、こう言ってのける。
和製イニエスタですよ。
失わないし、色々なところが見えているし、パスを出せて、運べて、守備も頑張れて…頭が上がりません(笑)。
もちろん、バルセロナのレジェンドと単純に比較できるものではない。
だが、チームメイトがそう感じるほど、奥埜のプレーは衝撃的だったのだろう。
「周りに合わせられる選手」「戦術理解が早い」。
そう評される選手が、流動性とハードワークを求められる湘南のサッカーにハマらないはずがない。
本人は湘南の印象を「まじめ」と語り、自身のプレーで「全部見てほしい」と言う。
自分の武器を一つに絞らない。
だからこそ、どこにいてもチームのために働ける。
「続ける」ということ──育成年代と指導者への問いかけ
ここまで奥埜博亮のキャリアを振り返ってきた時、浮かび上がるキーワードはやはり「続ける」だ。
- ユースからトップ昇格を逃しても、大学でサッカーを続けたこと。
- 仙台で出場機会を失い、長崎への移籍を選んでも、その環境で戦い続けたこと。
- 愛着ある仙台を離れ、大阪で新たな役割を受け入れ、ポジションを変えながらも走り続けたこと。
- 30代半ばになっても、新天地・湘南でハードワークを惜しまないこと。
プロフィールにある「あなたにとってサッカーとは?」という問いに、彼はこう記している。
ずっと続けてきた事。
劇的な名言ではない。
ただ、怪我や競争、移籍、ポジション変更、家族の誕生といった人生の節目を乗り越えながら、それでもなお「続けている」ことの強さが、ここにはある。
育成年代の選手たちにとって、「代表」「プロ」「海外」といったゴールは、どうしても大きな目標になる。
だが、その道の途中には、想像以上に多くの「分岐点」と「寄り道」がある。
ユースからの即トップ昇格だけが正解ではないし、同じクラブでキャリアを終えることだけが美しい物語でもない。
指導者や保護者の立場から見れば、怪我や進路変更、ポジションの変化に不安を覚えることもあるだろう。
そんなとき、奥埜博亮という一人の選手のキャリアは、一つの「現実的な希望」を示している。
- 遠回りに見える選択が、長い目で見れば選手を強くすること。
- ポジションを固定されないことが、むしろ武器になること。
- 地道なハードワークと戦術理解が、監督やチームメイトからの信頼に直結すること。
そして何より、「続けている限り、物語は終わらない」ということ。
家族、日常、そしてピッチの上の顔
プライベートの奥埜は、「マイペース」を自認する。
ストレス解消法は「あまり考えない」。
休日は「家族とゆっくり」。
人生で一番感動したことを問われれば、「子供が生まれた時」と答える。
試合に勝ったときに幸せを感じ、テンションが上がる。
元気の源も「サッカー」。
そこに飾り気はない。
湘南という新しい土地で、「自然」に惹かれ、「なんでもやってみたい」と新しい挑戦を探している。
暑さに悩みながらも、相変わらずピッチでは12km以上を走り続ける。
そんな彼が、サポーターへのメッセージに選んだのは、次の短い言葉だ。
共に戦いましょう!
サポーターと共に戦う。
家族と共に生きる。
チームメイトと共に走る。
派手なタイトルや華々しい海外移籍がなくても、「共に」という言葉を大切にしながら、サッカーと向き合い続けてきた一人の選手の姿が、そこにはある。
「和製イニエスタ」は、何を教えてくれるのか
名古屋戦後、奥野耕平が放った「和製イニエスタ」という言葉は、冗談半分でありながら、奥埜の本質をよく言い当てているのかもしれない。
ボールを失わない技術。
ピッチ全体を見渡す視野。
味方を生かし、自分も決定的な仕事ができるバランス感覚。
そして、守備をサボらない献身性。
日本の育成年代では、「スター性のある選手」に目が行きがちだ。
ドリブルで何人も抜く。
強烈なシュートを打つ。
派手なゴールを決める。
もちろん、それもサッカーの大きな魅力だ。
だが、トップレベルで長く生き残る選手の多くは、「自分の得意なこと」と同じくらい、「チームのために足りないところを埋めること」に長けている。
奥埜博亮という選手は、その象徴のような存在だろう。
子どもたちに「自分のプレー、どこを見てほしい?」と問われたとき、彼は「全部」と記す。
一点豪華主義ではなく、攻守にわたるトータルな貢献で評価されること。
そこにこそ、彼の誇りがあるのではないだろうか。
サッカーを「ずっと続けてきた事」と語る35歳のボランチが、湘南ベルマーレでどんな未来を紡いでいくのか。
その姿を追いかけることは、結果や数字だけでは見えてこない、「サッカー選手として生きる」という営みのリアルを知ることでもある。
プロを夢見る選手たちにとって、そして彼らを支える指導者や家族にとって。
奥埜博亮という名前を検索し、そのキャリアを辿ってみることは、一つの「現実的な希望」を確かめる作業なのかもしれない。






