昌子源という物語。フォワード志望の少年が、町田で「0から1」のカップを掲げるまで
「いいときはみんなのおかげ」
この言葉を好きな言葉として挙げるサッカー選手がいます。
FC町田ゼルビアのキャプテン。
そして、Jリーグ通算300試合出場、ワールドカップ経験も持つセンターバック。
昌子源。
その名前は、鹿島アントラーズの黄金期を知る人にとっては、どこか懐かしく、そして今、FC町田ゼルビアを応援する人にとっては「頼れる背番号」を意味するでしょう。
ただ、そのサッカー人生は決して順風満帆ではありませんでした。
途中でサッカーから離れた中学時代。
「フォワードをやりたい」少年が、嫌々ながらセンターバックにコンバートされた高校時代。
ヨーロッパ移籍とケガ、コミュニケーションのすれ違い。
そして、ガンバ大阪での苦しい日々。
それらの紆余曲折を経て、2024年の今、FC町田ゼルビアでキャプテンとして天皇杯を掲げるに至るまで。
昌子源というサッカー選手の「物語」を、もう一度たどってみたくなります。
神戸の少年、フォワードからの出発
1992年12月11日。
兵庫県神戸市北区に、一人の男の子が生まれました。
父はJFA公認S級ライセンスを持つ指導者・昌子力。
母は元プロのソフトボール選手で、引退後は女子サッカーリーグでもプレーしたアスリート。
スポーツ一家に生まれた昌子源は、小学生の頃、フレスカ神戸で本格的にサッカーを始めました。
そのポジションは、フォワード。
点を取りに行く、前線の選手でした。
中学生になると、当時から名門だったガンバ大阪ジュニアユースへ。
チームメイトには、後に日本代表でも名を馳せる宇佐美貴史や大森晃太郎。
中学1年のときには、彼らと一緒に同じピッチに立ってプレーしていました。
しかし、中学2年の頃。
膝のケガに悩まされ、満足にプレーできない日々が続きます。
やがて中学3年の途中で、G大阪ジュニアユースを退団。
一時は「サッカーをしない」空白の時間もありました。
華やかなエリート街道に見えていた道が、突然途切れてしまう。
もしそのままフェードアウトしていたら、Jリーグ300試合出場のセンターバックは、この世に存在しなかったかもしれません。
「高校ではサッカーをしないつもりだった」少年を変えた、米子北高校との出会い
流れを変えたのは、父の仕事でした。
JFA公認S級コーチでもある父・力さんは、指導者講習会のインストラクターを務めていました。
その場に、米子北高校サッカー部のコーチ・中村真吾が参加。
中村コーチは、進路が決まっていなかった源の話を聞き、こう提案します。
「じゃあ、一度、米子北に練習に来てみないか」
当時、源は高校でサッカーを続けるつもりはありませんでした。
それでも、練習参加をきっかけに、米子北高校への進学を決めます。
「新たなスタート」でした。
ただし、最初から順調だったわけではありません。
大型フォワードとして期待されて入学したものの、なかなか試合に出られない。
ベンチで試合を眺める日々が続きます。
「FWをやらせてくれよ」から始まった、センターバック人生
転機は高校1年の夏。
当時JFLだったガイナーレ鳥取との練習試合。
試合中、味方ディフェンダーがケガをしてしまいます。
たまたま監督の隣に座っていたのが、フォワードの昌子源。
そこで監督から声がかかりました。
「おい、昌子。お前、センターバックやってみろ」
相手には、コートジボワールの世代別代表を経験したFWコン・ハメド。
5歳年上の強力なストライカーを相手にしながら、昌子は堂々と守ります。
この試合をきっかけに、監督・城市徳之からセンターバックへのコンバートを命じられました。
本人は、当時の気持ちをこう振り返ります。
「最初は本当に嫌だった。FWをやらせてくれよとずっと思っていた。
でも、監督やコーチからは『絶対にFWはやらせない』と言われて、高校2年にあがる時には、CBを真剣にやらないと試合に出られなくなると思って、取り組むようになった」
「やりたいポジション」ではなく、「必要とされるポジション」へ。
そこで、気持ちを切り替えて取り組んだことが、後の日本代表センターバックへの道を開きました。
やがてレギュラーに定着し、センターバックとしての才能が一気に花開いていきます。
高校3年になる頃には、U-19日本代表候補として招集されるまでに成長。
ただし、代表候補合宿でのヴィッセル神戸との練習試合では目立てず、結局は候補から落選します。
「順調のようで、土壇場で外れる」。
そんな悔しさも、高校時代から彼の中には積み重なっていきました。
鹿島アントラーズで掴んだ「常勝」と「世界」と「ACL優勝キャプテン」
2011年。
高校卒業後の進路として、昌子源が選んだのは鹿島アントラーズ。
同期には柴崎岳、梅鉢貴秀、土居聖真ら。
後にクラブの中心となっていく面々と共に、プロの世界へと足を踏み入れました。
2014年シーズンには、リーグ戦全試合フル出場を達成。
Jリーグ優秀選手賞も受賞し、「日本を代表するセンターバック」としての評価を確立します。
特に印象的なのは2016年。
Jリーグチャンピオンシップ決勝・浦和レッズ戦で守備の要として優勝に貢献。
FIFAクラブワールドカップでは、開催国代表として世界と対峙し、鹿島は世界2位という快挙。
レアル・マドリード相手にも互角以上に戦うその姿は、日本中の記憶に残りました。
守備面ではフィジカルと対人の強さに加え、ロングフィード、カバーリング、ポジショニング。
高校時代には京都サンガの秋田豊、鹿島時代には岩政大樹からヘディングの指導も受け、その強さに磨きをかけていきます。
2018年、ロシアワールドカップでは「レギュラー組唯一のJリーガー」として日本代表に名を連ねました。
開幕前のパラグアイ戦でスタメン出場し、そのまま本大会初戦のコロンビア戦でもスタメン。
アジア勢としてW杯史上初の南米勢撃破という歴史的勝利に貢献します。
ワールドカップでの活躍もあり、夏には海外クラブから巨額のオファー。
それでも彼は、当時こう決断します。
「鹿島でACLを獲ることを目標に、オファーを断った」
しかし、その矢先。
左足首を負傷し、約3か月の離脱。
復帰後、キャプテンとしてACLに臨み、2018年に鹿島アントラーズはクラブ初のアジア王者に。
ACL優勝という、クラブ通算20冠目のタイトルでした。
その時、監督の大岩剛からかけられた言葉。
「お前を主将にして良かった」
若手の頃に「先輩におんぶにだっこ」で味わったタイトルとは違う。
自分が先頭に立ち、責任を負いながら掲げたカップは、きっと重さも意味も、まるで違っていたはずです。
フランス・トゥールーズでの苦悩。ケガとすれ違い、そして帰国へ
その年の終わり。
2018年12月29日。
昌子源はフランス・リーグアンのトゥールーズFCへ完全移籍します。
移籍金は約300万ユーロ。
横浜F・マリノス元監督のエリク・モンバエルツの推薦もあったと言われます。
2019年1月、ニーム戦でデビュー。
そのシーズンはレギュラーセンターバックとしてプレーし、トゥールーズの残留に貢献しました。
しかし、翌シーズン。
プレシーズンでハムストリングを負傷。
復帰戦ではまた足首をケガ。
続けざまの負傷に加え、自身を起用し続けてくれたカサノヴァ監督の解任もあり、出場機会は激減します。
さらに、足首のケガを巡って現地メディカルスタッフとのコミュニケーションの行き違いもあったと、後に語っています。
海外で言葉も文化も違う中、身体の状態という一番繊細な部分でのすれ違い。
ピッチの中だけではどうにもならない難しさと、プロとしての決断が必要な時期でした。
ガンバ大阪での帰国、期待と葛藤。そして大阪ダービーの騒動
2020年2月4日。
昌子源は、古巣でもあるガンバ大阪へ完全移籍。
約200万ユーロの移籍金、5年契約とも報じられました。
しかし、ここでもケガに悩まされます。
8月、ルヴァンカップ大分戦でようやく移籍後初出場。
横浜FC戦でリーグ戦デビューも果たしましたが、かつて鹿島で見せていたような「揺るぎない安定感」をフルシーズンで発揮するには至りませんでした。
チームも成績不振に苦しみ、2022年のワールドカップイヤーには日本代表への招集も途絶えます。
そして2022年5月21日。
セレッソ大阪との大阪ダービー。
チームは1-3で敗れ、シュート2本、後半シュートゼロという内容。
試合中には、味方FWレアンドロ・ペレイラとピッチ上で言い合いをし、試合が一時中断する場面もありました。
試合後には、一部サポーターがスタンド前方に押し寄せ、威嚇行為や侮辱、運営への妨害行為も発生。
クラブは当該サポーターグループに無期限入場禁止を通達するなど、クラブ全体が混乱の中にありました。
昌子源という選手は、しばしば「感情」を隠しません。
良い意味でも、悪い意味でも、真っ正面から向き合ってしまうタイプです。
勝ちたいからこそ、仲間に厳しく言う。
その姿勢が、時にぶつかり、時に評価される。
ガンバでの時間は、彼にとって「うまくいかなかった時期」とまとめてしまうにはあまりに重く、いろいろな感情が交錯した数年間だったはずです。
鹿島への帰還、限られた出場時間。そして、町田ゼルビアという新しい挑戦
2022年12月8日。
昌子は、古巣・鹿島アントラーズへの完全移籍での復帰を決断します。
しかし、5年ぶりの鹿島でのシーズンは、開幕前のケガで出遅れ。
若いセンターバック関川郁万がレギュラーに定着していたこともあり、リーグ戦出場は21試合、合計644分に留まりました。
そして2023年12月25日。
FC町田ゼルビアへの完全移籍が発表されます。
「J1未経験のクラブに、ワールドカップ経験者が行く」。
そんな見出しで語られることもあった移籍でした。
ここから、昌子源の「第3章」ともいうべきサッカー人生が始まります。
「町田って、東京なんや!」から始まった日々。キャプテンとしての覚悟
移籍を考える時、彼はまず、町田OBであり友人でもある太田宏介に連絡を入れました。
「移籍の話があった時に、こうちゃんに連絡入れたんですけど、まずはどんなチームかを聞きましたね」
関西出身の昌子にとって、「町田」のイメージはあまりありませんでした。
「正直、ゼルビアっていうチームがあるから町田を知っていたって感じ。
関西出身ですし、鹿島にいた時も東名高速を通り過ぎるだけで、意識したことがなくて。
『東京なんや!』っていうイメージでした(笑)」
しかし、FC町田ゼルビアは2024年、クラブ史上初のJ1挑戦。
そのチームで、彼はキャプテンマークを巻くことになります。
J1の舞台。
新参者のクラブ。
若い選手たち。
そして、まだJ1の空気に慣れていないサポーターと街。
そのすべてを引き受けるように、彼は「ことば」と「行動」でチームを引っ張ります。
「4万人を黙らせにいくぞ」――埼スタでの浦和レッズ戦
2024年5月。
埼玉スタジアムで行われた浦和レッズ戦。
浦和サポーター約4万人に対して、町田サポーターは約2000人。
圧倒的なアウェイの雰囲気。
ただ、昌子にとって、埼スタは「何度も戦ってきた場所」でした。
鹿島時代にタイトルを懸けて戦い、優勝したこともあるスタジアム。
そこで、彼は若い仲間たちにこんな言葉を投げかけます。
「試合前に円陣を組んだときに、『4万人を黙らせにいくぞ』って言わせてもらいました」
浦和レッズの応援は、日本でも唯一無二。
「We Are REDS」のコールが鳴り響く埼スタを、敵として味わうのは相当なプレッシャーです。
それでも「そこを黙らせる」ことこそが、アウェイで勝利するということ。
試合に勝ち、スタジアムが一瞬「シーン」と静まり返った瞬間。
彼は、若い選手にこう声をかけたと言います。
「ほら、シーンってなったぞ」
『ホントだー!』って(笑)
4万人の前で、「ゼルビアサポーターだけの声」が聞こえる時間。
肩を組んで行うラインダンスの時も、ブーイングにかき消されるかと思っていた声が、はっきりと届いてきた。
アウェイのど真ん中で、たしかに「町田の存在感」が刻まれた試合でした。
「勝って当たり前」と言われるクラブに――キャプテンの視点
J1でサッカーを盛り上げるために必要なことは何か。
そう問われた時、彼の答えははっきりしていました。
「まず僕らが今年だけじゃなくて、毎年J1にいるのがマストで、毎年優勝争いして…というのが、正直絶対条件みたいなところがあると思うんですよ」
町田には、平河悠、藤尾翔太、谷晃生など、若くて魅力のある選手たちがいます。
彼らを「見たい」と思ってくれる人が増え、それがやがて「ゼルビアを応援しよう」につながる。
その循環を生むには、やはりピッチでの結果が欠かせません。
そして、鹿島やガンバで感じた「強豪クラブ」の基準を、町田にも求めます。
「レッズとか鹿島とかガンバって、5連勝していても、6連勝目で負けたらブーイングがくるような、そういうチーム。
ゼルビアもそういうところにしていきたいと思います。
勝って当たり前のチームにならないといけない」
厳しい声も、ブーイングも含めて、「強さの証」だと知っているからこその言葉でした。
彼は、キャプテンとして若手に厳しく言うことも少なくありません。
その一方で、こんな考え方を持っています。
「僕は言ったこと、求めたことによって、責任が生まれると思っています。
『やれよ』って言っても、『源くんやってないやん』って言われるのが一番ダサい。
だから、言った以上に自分がやらないと説得力がない」
キャリアのあるベテランこそ、一番走る。
一番声を出す。
一番体を張る。
「キャプテンの背中」でチームを引っ張ろうとする姿が、町田のピッチにはあります。
川崎戦の涙、そして天皇杯での「0から1」
2024年8月31日、川崎フロンターレ戦。
それまで13試合無敗だった町田は、3-5で敗戦。
試合後のサポーターへのあいさつの場面で、キャプテンは涙を浮かべていました。
しかし、その時、スタンドにいた町田サポーターの姿勢が、彼の心を強く動かしたと言います。
「Jリーグで川崎戦の後の皆さんの姿勢を見て、すごく心を打たれる部分がありました。
あの時に見せていただいた皆さんの姿を見て本当に心を打たれました。
あなたたちのためにやらないといけないんだって強く思いました」
勝っているときだけではなく、負けたときにも、拍手と激励を送ってくれる人たちがいる。
その存在が、「この人たちのために戦う」という覚悟を強くしていきます。
そして、2024年11月22日。
天皇杯決勝。
相手はヴィッセル神戸。
幼い頃を過ごした街のクラブを、決勝で迎え撃つことになりました。
前半6分、藤尾翔太のゴールで先制。
さらに相馬勇紀が追加点。
後半には藤尾が勝負を決める3点目。
神戸の反撃を1点に抑え、FC町田ゼルビアはクラブ史上初となる「天皇杯優勝」を掴みました。
試合後、フラッシュインタビューでマイクの前に立った昌子源。
その目には涙が浮かんでいました。
「やはりホッとした感情があります」
「タイトルを0から1にするのが一番難しいことだと思いますし、
僕も鹿島時代にいろいろなタイトルを獲らせていただきましたけど、
その時は本当に僕もまだまだ若手で、先輩におんぶに抱っこの状態で獲らせていただいた。
今回は自分が何としてもチームの先頭に立って、必ずカップを掲げるんだという思いでこの1週間準備してきました」
鹿島では「強いクラブの一部」として獲ったトロフィー。
町田では「まだ何も持っていないクラブ」にとっての初タイトル。
その差を、彼自身が何よりも分かっていました。
「0から1」をつくることの難しさ。
それを、キャプテンとして実現した日。
そして最後に、彼はサポーターへ、あらためて感謝を伝えます。
「川崎戦の後の皆さんの姿勢を見て…あなたたちのためにやらないといけないんだって強く思いました。
本当にありがとうございます。おめでとうございます」
Jリーグ300試合、そして「これから」の町田と昌子源
2025年、J1第18節ファジアーノ岡山戦。
この試合で、昌子源はJリーグ通算300試合出場を達成しました。
ガンバ大阪ジュニアユースでの挫折。
高校でのコンバート。
鹿島でのタイトルラッシュとACL優勝キャプテン。
ロシアW杯での南米撃破。
フランス・トゥールーズでのケガとすれ違い。
ガンバ大阪での苦しい時期と大阪ダービーの騒動。
鹿島復帰も、限られた出番。
そして、J1初挑戦の町田ゼルビアでキャプテンとしてタイトルを「0から1」に変えた物語。
そのすべてが300試合という数字の中に、ぎゅっと詰まっています。
今、町田の街では、ゼルビアの快進撃とともに、サッカースクールの会員数も増えています。
昌子の息子も、ゼルビアのスクールに通っていると言います。
「今年会員数がすごい伸びてるって聞きました。
『源くんたち、トップが頑張ってくれているからです』って言われたんですよ」
トップチームの結果が、子どもたちの憧れをつくる。
そのことを、彼はよく分かっています。
「1回の観戦で終わらず、自然と観戦人数って増えていく。
子どもたちは『ゼルビアに入りたい』って言ってくれると思う。
もう、ほんとうに、僕たちの活躍に8割くらいかかってるんじゃないですか(笑)」
だからこそ、彼は言います。
「本当の勝負は、来年からだと僕は思ってるんです」
J1に上がったことがゴールではなく、「J1にいるのが当たり前」「優勝争いをして当たり前」のクラブになること。
その難しさと重さを知っているキャプテンが、今、町田の最終ラインに立っています。
小学生の頃、フォワードとしてゴールを夢見ていた少年は、今、センターバックとしてゴール前を守りながら、もう一つのゴールを目指しています。
それは、FC町田ゼルビアというクラブが、街の子どもたちにとっての「憧れのクラブ」になること。
そして、町田という街に「サッカーがある日常」を根づかせていくこと。
スタジアムで、300試合を戦ってきたセンターバックの姿を見上げるとき。
そこには、挫折も、悔しさも、歓喜も全部抱えた背中が、静かに立っています。
その背中を見て、「自分もあそこに立ちたい」と思う子どもが、きっと町田にも、神戸にも、日本中にもいるのでしょう。
「いいときはみんなのおかげ」と口にするセンターバックが、次にどんな景色を町田の街とサポーターに見せてくれるのか。
昌子源という名前を、これからもJリーグのスタジアムで探したくなります。



