怪我も葛藤も「宿題」に変えて──セレッソ一筋のボランチ・喜田陽が示す育成世代へのヒント

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喜田陽という物語。静かなボランチが歩んできた「宿題」のサッカー人生

セレッソ大阪の背番号5、喜田陽。
大阪・泉大津市立浜小学校の小さな少年が、日本代表、J1、そして故郷の教壇へと戻ってくるまでに歩んできた道は、決して一直線ではなかった。
むしろ、そのサッカー人生は「順風満帆」とはほど遠い。
だからこそ、育成年代の選手や指導者、親御さんにとって、多くの示唆を与えてくれる物語になっている。

泉大津の少年が「セレッソ一筋」で見てきた景色

2000年7月4日、大阪府泉大津市に生まれた喜田陽。
地元クラブの泉大津アルザスSCでボールを追いかけ、やがてセレッソ大阪U-12へ。
U-15、U-18と、クラブのアカデミーをまっすぐに駆け上がっていった。

高円宮杯U-15全日本選手権での優勝。
クラブユース選手権U-15で大会優秀選手に選出。
代表ではU-15からU-20まで、ほぼすべての世代を経験し、A代表の主力となった久保建英、中村敬斗、菅原由勢、鈴木彩艶らとともに、U-17ワールドカップのピッチにも立った。

多くの育成年代の選手が「夢」として思い描くようなタイトルと肩書を、次々に手にしていく。
2017年にはセレッソ大阪で2種登録され、J3のC大阪U-23で16試合に出場。
ルヴァンカップ・札幌戦でトップチームデビューも飾った。

ここだけを切り取れば、「エリートコースの順調な進歩」。
しかし、この先に待っていたのは「順調」の二文字から、少しずつ遠ざかっていく時間だった。

プロ契約、レンタル移籍、そして見えない“序列”の壁

2018年8月、C大阪とプロ契約。
それは少年時代からの夢が、現実の契約書という形で結ばれた瞬間だった。
だが同じ年の12月、アビスパ福岡への期限付き移籍が発表される。

J2福岡での2019シーズン、リーグ戦10試合に出場。
プロとしての「戦う1年」を送りながらも、得点や派手なスタッツが残るポジションではない。
日々のトレーニング、ベンチ、時にはスタンドから、試合を見つめる時間も多かった。

2020年、セレッソ大阪に復帰。
9月16日、J1第25節ヴィッセル神戸戦でJ1リーグデビューを果たす。
だがその後の数シーズン、J1での出場試合数は、決して多くはなかった。

むしろ目立つのは、J3・C大阪U-23での数字だ。
2017年から2020年まで、J3で通算69試合出場。
トータルのJ3出場は、J1とJ2を合わせた数を上回る。

アカデミー出身、世代別代表、そしてJ1クラブ。
外から見れば「順調」に見えても、本人の胸の内には「このままでいいのか」という葛藤が、幾度も去来していたはずだ。

育成年代の選手も、あるいは指導者も、「代表歴」や「有名クラブ」というラベルを見て、将来を過大評価してしまいがちだ。
しかしプロの世界で、本当に重くのしかかってくるのは、「今、チーム内でどの立ち位置にいるか」という現実だ。

静かでおとなしいボランチと、「ガツガツいけ」の助言

そんな中で迎えた、ひとつの転機とも言える出来事がある。
2023年6月24日、J1第18節、北海道コンサドーレ札幌戦。
2-0でリードして迎えた前半38分、ペナルティエリア手前から左足一閃。
アウトサイド気味にかかった強烈なミドルシュートが、ゴール左上に突き刺さった。

これが、J1初ゴール。
後に元日本代表の大久保嘉人が、DAZNの番組内でこのゴールをこう語っている。

「陽はめちゃくちゃ静かでおとなしいんです。
一緒にやっていた時も『遠慮せずにガツガツいけよ』とずっと言って、アドバイスしていた。
そのおかげでシュートを打ったのかもしれないので、半分は僕のおかげかなと思っております(笑)」

かつての喜田なら、トラップを選んでいたかもしれない場面。
あるいは、前線のレオ・セアラにシンプルに預けていたかもしれない場面。

だがこの日は、自らリスクを取って、しかも利き足ではない左足で振り抜いた。
大久保は「抑えの効いたすげぇゴール」と評したが、その「抑え」がきくようになるまでには、長い時間と、幾度もの失敗と、そして周囲の助言が積み重なっている。

育成年代の指導現場で、時に難しいテーマとなる「積極性」と「安全性」のバランス。
喜田のこのゴールは、そのバランスを何度も失敗しながら探ってきたひとりのボランチが、「一歩、勇気を前に出した」瞬間でもあった。

香川真司とのダブルボランチが教えてくれたもの

2023年、セレッソ大阪はシーズン前半戦の折り返し、第17節で首位・ヴィッセル神戸と対戦した。
この試合で、喜田はシーズン初先発を掴む。
しかも、隣には元日本代表・香川真司。

トップ下のイメージが強い香川だが、この試合ではダブルボランチの一角に入る形。
中盤で並ぶのは、プロ6年目ながら、J1での出場機会が決して多くなかった24歳のボランチだ。

首位との大一番、そして象徴的な存在と組む中盤。
そこで喜田は、泥くさく中盤を走り、つなぎ、運び、守備でも体を張り、勝利に貢献する。
この試合以降、チームは優勝争いに食い込んでいく。

育成年代で「スター」のそばに立つとき、選手はふたつの態度を選べる。
一歩引いて「任せてしまう」のか。
それとも自分も主役のひとりとして、責任を背負うのか。

香川と並んだダブルボランチは、おそらく喜田に、後者の覚悟を突きつけた。
そして彼は、その問いから逃げなかった。

「強度に負けた」過去と、「俯瞰できる」現在

2024年、2025年にかけて、喜田はセレッソに欠かせないボランチへと変わっていく。
その裏には、苦い記憶と、そこから学んだ具体的な成長がある。

2024年のシーズンを振り返る中で、自らこう語っている。

強度の高い相手にボールロストを繰り返し、失点にもつながってしまった経験。
「それもいい勉強だった」と振り返る24歳は、今では「いい意味でプレーに余裕があり、ピッチを俯瞰できている」と評されるようになった。

ボールを受けても慌てず、左右に大きく展開し、運動量でピッチをカバーする。
柏戦では総走行距離11.3キロを記録し、チーム1位。
試合後は脱水症状で取材対応ができないほど、走り尽くした。

ピッチを「俯瞰」している選手ほど、実は誰よりも走っている。
視野を広げるためには、ポジションを変え続けなければいけないからだ。
楽になったのではなく、「走る質」が変わった。
それが、数字にも、チームの信頼にも表れている。

右膝半月板断裂。「宿題」として受け取った大けが

キャリアは上り坂だった。
だが2023年12月、右膝半月板を断裂し、手術。
サッカー選手にとって、膝の大けがは、単なる「離脱期間」以上の重さを持つ。

2024年8月に予定されていた大阪ダービー第29節は、台風で延期となり、10月2日に順延。
もし予定通りに行われていれば、喜田はベンチ入りすらできなかった。
だが代替開催日の頃には、すでに今季初出場も果たし、3試合連続先発でダービーに臨むところまで復調していた。

本人はこう語る。

「延期して、この日になったのは(結果的に)いいというか。僕の中では特別な試合」

下部組織時代から、「ガンバ大阪には絶対に負けてはいけない」と育ってきた。
その大阪ダービーに、右膝の大けがを乗り越えて、J1では初めて先発で立つ。

泉大津の少年が、セレッソ大阪のボランチとして、「宿敵」と教え込まれた相手に挑む。
そこに至るまでのリハビリの日々を想像すると、「間に合った」ことの意味の大きさが見えてくる。

彼は母校の夢授業で、こんな言葉も残している。

「怪我で苦しんだ時もあったが、それは自分に与えられた宿題でした」

怪我を「不運」として嘆くのではなく、「宿題」として受け止める姿勢。
育成年代の選手にとっても、指導者や親御さんにとっても、この考え方は、多くの局面でヒントになるはずだ。

「サッカーをやめたいと思ったことは?」という問い

2024年12月16日。
喜田は、母校・泉大津市立浜小学校で行われたキャリア教育の一環として、「夢授業」に立った。
100人ほどの5、6年生を前に、自身の半生を語り、サッカー教室、給食交流と、一日を母校で過ごした。

児童からの質問は率直だ。

「サッカーをやめたいと思ったことはありますか?」

喜田の答えは、驚くほど等身大で、同時に強い。

「中学生のとき、友達ともっと遊びたいと思ったこともあったけど、サッカー選手になることが夢だったので、必要なのはサッカーの練習だと思い直しました。だから、サッカーをやめたいと思ったことはなかったですね」

「やめたいと思わなかった」という言葉の裏には、「迷った時間」がはっきりと存在している。
その迷いを、最終的に「夢」を優先することで乗り越えた。

育成年代の選手たちは、部活、勉強、友人関係、家族との時間、さまざまな選択肢の中で揺れる。
指導者も、親御さんも、そうした迷いとどう向き合うかに、いつも頭を悩ませている。

「やめたいと思ったことはない」と言い切る選手の多くは、「迷った瞬間」を経験している。
そのとき、「自分は何を一番大事にしたいのか」を問い直した人だけが、その後の厳しい時間を耐え、進み続けるのかもしれない。

ゴールへの喜び、仲間と家族への感謝

夢授業で、こんな質問もあった。

「サッカーをやっていて一番嬉しかったことは?」

喜田は、J1初ゴールの瞬間をこう表現している。

「初ゴールは本当にうれしくて、走り回って嬉しさを表現しました。みんなも、それがバスケット(ボール)でも、なんでもゴールしたとき同じだよね」

エリートと呼ばれた選手も、J1のピッチに立ったプロも、「ゴールが決まったときの喜び」は、児童たちと何も変わらない。

そして彼は、夢授業の中で、忘れずに「送り迎えをしてくれる両親への感謝」を伝えている。
これは、どのレベルの選手にも共通する、しかし時に見落とされがちな視点だ。

練習場までの送り迎え。
遠征費やスパイク代。
食事の準備、洗濯、スケジュールの調整。

選手と同じか、それ以上に「サッカー中心の生活」を送っている親御さんが、全国にどれだけいるだろう。

喜田が「両親への感謝」を子どもたちに語るとき、そこには、自分自身が歩んできた道と、支えてくれた存在への実感が込められている。
それは、今まさに子どもを支えている親御さんにとっても、「報われる言葉」になっているのではないだろうか。

攻撃的サッカーの中で見えている「守備」の価値

2025年シーズン、セレッソ大阪はアーサー・パパス監督のもと、「前に前に」という攻撃的サッカーを掲げている。
システムも3-4-2-1に変わり、ボランチには以前にも増して「攻撃の起点」としての役割が求められる。

喜田は、公式戦6試合連続先発と、チームの中心選手としてピッチに立ち続けている。
その中で、彼の口から出てきたのは、こんな言葉だった。

「キャンプから前に前にプレーすることをやってきた。僕ももっと意識したい」

そして同時に、こうも語っている。

「攻撃と守備はつながっていると思う。前にプレーすることでゴールから遠ざかれる」

「攻撃は最大の防御」。
耳なじみのあるフレーズだが、それを実際にピッチで表現するのは簡単ではない。
リスクを取りながら、同時に「失点しない」という結果を求められる。

今季のC大阪は、アウェーでまだ完封がない中で浦和戦に臨もうとしている。
その状況で、ボランチの選手が「攻撃と守備のつながり」を言語化できていること自体、このチームの「考えるサッカー」の片鱗だろう。

育成年代でも、「攻撃的サッカー」と「守備の安定」は、しばしば対立するテーマとして扱われる。
だが、本当に必要なのは「両者をつなぐ視点」を持つ選手だ。
喜田陽というボランチは、まさにその「つなぎ目」としての価値を、少しずつ示し始めている。

大阪ダービーを前にした、アカデミー出身者の覚悟

2024年10月2日、平日開催としては20年ぶりとなる大阪ダービーがヨドコウ桜スタジアムで行われた。
プロ6年目の喜田にとって、この試合は特別な意味を持っていた。

下部組織時代から、「ガンバには絶対に勝たないといけない宿敵」と教育されてきた。
その思いを、今度は自分がピッチから体現しなければいけない側になった。

オンライン取材で、彼はこう言葉にしている。

「アカデミーの選手が、そういう思いを持って戦うことで、サポーターも喜んでくれる。自分が引っ張っていければ一番いい。楽しみ」

この感覚は、アカデミー出身者にしか分からないものかもしれない。
クラブの歴史、ライバル関係、サポーターの感情。
それらすべてを「肌で知っている」選手がピッチに立つことは、単なる戦力以上の意味を持つ。

育成年代の指導者にとっても、「クラブアイデンティティを理解し、背負える選手を育てる」ことは、大きなテーマだろう。
喜田陽という存在は、その答えのひとつになりつつある。

「好きなことをもっと楽しんで」――夢は続いていく

泉大津市立浜小学校での夢授業の最後に、喜田は児童たちへ、こうメッセージを送っている。

「児童の皆さんがそれぞれ好きなことをもっと楽しんで、さらに大きな夢をもって欲しい」

U-12からセレッソ一筋。
世代別代表として世界の舞台を経験し、J3で70試合近く出場しながら、J1ではなかなか出場機会を得られない時期もあった。
レンタル移籍、度重なる故障、右膝の大けが。

それでも、「サッカーをやめたい」とは思わなかった。
怪我を「宿題」として受け止め、代表歴を「過去の栄光」ではなく「今につながる経験」として捉え直し、静かな性格のまま、でもプレーは少しずつ「ガツガツ」と前に出るようになった。

2025年、C大阪の中盤で走り続ける24歳のボランチは、まだ完成からは程遠い。
だが、だからこそ、これからも新しい「宿題」が、彼の前には何度も現れるだろう。

その一つひとつにどう向き合うのか。
そこに、同じようにJリーグを目指す選手たちや、指導者、親御さんが重ね合わせられる問いがある。

あなた自身や、あなたが指導する選手にとって、「今、与えられている宿題」は何だろうか。
そして、その宿題に、喜田陽のように向き合う覚悟はあるだろうか。

泉大津の少年が、J1のボランチとして走る姿は、今日もその問いを、静かに投げかけ続けている。

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